失恋できない私の髪は短い

 髪を切った。もうすぐ胸の下あたりまできそうだった髪を、顎のラインでばっさり切った。
 「失恋したの?」
冗談で、ちょっと本気で、会う人みんながそう尋ねてくる。
「ただの気分転換ですよ。」
笑顔を作って私は答える。
「似合うね。」
社交辞令2割、本音8割。と私は思う。私は自分に短い髪が似合うことを知っている。今まで7年間、鎖骨より上の長さになったことのない、すっかり馴染んだ長い髪よりも、頭の形に沿ってきゅっとくびれたショートカットがとてもよく似合うことを知っている。
「ありがとうございます。」
軽く下げた頭が軽い。

 「髪切った。」
私が言うと、彼が笑った。
「さすがにそこまで違えば気付くよ。」
「変じゃない?」
「変じゃないよ。長いのより似合ってるんじゃない。」
知ってる。私は短い髪がよく似合う。

 だけど私にはもうひとつ、知っていることがある。彼の浮気相手は二人とも長い髪をしている。

 髪は長い方が好きだ、と彼は言った。パーマとかしてなくて、黒髪がいい。
 まだ付き合い始めたばかりの頃、自分のことをあまり話さない彼を色々と質問攻めにして聞き出した。
 短かった私の髪は肩まで伸びて、胸まで伸びて、肩と胸の間の範囲でちょっとずつ長さを変えた。結婚まではしなかったけど、私たちはうまくいっていた。と思う。今だって、彼と食べるためのご飯を作っているのだし、彼はたまに覗きにきては、手伝おうかと声をかけつつ、軽く私のお尻をたたく。うまくいっている。
 今から二人でご飯を食べて、そのあとは多分ごろごろしながら映画を見て、でもふざけ合ってるうちに映画なんかどうでもよくなって、ちょうどクライマックスくらいで映画を止めてセックスに励む。終わったら普通に服を着て、映画の続きを再生するものの、いつの間にか二人とも眠ってしまって、結局映画は何日経ってもエンドロールを迎えない。
 それは、もう何年も一緒に過ごしてきた私たち二人の日常だ。私がなによりも大事に思う、なんでもない一日の終わり。

 「でもなんで急に髪切ったの?」
肉野菜炒めの最後のひとくちを飲み込んで、スマホを手に取りながら彼が尋ねる。私は、口の中の白ご飯をゆっくりと咀嚼して、飲み込んだ。こちらを全く見ていない、彼の耳のあたりを見据えて言ってみる。
「失恋したから。」
 彼が顔を上げて、目が合った。お互い、笑っていた。
「嘘。ちょっと長いの飽きてきたから、イメチェン。映画の続き見よ。」

 二人してベッドに潜り込んで、私が前、彼が後ろで丸まった、いつもの姿勢で画面を眺める。映画の中ではどこかのスパイが、黒い髪をなびかせた女にキスをしている。彼は私を抱き枕にしたまま早くも寝息をたて始めていて、私はそっと振り返ると、彼のまぶたにキスをした。
 その時茶色い髪の毛を見つけた。枕元に落ちていた。長さは短めだった。こんな茶髪でもいいんだ、と思った。長くもないし。
 画面の方に向き直ると、スパイと女が互いに服を脱がせあっていた。スパイの顔を睨みつけて、私は少し泣いた。彼が半分眠ったままで、私を抱き寄せ、頭をゆっくりと撫でる。私の髪はいつ、肩まで伸びるだろうか。

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