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教室で起こるトラブルは人類がこれまで歩んできた過ちそのものなんじゃない?


 僕には、「教育は人類の歴史の追体験なんじゃないか?」という感覚があります。詳しく言うと「教育は子供にこれまでの人類の叡智を体験してもらい、それをもとにより良い未来を作ってもらうための営みである」こんな感覚があります。


 このような感覚で教室を見てみると、教室内で起こるトラブルが興味深いものに見えてきます。教室で起こる代表的なトラブルを4つ挙げてみます。

「ケンカ」「グループ化からの仲間外し・いじめ」「上下関係づくり」「先生への反抗」。

 これらって、人類の過ちと重なるところありませんか??一つずつ見ていきますね。

 
 

「ケンカ」

 これはわかりやすいですね。戦争と重なります。

 自らの信念・利益のために争う。こんな過ちを人類はずっと繰り返してきました。現在進行で起こっています。

 子供達はたくさんのケンカを経て、他人との合意形成を図る資質・能力を身につけていきます。

 ある意味、育った子供たちが将来戦争を起こさないようにするためなのかもしれませんね!


「グループからの仲間外し・いじめ」


 これはジェノサイド・民族浄化と重なります。

 異文化を認められなかった過去の人類は、たくさんの異文化を滅ぼしてきました。これが大きな人類の過ちであることは言うまでもありません。

 僕たち大人は「いじめはいかん!」と言いますが、本質はこのような人類の過ちがあったからなのかもしれませんね!


「上下関係づくり」

 これは、身分制度・奴隷制に重なります。

 特に奴隷制度に関しては人類の大きな過ちの一つですよね。上下関係の行き着く先は、このような主人と奴隷の関係性です。

 子供達は力による上下関係の克服を通して、みんなが平等であることの価値を学んでいくのでしょうね。


「先生への反抗」

 市民革命に重なります。

 先ほどの3つと毛色が違います。市民革命は人類の過ちではないですから。

 どちらかと言うと、権力に胡座を書き、社会をより民主的なものにしていかなかった君主の過ちです。ということは・・・

 教室で起こる先生への反抗はある意味「先生の過ち」なのかもしれません。

 子どもの民主制を認めず、縛りに縛った時に先生への反抗は始まります。苦い思い出です😢

 力による統制が間違いであることを子供達に示すためにも、僕たちは民主的な学級経営を心がけなくてはいけないのかもしれませんね。



 教室内で起こるトラブルと人類の過ちの関係を見てきましたが、いかがだったでしょうか??

 このように考えると、大人は教室で起こるトラブルをある意味「良い教育の機会」と捉えるべきなのかもしれません。
 
 もちろん、そんな悠長なことは言っていられない事案もあります。こららによって不登校になってしまったり、最悪の場合命を絶ってしまう場合もあります。

 しかし、大人が先回りして解決してしまうことで、過ちが過ちたる所以を学ぶ機会を失ってしまうことになります。

 この辺りのバランス感覚が非常に難しいところですが、子供同士のトラブルを大人が過剰に恐るのも子どもにとっては良くないのかなとか思ったりします!


 皆さんは教室で起こるトラブルについて、どう思いますか??よかったらご意見を聞かせてください!

 

 

 

 

 

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