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日々、自分に嘘をつく

ドストエフスキー著、『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるのだが、気になった文章があるので紹介したい。

肝要なのは自分自身に嘘をつかぬことですじゃ。自ら欺き、自らの偽りに耳を傾ける者は、ついには自分の中にも他人の中にも、まことを見分けることが出来ぬようになる。すると、当然の結果として、自分に対しても、他人に対しても、尊厳を失うことになる。何者をも尊敬せぬとなると、愛することを忘れてしまう。
(中略)
自ら欺くものは、何より第一番に腹を立てやすい。実際、時としては、腹を立てるのも気持ちの良いことがある。そうではありませんか?そういう人はみな、誰も自分を馬鹿にした者はいない、ただ自分で侮辱を思いついてそれに彩をしただけなのだ、ということをよく承知しております。一幅の絵に仕上げるために自分で誇張して、僅かな他人の言葉に突っかかり、針ほどのことを棒のように触れ回る、———それをちゃんと承知しておるくせに、自分から先になって腹を立てる。しかも良い気持ちになって、何とも言えぬ満足を感じるまで腹を立てる。こうしてほんとうのかたき同士のような心持になってしまうのじゃ。

米川正夫訳 ドストエフスキー著 『カラマーゾフの兄弟』第一巻第二篇より

この文章は、ゾシマ長老という修道院の長老の言葉である。

私の生活を振り返ってみてみると、このセリフに当てはまることをしてしまっているように思う。このセリフの内容を基に生活を振り返りたい。


自分につく嘘と「怒り」

どうでもいいような些細な言葉であったり間違いだったり、そんなのにイラっとするのも、多くは「自分が被害を被った・キズつけられた」と思い込む、つまり自分に対して嘘をつくことが始まりだろう。冷静になると、わざわざ腹を立てることのほどでもないし、そもそも怒ったところでしょうがない、という場合が大半である。

腹を立てる時、人は心地良さを感じる。感情を露わにしたり、人に厳しく指摘するのは快楽を伴うからだ。
だが、これにはもちろん副作用がある。
第一に、周囲との関係性の悪化だ。そのような態度を続けていると、付き合いにくい偉そうなヤツ、として他人から忌避される。
第二に、自分の心がどんどん狭くなってくる。怒りの快楽に憑りつかれると、怒りの対象となる範囲が気が付かないうちに広がっていく。みなさんの身近にも、こんな状態の人物はいるだろう。


自分につく嘘と「逃避」

これが一番多い自分につく嘘だろう。一日何十回も唱えているかもしれない。
それは「でも」だ。

もちろん「でも」という言葉がプラスに働くことだってあるだろう。だが、日常では逃避としての文脈で使われることが多い。

・課題がたまっている、「でも」休日にはyoutube見てダラダラ過ごしたい。
・部屋が汚くなってきた、「でも」まだ掃除するのには早い。

こんなのは日常よく思うことだが、だがその小さな逃避が人生に影響してしまうことだってある。

いつまでも逃げ続けていたら、自分の力を発揮できず、そのままくすぶり続ける人生を過ごしていくだろう。
そしてそんな人に限って、まともに自分に向き合ってこなかったから、悪い意味で自分の限界や能力値が分からず、「まだ自分はやれるはずだ」とか「自分は過小評価されている」などと弁明し続け、その結果、他者を貶める権限がまるで自分にあるかのように振る舞う。

長期的に見ると「でも」で逃げずに、目の前のやるべきことに取り組んだ方が幸せだろう。


噓をつかない生き方

まとめると、
冷静に自分を俯瞰し、自分が嘘をついていないか見つめて生きていくのが大事だ。

自分への被害を勝手に妄想したり、誇大にして腹を立ててはいないか?
自分の純真な思いに沿って行動できているか?逃げてはいないか?

その問いに対して嘘をつかず、yesと答えていけるようにしたい。

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