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配信再リリース記念:早過ぎて遅すぎたPerfume!? ガールズシンセポップグループjellyfish TYOとは?(前編:その出会いまで)

 TECHNOLOGY POPSπ3.14です。いよいよ2019年も終わりに近づいておりますが、いかがお過ごしでしょうか?今年も良い音楽に巡り会えましたか?
 思えば今年はアーティストの方々と直接やりとりすることができたり、遠藤裕文さんのアルバム等興味深いプロジェクトに少しばかり関わることができたり、昨年もそうでしたが今年も良い経験をさせていただきましたが、その中でも大切な出会いがございました。
 振り返ること3月、突然DMが舞い込んできました。そこには本家のブログのレビューにアルバムレビューを取り上げたことへの感謝の言葉が綴られておりましたが、その差出人の方を見て目玉が飛び出るほど驚きました。そこには「jellyfishというグループでボーカルと作曲を担当していた、石崎智子と申します」と記されていたのです。1998年と2000年に2枚のアルバムをリリースし、ミレニアムに沸く世紀末をまたがった時代に当時ありそうでなかったガールズシンセポップグループとして活動していたjellyfish。彼女達の作品との出会いは後述しますが、それらを隠れファンのごとく聴いていたワタシにとってはまさにアイドル的な存在のトモコさん。既にご結婚・ご出産されて穏やかな生活を送っておられるだろうと思っていたトモコさんから、まさかのDMをいただけるとは・・。
 確かに本家ブログにおいてjellyfishのアルバムは2枚ともレビューしておりました。
 1stアルバム「Jellyfish」http://reryo.blog98.fc2.com/blog-entry-431.html
 2ndアルバム「jellyfish sensation」http://reryo.blog98.fc2.com/blog-entry-397.html

 しかしそれらは2010年に書いたもので、既に8年ほどの時間が経過しており、まさかそのレビューを当事者の方に読んでいただいていることにも感激感謝雨あられなのですが、このレビューをきっかけに音楽活動を再開されたということにも驚きました。そんなこともあるなんて、レビュー冥利に尽きるではないですか!
 ということがきっかけとなって、実際にトモコさんがゲストボーカルで参加したELEKITELのライブを上京して見に行って実際にトモコさんとお会いして意気投合、その後定期的にDMでやりとりしていくうちに、過去作品の再配信を実現できれば・・・という話もあって、今回めでたく再配信に至ったというわけです。そのようなわけで、今回はその再配信を記念して、再度全曲レビューという形で感謝の意を表すことにいたしました。

Jellyfish TYOとの出会いについて

(ここからは都合上敬称略とさせていただきます)
 まずはJellyfishのプロフィールを確認して見ましょう。実は配信を機にプロフィールがnoteにて公開されています。(下記抜粋)

1989年
 トモコ・ミエ・サチコの3人で「jellyfish」結成。
1990年  
 ピチカート・ファイヴのカバー・バンドとして早稲田大学多重録音研究会の学園祭で初ライブ
 その後、年に一度程度ライブをしつつサークルで出会ったイシガキアトム、増山龍太らとオリジナル曲を制作
1998年 
 1st Album「jellyfish」発売
 デモテープを送ったテイ・トウワさんからトモコの家に電話がかかってきて、好印象とのコメントをもらう
 増山がプロデュースする哀愁ギターポップバンド「MICROHEAVEN」のアルバム「Super Light」にトモコがメインボーカルとして参加
 jellyfishとしてのライブ活動を本格化
1999年 
 「DRIVE TO 2000」「サエキけんぞうのコアトーク」等に出演
 「DRIVE TO 2000」では、コンクリーツのコーラス隊ASPHALT BUBBLESとしても出演
2000年 
 2nd Album「jellyfish sensation」発売
 タワーレコード新宿店インストアライブ、Yセツ王ライヴ「テクノエロス2000-81」などに出演
2001年 
 早瀬優香子「Love Your Life」に「sleepless」(シングル曲)はじめ3曲を楽曲提供
 コンピレーションアルバム「Futuretron sampler」参加
 笹キミヒトとトモコのコンビで制作した「青い時代(とき)の神話」が
 アイドル歌手・徳永愛のアルバム「missing diamond」に収録
 イシガキアトム、増山龍太がメンバーとして加入
2002年
 イタリアのレーベルS.H.A.D.O. RecordsのコンピレーションアルバムVenus 69にイシガキアトムが参加
 コンピレーションアルバム「minty fresh japan compilation vol.3」参加、その際のグループ名を「jellyfish TYO」とする
 「Cyborg ’80s」のアルバム「SWITCHED ON CYBORG」にトモコ・ミエ・サチコが参加
 トモコの出産により活動休止

(出典:jellyfish TYO profile https://note.com/jellyfishtyo/n/ncec15009830d)

 それではここで上記プロフィールと並行しながら、当時のワタシの音楽的志向を絡めながら、彼女達の作品との出会いを振り返っていきましょう。

 結成が1989年。平成が始まった年ですね。この年はそれまでの過剰なデジタルサウンドが支配する音楽界が一種の飽和現象を起こして、「ポップス新感覚派」と呼ばれるアーティストが徐々に頭角を現し始めた時期でした。高野寛や鈴木祥子、遊佐未森あたりですね。その他のアーティストの動きを追えばキリがないので割愛いたしますが、重要なのはPizzicato Five「女王陛下のピチカートファイブ」のリリース、そしてFlipper's Guitarの「three cheers for our side ~海へ行くつもりじゃなかった~」、ここら辺が時代の空気感を表していたように思います。いわゆる「渋谷系のようなもの」の勃興です。

 そのような時期にjellyfishはトモコ(石崎智子)、ミエ(内田三詠)、サチコ(山川佐智子)の3名で結成されています。早稲田大学多重録音芸術研究会(以下早稲田録芸)に出入りしていたトモコは(恐らく)Pizzicato Five好きで意気投合したミエとサチコとPizzicatoの楽曲を歌うユニットとしてjellyfishを始めたと思われます。
 この時期彼女達のライブ音源のアレンジを担当していたのは、当時早稲田録芸に在籍していた沢田朋伯でした。後にジャパニーズテクノ黎明期の一角を担うTrigger Label〜Transonic Record(ORGANIZATION永田一直が主宰)で音源をリリースするMind DesignやソロユニットUNREAL等で活躍した沢田はこの草創期jellyfishのサウンド面を支えていました。(なんとトモコさんの機材選びのアドバイザーもされていたようです:トモコさんご本人からの情報)

 さて、この当時の早稲田録芸には沢田のほかにも原石のごときタレントを持つクリエイターが在籍していました。増山龍太、イシガキアトム、ケン・カツマタ、本多伸光(ホンダトロン)、清水太郎、永利裕志(DJとっしー)・・・。彼らは録芸OBとしてその後の90年代〜00年代の初頭に至るjellyfishを楽曲面で支えていくことになります。それぞれのプロフィールは公式HP(note)から抜粋いたします。(追記:ケン・カツマタ氏は録芸研には出入りしていたものの在籍はしておらず、独立してアーティスト活動をしていたようです)

イシガキアトム: 活動初期よりjellyfish TYOのサウンド面をサポートし、「星の輝く夜に」などの代表曲を提供。大阪発J-POPイベント「J-将軍」でDJ A.T.O.M.としてマッシュアップでフロアを沸かせた。増山が率いるサンダウナ作品やwann recordingsのコンピレーションアルバム、また神戸発のTar100mg Recordsのコンピレーションアルバムにも参加している。

増山龍太: 1994年にGak Satoらとともにdiet musicとして活動、U.F.O.プロデュースのコンピレーションへの参加や、かの香織やZooのリミックスを手掛ける。また、インストロック&ポップレーベルwann recordingsを主宰し、00年代に3枚のコンピレーションアルバムを制作。2017年にはサンダウナとして京極夏彦氏をフィーチャーした12インチアナログシングルをリリースした。かつてクイズ番組「カルトQ」のYMO特集で砂原良徳氏と最後までトップを争ったエピソードはテクノ業界ではよく知られる。

ケン・カツマタ: ARCHE TYPEやIDOL TAXIとしてTrigger LabelやTransonic Records、Zero Gravity、Childisc、Nan RecordsからCDを多数リリース。jellyfish TYOの1st albumでは写真撮影とアートワークデザインを担当。

清水太郎: ダンスミュージックを得意分野とし、現在もDJやリミキサーとして国内外に向け作品を発信している。

本多伸光: 加藤賢崇氏のラジオ番組が制作したコンピレーションCD「トロイの木馬」に参加。現在は名古屋でホンダトロンとしてDJ活動を行い、「テクノポップ魂」などのイベントを定期的に開催。

永利裕志: 名古屋のJ-POP系イベントや小室哲哉関連イベントで、DJとっしーとして活動中。2019年9月にはトモコ、ズンバとのユニット "Cybershot!!!" としてコンピレーションアルバム「Futuretron recycler」に参加した。

(出典:jellyfish TYO profile https://note.com/jellyfishtyo/n/ncec15009830d)

 この中でイシガキアトムについて思い出されるのは、やはりあの伝説のポストテクノポップ系音楽雑誌「TECHIE」(1986.6〜1988.12)への投稿です。88年12月号(最終巻)の読者投稿蘭「福助プレス」において、堂々と当時のPSY・Sの音楽的方向性への批判を繰り広げる論調には、同じような見解を持ちながらファン心理からなかなか言い出せない雰囲気であった方も溜飲が下がる気持ちであったと思います(ワタシがそうでしたw)。そのアトム氏の名前をまさか後年jellyfishのアルバムで発見することになろうとはつゆ知らず・・・。

 そして増山龍太はなんといってもクイズ番組「カルトQ」のYMO特集での出演が印象的です。本戦出場の5人に残るまでの予選会が非常にマニアックな問題で難しかったということは、確か予選落ちしたnice musicのお2人(佐藤清喜と清水雄史のシンセポップユニット)も雑誌のインタビューで嘆いていた記憶がありますので、それを突破するということは相当のYMO愛をこじらせた方と言えるでしょう。


出演者の中でもカルトキングとなった砂原良徳よりもキャラも立っていて面白い方だったのですが、その後彼の名前を見たのは1995年リリースのかの香織のシングル「パリのランデブー」へのユニットdiet musicでの参加でした。

当時かの香織にも傾倒していたワタシは「パリのランデブー(第3の風景)」というリアレンジ曲の7分強にわたる余りの長尺さに若気の至りで辟易してしまった思い出があるのですが、その後まさかjellyfishでその名前を見ることになるとはその時はつゆ知らず・・。
 ということで、彼らはjellyfishの楽曲制作の中心メンバーとなり、その後jellyfish TYOと改名したグループの正式メンバーとなります。

 ケン・カツマタ氏との出会いは1994年リリースのtransonic recordオムニバスの中でもインテリジェンステクノ色が強い「transonic3 (Range)」への自身のユニットARCH-TYPEでの参加曲「CAJA-HOJA*33℃」でした。9分もある楽曲なので退屈だなあと重ていたのですが(失礼)、インドっぽいシーケンスフレーズや電子音が程よくブレンドされていてその個性はしっかり確立されていたように思います。その後transonicでリリースされた「THE ROOTS OF TRANSONIC」や前身のTRIGGER LABELテクノポップ系オムニバス「BEST OF TRIGGER TRACKS」(前述の沢田朋伯のMind Designも参加)においても「DAMPT」「HERIUM」といった不思議ミニマルテクノが実に奇妙な味わいで、そのお名前を記憶に残していたのですが、まさかのjellyfish1stアルバムのジャケデザイン担当、そして2ndアルバムでは2曲のアレンジでお名前を見かけた時には流石に驚きました。

 本多伸光氏を初めて見かけたのはこれも伝説のテクノポップ系オムニバスアルバム「トロイの木馬」の収録曲「インド人」でした。「トロイの木馬」はテクノポップ冬の時代に加藤賢崇がMCを担当し放送されていたラジオ番組(1991〜1993)で、数少ない当時のテクノポップアーティストの貴重な情報源でした。そこでは坂本龍一MCのサウンドストリートよろしく「ミュージック・ハッカー」というデモテープ勝ち抜きコーナーの作品募集も行なっていまして、アマチュアからの多重録音作品が楽しめるコーナーがあったのですが、実力派の常連として参加していたのが本多でした。YAMAHAのFM音源ベースのオールインワンシンセV-50を使用した独特のクリアで繊細なプログラミングは、まさしくテクノポップ遺伝子といった風情でしたが、この方もjellyfishの1stアルバムでその名を見かけて(そしてそのサウンドメイクの不変さに)驚くことになります。

 清水太郎と永利裕志に関しましては、ネットもまだまだ普及していなかった当初の情報網では情報もつかめず、jellyfishのアルバムで初めてその名を知ることになるわけですが、こうして長々とクリエイター陣の紹介をさせていただくのには理由がありまして、このjellyfishというグループは楽曲面においては早稲田大学録音芸術研究会の多くのOB達がバックアップしていたという事実、そして彼らのほとんどはYMOの影響で多重録音を始めたテクノポップ遺伝子の継承者であったこと、そしてjellyfishが活動し始めた90年代初頭においては、いわゆるクラブ系インスト中心のTECHNOのカテゴリーにおいてカセットテープリリースなどで活躍していたアーティストも多かったこと、その中でjellyfish自体はPizzicato Five等に影響を受けていち早く渋谷系ムーブメントの真っ只中で密かにガールズポップユニットを始めていたこと。以上のことから、jellyfishというグループは、YMO世代〜TECHIE世代〜渋谷系やテクノ黎明期を一本線で繋ぐような立ち位置に図らずも存在していたと言えると思われます。

 さて、思い出話が多く恐縮なのですが、もう少しお付き合いください。その90年代前半の当時のワタシといえば、前述のような雑誌やラジオ番組等でのわずかな情報を頼りにテクノポップ系のアーティストを細々と探していた時代でしたが、1992年にP-MODELがいきなり黒ずくめのラバースーツに身をまとって純度の高いSFテクノポップユニットとして解凍してからのアルバム「P-MODEL」リリースに衝撃を受け、がっつりP-MODELにハマっておりました。

 それが90年代後半まで続いていくわけですが、一方でテクノやニューウェーブっぽい歌モノPOPSへの憧憬も深くなってまいりました。ワタシは関西在住でしたので、当時は心斎橋WAVEやタワーレコード、梅田WAVE等でいろいろと物色していた時代でしたが、1995年くらいにどこの誰かもわからないレトロな少女イラストのカセットテープが販売されていたのです。13曲入りで600円(だったかな?)のナイスプライスだったので、試しに聴いてみたらこれがニューウェーブな打ち込みのポップなメロディが同居した古き良き80'sアイドル歌謡でして、そんなことをやっているのは90年代半ばには見当たらなかったので、衝撃的で一気に引き込まれていったのです。そのカセットテープは「オカノフリーク」という、現在は関西で毎日放送(MBS)のキャラクターである「らい4ちゃん」の声優や、イベントの司会等でも活躍しているオカノアキラの多重録音ユニットの「I'm So Hard Core」というアルバムでした(jellyfishじゃないのかよ!というツッコミはごもっともですが、もう少しお待ちくださいw)。

このユニットはその後も次々とカセットテープをリリースし、1999年の「NEW WAVER」という初のCD-Rリリースの名盤でその音楽性を結実させるわけですが、このユニットのおかげで自身のニューウェーブ歌謡魂が覚醒し、隙あらば似たような音楽がないかどうか探していたのですが、当然そんな作品が当時なかなか見つかるはずもありませんでした。しかし1998年のある日、遂に「これは・・・!」と感じる作品に出会うことになります。それが、ただ「jellyfish」とタイトルのついた3人の水着の女の子が瑞々しいジャケットのCD。つまりjellyfishとの運命的な出会いだったのです・・・。

 というわけで今回はここまで。あれ?jellyfishの方々が映像でも余り登場していませんね。それは次回以降たっぷりと言及させていただくとして、このシリーズは3回シリーズとなります。次回(中編)は1stアルバム「jellyfish」の全曲レビュー、最終回(後編)は2ndアルバム「jellyfish sensation」の全曲レビューとなります。

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