見出し画像

人間の抽象化能力を支える側頭葉の進化。

趣味の記事です。
僕が書きたいことを書きたいままに書いているだけ。
興味があれば見てください。

ヒトの進化は僕の関心があるところでして、「なぜヒトは二足歩行を獲得したのか」とか「ホモ・サピエンスが生き残ったのは何故か」とかを考えるのが結構好きなのです。

ヒトが生き残ってきた要因として(これは受け売りなのか自分で思いついたのか今となっては定かではないのですが)、僕は『抽象化する能力』がキーになっていると考えています。
脚が遅く力も無いヒトが生き残るためには、複数人で協力することがもっとも生存率を高める戦略であったはずです。そして、みんなで狩猟採集をして獲得した食料を分配するというような協力関係を築くためには、みんなが「同じ」であるという認識が必要です。

「同じ」というのは具体的なレベルから、一段レベルを上げてまとめ上げるという操作が必要で、それを僕は抽象化と読んでいます。私とこれを読んでいるあなたは全くの他人ではありますが、同じ日本人です。私とあなたという具体的な事象を、日本人という抽象的な言葉でひとくくりにすることで「同じ日本人どうし協力して頑張ろう」というようになるわけです。この抽象化能力こそがヒトとヒトの協力関係を強固なものにして、生存を可能にしてきたのだということが言いたいことです。

そしてその抽象化能力を支えているのが、側頭葉であると考えています(これも受け売りかどうか忘れちゃいました)。
側頭葉は聴覚と視覚の認知機能を持っています。音を聞いてもモノを見ても同じ側頭葉が活性化するということで、これは音の情報と視覚の情報が結びつくということです。お母さんが犬を指さして「わんわん」と呼べば、子どもの頭の中では「わんわん」という言葉と犬の姿が結びついて、わんわんと犬は「同じ」という認知が出来上がります。
さらに拙い言葉で「わんわん」と言えばお母さんは大喜びで褒めてくれるでしょうから、犬を「わんわん」と呼ぶ行動が強化されていき、「わんわん」と犬は同じであるという結びつきは強くなっていきます。

ヒト以外の動物は側頭葉が大きくは発達していないので、聴覚認知と視覚認知が結びつくということはおそらくありません。ですので「同じ」を認知することはできないはずです。動物は絶対音感があるというのを何かで読んだことがありますが、おそらくペットの犬はお母さんの言う「ポチ」とお父さんの言う「ポチ」を別々の「ポチ」として認知している可能性が高いです。少なくともポチという言葉が自分と「同じ」であるとは考えていないはずです。
ヒトに絶対音感が無い(たまにいるけど)のは、高い音と低い音を別の音だと認知してしまうと言葉の持つ抽象化能力が激減してしまうからでしょう。女の子の高い声の言葉も男性の低い声の言葉も同じ言葉として聞こえないと都合が悪いのです。

こうして耳から入った音情報(言葉)と視覚情報が結びつき次第に「同じ」を理解していきます。「同じ」を理解できるということは、抽象的な思考が可能になるということです。
これを昔からよく言っているのがバカの壁を書いた養老孟司さんです。動物は「同じ」がわからない。「同じ」がわかるのは人間だけ。僕は養老孟司さんからかなりインスピレーションを受けています。

さて、側頭葉が抽象化能力を支えているということでおそらく間違いないのですが、ヒトと同じくらい脳みそが大きな生き物が実はいました。それはネアンデルタール人です。脳の容量は同じくらいなのに、ホモ・サピエンス(ヒト)が生き残りネアンデルタール人は絶滅しました。

ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは、体の大きさも同じくらい、脳の大きさも同じくらい、互いに二足歩行をしています。違ったのは頭蓋骨の形と歯の大きさです。ホモ・サピエンスの頭はネアンデルタール人よりも横に丸みがあり、側頭葉を収めるスペースが多くあります。そしてホモ・サピエンスの歯はネアンデルタール人よりもかなり小さくなっています。

歯が小さいということは、強く咀嚼する必要が無かったということです。食べているものが柔らかかったり両手を使って食物を加工することで、歯で咀嚼するエネルギーを節約できたということでしょう。あまり噛まなくていいのであれば、咀嚼筋が発達しませんので代表的な咀嚼筋である側頭筋が小さくなります。側頭筋が弱く小さくなれば、頭蓋骨の側頭部の骨が成長する余裕が生まれますので、側頭骨が大きく成長すると同時に側頭葉が大きくなっていったことが想像できます。
つまりホモ・サピエンスはネアンデルタール人に比べて、側頭葉が脳に占める割合が大きかったということです。

ということで、側頭葉が小さいためにネアンデルタール人はホモ・サピエンスほどの抽象化能力を得ることができなかったことが想像できます。抽象化能力が少ないということは協力関係を築くのも難しく生き残れることができなかったと言えます。
こうしたネアンデルタール人とホモ・サピエンスの違いからも、大きな側頭葉があったからこそヒトは生き残ってこれたということが言えるのです。
※僕の感想です。

ヒトの抽象化能力は素晴らしいもので、あのサピエンス全史を書かれたハラリさんはこれを「虚構」と呼び、人間の素晴らしい発明だと言っていました。
お金も国もみんな「虚構」なのです。実際にあの紙切れに価値があるわけではありませんし、国というのは地図のように地面に線が引いてあるわけでもありません。でもみんながお金も国も存在しているように考えているのは「虚構」を信じているからですし、その「虚構」はヒトが抽象化能力で作り上げてみんなで共有している概念なのです。

これを読んでいただいたあなたも、その抽象化能力を総動員して読んでいたはずです。僕の書いた文章を読めば僕の考えていることがわかる。これは文章の持つ抽象的な意味を理解しているからこそで、僕の考えていることと僕が表現として書いた文章が「同じ」であると理解できるからですよね。こんなことを簡単にできる側頭葉はすげーってことです。

とりあえず書きたいことは書きました。スッキリしました。
次書きたいのはもう決まっていて、「愛」について書こうかと思っています。愛って実際に見えるものではないので非常に抽象的な概念だというのは同意していただけると思います。
でも「愛」なんて大層な名前を付けてありがたがっているのは人間だけのもので、「愛は地球を救う」とかって言ってるのがほんと馬鹿なんじゃないかと僕は思っているのですが・・・まあその辺は次の記事で。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?