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【エッセイ】ランニングマシーンから降りられない母の話

育休中だが、会社用スマホが故障して再度セットアップが必要になった。

元々ガジェット全般あまり好きではなく、セキュリティが無駄に厳しい会社ということもあって膨大な数のステップに完全に心が折れていた。

すごい顔をして、普段とは違う言葉遣いでグチグチとこぼす母の様子を異常だと察知したのか。
さっきまで熱があるのにちょこまかと走り回って遊んでいた2歳の長女が、自分で食卓の椅子によじのぼってきて、母の顔を覗き込んできた。

「ママ、どうしたの?」
「ママ、いやになっちゃったの?」
「ママ、だいじょうぶ?」
「パパよぼうか?」
と、もはやどちらが母親か分からないような言葉をかけてくれた。
ひとしきり母が何も言わずイライラしつづけている様子を見て、声掛けも無駄だと悟ったのか、大人しくちょこんとおりこうに座って一部始終を眺めていた。

母がスマホのセットアップにようやく諦めがついて投げた頃には、また熱が上がってきたのか、ひとりでソファに戻って眠っていた。

熱が高くて荒い寝息を聞きながら、やってしまった‥と後悔した。
育休中なんだから、いそいでセットアップなんてしなくてよかったのに。
15時からの全社会議も、出なくたって誰も何も言わないのに。
熱を出して保育園を休んでる娘がいるなら、彼女に向き合う1日にしなければいけなかったのに。

死ぬ時に後悔するとしたら、「もっと仕事すればよかった」ではなく、「もっと子供が小さいときに、ちゃんと向き合えば良かった」と思う可能性のほうが高いのではないかと思う。
育休があけたら、また平日は朝1時間、夜2時間ほどしかまともに顔を合わせない生活になる。
そのたった3時間さえ、スマホで鳴り続けるクライアントや同僚からのチャットに侵食される日々になる。

愛しい娘との時間を削って薄くしていいほどに、仕事なんてすべきなのだろうか、と、何か会社から連絡がくるたびに悩む育休期間である。

私は次女を妊娠したときに、いまの会社に転職をした。
前の会社は外資系のコンサルティングファーム、そしていまも結局同じような場所である。
働く時間や場所はフレキシブルではあるが、フレキシブルということが楽というわけではない。仕事の量が少ないわけでもない。
子どもに向き合う時間を割いた分、自分の休息の時間は削らなければいけないし、そうして休息なくして働いた結果のストレスは、さきほどのスマホセットアップ事件のように子供の前で隠せないほどになってしまう。

他の仕事を下に見たり馬鹿にしている訳では決して無い。
でも、お給料はいまの半分になろうが、もっと力を抜いて、子どもと向き合う時間と心の余裕をしっかり持てる選択肢もあるはずなのに、私はいまの場所から離れることができずにいる。

お給料は、一度下げると次の転職以降でもう上がらない。
キャリアは、一度止めるともうギアを入れることは難しい。
転職するたびに、転職エージェントのアドバイザーの方からそんな脅迫じみたことを言われる。
意思の弱い私は、それを鵜呑みにしてまた走り続けてしまう。
一度動き出したランニングマシーンから降りるタイミングが分からず、ネズミかハムスターみたいに、目の前を動く板に必死にしがみついて走っている。

本当に大切にしたいのはどんな時間なのか。
ランニングマシーンから降りて、ゆっくり考える勇気をこの育休中にはどうにかして確保したいと思う。

まずは、お熱の娘には、心配をかけて本当にごめんと謝ろう。

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