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力強く咲く ー井波彫刻師・二代目花嶋一作

この記事では、伝統工芸のサブスク【TRADAILY】の作品と職人をご紹介します。


井波の本通り沿いの一角、ガラス戸から作業する姿が見える花嶋彫刻工房。
カラカラと力強く豪快に笑う声が印象的な、井波彫刻協同組合理事長・花嶋一作氏の工房だ。
訪れた日は雪がちらつく朝だった。朝から作業をする花嶋氏の工房にお邪魔したところ、YouTubeから流れるはやりのBGMが聞こえた。伝統的な彫刻が並ぶ工房内とのギャップに緊張がほぐれた瞬間だった。


作品:マグノリア

「マグノリア」、日本では「木蓮」とも。

額の中の空間で、生き生きと上へ上へと枝を延ばすマグノリア。
マグノリアは、春になったら上に向かって大きな白い花を開かせる花だ。
額の中でのびのびとしなやかに伸びる枝には、ぱっと大きく開いた花もあれば、今まさに開かんとしているものも、まだそのときを待つ蕾もあり、花の息吹を感じる…というか本当にそこで生きているのだ、ということを感じさせる。
満開もきっと優美で美しい、けれども、ひとつひとつの花が咲こうする姿に、生命の輝くような力強い美しさがある。

ちょっと深「彫」り(Q&A)

開いた花だけでなく開きかけの花や蕾もたくさんありますが、構図の意図など伺ってもよろしいでしょうか。
ーこれまでコブシやモクレンの蕾がリズミカルに膨らんでいる様子に面白味を感じて、自分の作品にも取り入れてきました。
花が満開になる前の蕾から花が咲き始める時期に力を感じているのでそういう構図に。
見てほしい点も、そういった生命力。

開いた花も、これからのものも。

また、これは「井波の今」でもあって。
井波のまちには近年他の地域から新しい人が集まってくるようになり、新しく店ができたり、色々なことが始まっています。
これから発展していく途上の「井波の今」の象徴として、敢えて満開ではなく、咲きかけのものや蕾を作りました。
ちいさな花芽、葉の芽は次から次へと出てくるものだから、そうして井波が発展していくようにという意味を込めて。

今回の作品で工夫した点などを教えてください。
ー欄間の透かし彫りを応用して制作しましたが、欄間と違って一枚板の中で枠を作って彫るわけではないため、強度を保つために花や枝など、どこかしらで繋がっているように構図を作りました。枝ぶりを一本一本想像しながらも、繋がりを考えて。
今回は、白太(しらた)を残したクスを使いました。赤太(あかた)と白太との部分部分での色味の違いも見てもらえたら。

※赤太(赤身)と白太
木を切るとまるい切り口をしています、見ると芯に近い部分が赤っぽい色、外側が白っぽくなっているのが分かります。
この色の違いから「赤身」「白太」といいます。学術的には赤身は「心材」、白太は「辺材」といいます。

【東京木材問屋協同組合】https://www.mokuzai-tonya.jp/blog/word/597.html
荒彫りの様子。こうして一枚板から彫り進めていく。

透かし彫りについて、通常の欄間との作り方との違いを教えてください。
ー元々欄間彫刻でも荒彫り(※最初に形を作る彫り)をするときは、強度が弱くなるところは最初から補強(繋ぎ)をして作り、仕上げていくときに繋ぎを取っていく作業をしていく。
欄間は一枚板から縁を残して中を彫りだすため縁と繋がっているが、今回は額装するため縁がない仕上がり。最初は縁がある状態で彫り進め、最後に縁を取りました。
最終的には繋ぎがなくなることを踏まえ、図案の中でお互いに補強し合えるように繋がりを持たせています。

※「欄間の繋ぎ」とは
買ってきたばかりのプラモデルのパーツを想像してみて欲しい。
縁の部分があって、それぞれのパーツが全部繋がった状態になっているはず。欄間の繋ぎとは、こういう状態を指す。これがあることで壊れにくくなる。

繋ぎをつくりながら。

これまでとこれから

成り行きで入った道で、自分の「型」ができるまで

花嶋氏は、井波で彫刻業を営む家庭の三人きょうだいの末っ子として生まれた。
息子は自分だけ。学生時代、反発心から家から離れたいと思ったことはあったが、姉二人は先に結婚して家を出ており、親を捨ててどっか行けるでもなし、心のどこかで家を継ぐんだろうな、と思っていた。

そもそも自分が子供のころは跡を継ぐのが当たり前の時代だった。
たぶん親もそう思っていたのかもしれない、と言う。

高校卒業後、父も師事した横山一夢氏に弟子入りした。
師匠は昔は怖い、厳しい人だったそうだが、その頃にはもう高齢だったためか丸くなり、優しい人になっていた。
5年の年季(修業期間)後は実家に戻った。
「自分の型」ができるまでに10年はかかったのではないか、という。
例えば『天神さん』。『天神さん』とは、富山県を中心に北陸地方で行われている慣習で、子供が生まれたら、祖父母が菅原道真公の木像を贈るというもの。
当然、井波にも『天神さん』の依頼が毎年あり、中には天神さんの依頼を中心に生計を立てているという彫刻師もいる。
花嶋家では父が顔を彫り、一作氏が体を彫るのが基本だった。
父が亡くなってからは自分で顔も彫るようになったが、しばらくは父が作った天神さんの顔を模倣していたという。何年も悩んで、あるとき、やっと「自分の型」ができた。

「自分の腕と限界との差を見て精進する。それが面白みでもあり、やりがいでもある。」

盛衰の後に想う、井波彫刻の未来

花嶋氏が彫刻の道に入った頃は高度経済成長期だった。
和風住宅に欄間が流行り、和室に衝立を置く家庭も多く、家にお金をかける時代だった。それは、二世帯・三世帯で住み、冠婚葬祭を自宅で行うことが当たり前だったためでもある。
しかし、核家族化が進んだ現代では、ライフスタイルが変わり、家も昔のような大きな家ではなくなった。冠婚葬祭は自宅の外が普通。当然、欄間や衝立の需要は減った。
そのため、氏の若き日のように「彫刻屋の息子は彫刻屋」が当たり前ではなくなった。

2024年現在、花嶋一作氏は井波の彫刻師たちが加盟する井波彫刻協同組合の理事長だ。

「自分らは作れるが、自分らの力にも限界があるから。
他の人に利用してもらいながら世間と繋がりをもって仕事に繋げないといけないと思う。」

現在、かつてのように欄間等の需要は減った。天神さんも、少子化の波によって注文数が減っている。
現在、井波の全人口約8,000人のうち100名以上の彫刻師がおり、他に類を見ない彫刻師のまちとして日本遺産にも指定されているが、「若手」と言われる人でも40代だ。そのような現状を鑑みれば、10年後はたぶん半数になっているのではないかと花嶋氏は言う。

「井波彫刻を使って一儲けしようという人が出てきてほしい。デザイナー、プロダクト系企業など、お互いにWin-Winになれるなら、井波彫刻を利用してもらっていい。」

「職人は仕事がないのが辛い。」

従来からの需要だけでなく、時代に合わせた何か。
それは、井波彫刻協同組合が受注した名古屋城本丸御殿の修復のような事業であったり、未知の新しいプロダクトかもしれない。
彫刻を生かせる仕事が増えればその分、彫刻師たちが技を磨き、井波全体の底上げになる。
またそれによって産業としての彫刻が発展していくことで若い担い手も増え、次代へ継承されていく。

井波彫刻の元々の考え方はオーダーメイドだ。
依頼人の要望に合わせて個々の彫刻師それぞれのセンスで依頼人に提案し、作る。
250年以上受け継がれ、研鑽されてきた確かな技術がそれを可能にしている。

余談だが、私がはじめて瑞泉寺で井波彫刻を見たときに、彩色されていないのになぜかものすごく鮮やかに感じた。
花嶋氏に訊いてみると、逆に素木(しらき)のままで仕上げるからではないか、との答えが返ってきた。金箔等に頼らず己の技だけで勝負しなくてはいけない分、技の粋を極めてアピールする必要がある。その「技」が鮮やかに見せているのでは。とのことだった。
確かに、瑞泉寺の彫刻の数々は、当時の技を極めた、おそらくは当時の彫刻師たちの一世一代の作品だったに違いない。
そのような井波彫刻の技が過去のものとならず継承されていってほしいと、心から願う。

花嶋氏から伺って感じたのは、古きにとらわれず新しいものを取り入れていこうという姿勢だった。
「伝統的でおカタいみたいな雰囲気があるが、それじゃ前に進めないと思っている」
井波がまだまだ知られていない現状を変えたい。井波の技術と知恵が継承され、発展していってほしいという熱い思いは、今まさに花開かんとするマグノリアのようだ。

プロフィール

1961年  井波町に生まれる
1980年  富山県立砺波高等学校 卒業
1982年  横山一夢氏に師事
1987年  井波木彫刻工芸高等職業訓練校 卒業
1988年  国立高岡短期大学 木材工芸専攻 卒業
1995年  職業訓練指導員免許取得
1998年  労働省認定一級井波木彫刻師となる
2002年  井波彫刻協同組合 理事
2008年  伝統工芸士に認定される
2009年  号 一作継承する
2012年  井波彫刻協同組合 常務理事
2018年  井波彫刻協同組合 総務部長
2019年 通商産業省 中部局長賞受賞
2020年 井波彫刻協同組合 理事長

※本記事は2024年4月時点での情報です

《この記事を書いた人》
池端まゆ子
時代が移りゆく中でも継承されてきたものに強く惹かれる。歴史、背景を知るのが好き。趣味は芸術鑑賞、料理、本の蒐集。

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