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フォルティッシッシモ・ライブラリ


北町にある私設図書館の入り口には、「利用者の皆様へ」から始まる、以下のような文章が貼り出されている。

「ハナビシ図書館で読書をされる際は、必ず(以降、句点まで傍点)、音読をしていただくこととなっております。音声エネルギーはマイクに集められ、変換されて、館内の電力として使用されます。利用時間に応じて、皆様にご提供いただく音声エネルギーの量が定められております。必要なエネルギー量に達しなかった場合は、お一人様一律二千円(金額横に傍点)をお納めいただきます。声の小さい方、『本は黙読』と心に決めておられる方は、どうぞご遠慮ください」

かれこれ10分ほど図書館の入口を眺めながらうろうろしていた私は、意を決して、自動ドアの前に立った。

***

私には、クラスの中に気になる男の子がいた。彼は、黒目がちで、痩せっぽっちで、髪がさらさらで、左利きだった。名前を、ソウタくんと言った。

スポーツマン至上主義の学校で、ソウタくんはとても生きづらそうだった。机の上にたくさん本を積むことで壁を築き、自分を守ろうとしているように見えた。

ある日、私はソウタくんに話しかけてみることにした。
「かわいい栞だね」
「ハナビシ図書館でもらったんだ。あの、スーパーの近くにあるところ」
ソウタくんは、小さな声で応えた。
「ソウタくんは、よく図書館に行くの?」
「うん、毎週日曜日に行ってるの。いっぱい通ったから、これがもらえたんだよ」
ソウタくんは、微かに笑顔を見せた。

そうか、日曜日にハナビシ図書館に行けば、ソウタくんに会えるのか。

冬のソウタくんは、他の季節よりも更に色が白い。

***

次の日曜日。意気揚々とハナビシ図書館に向かった私は、貼り紙を読んで作戦を変更した。

「できるだけ卑猥な本を探してから、入館することにしよう」

読むのだ、大きな声で、ソウタくんの近くで。艶かしい言葉の数々を。
顔はブサイク、暗い性格、声が通るだけが取り柄の私。他のものがなくても、この声があってよかった。どんなにかしましい場所でも、きっと彼に届けることができる。

ソウタくんはどんな顔をするだろう。頬を赤らめるだろうか。眉をしかめるだろうか。私のことを、白い目で見るだろうか。

それを、確かめてみたい。

毎日睡眠時間を削って読書に明け暮れ、ついに見つけた究極の一冊は、しかし文学作品として高く評価されている外国の小説で、配架されていない図書館を見つける方が難しい。ハナビシ図書館OPACも、私の背中を押してくれた。

***

図書館の中は、100人の魚屋を洗濯機に放り込んだらこんな様子になるんじゃないかしら、と思われるような、モジャモジャした喧騒で満ちていた。

それでも、私にはソウタくんがすぐにわかった。お気に入りらしく、よくブレザーの中に着ている真っ白なカーディガンを身に付けていたからだ。口を大きく開けて、動物の本を読んでいる(ソウタくんは、犬が好きみたいだ)。そのかわいい声を、きちんと使いきろうとしている。

私が髪を伸ばしているのは、いつもは一つに縛った髪を前から後ろから下ろすことでバリアとするためで、それはつまり、こうした、いざというときに役立てるためであった。

ソウタくんの声に励まされるようにして、私はゆっくり彼の斜め前の席に腰かけた。ソウタくんは、気づかない。
私は本を開き、マイク近くのスイッチを押して(こうすることで、音のエネルギーが収集され始める)、前髪と前髪の間から見える活字を確かめた。

そして息を吸う。

一度、吐く。

また吸って、1行目を、丹念に、足場にするように、大きな声で読んだ、そのとき。

「あら、鈴木先生!」

声がかかったのは、斜めからじゃなくて、真っ正面からだった。

「ソウタがいつもお世話になっております、ほんとに。いつも電話させていただいて、ごめんなさいね。ほら、ソウタも、挨拶なさい!先生に、お薦めの本でも聞きなさい。ね、先生、今日は何を読んでいらっしゃるの?」

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