強制力無しで、人はどこまで頑張れるんだろう?
先生になっていっつも考えていることです。
「自主性」、「自律」という言葉がもてはやされています。
一方で、
「強制」、「他律」、「校則」という言葉はタブー視されている感じがします。
僕は先生になりたてのころ、この感覚のもと教育を行おうと思っていました。
その結果、大失敗でした笑
4月まで当たり前にできていたことができなくなる子が増え、頑張らなくなる子が増えました。
今思えば当たり前です。
僕自身のことを振り返ってみても、ある程度の強制力や拘束力がなければ絶対漢字とか覚えてませんし、整理整頓とか頑張ってません笑
「やりたいことで生きていく」
そんな言葉が声高々に叫ばれる時代ですが、僕はあえて言います。
「やりたいことで生きていけるのは、やりたくないことも頑張った人たちだけだよ!」
もっと言えば、
「”やりたいことで生きていく”っていうのは、頑張らなくて良いってことではないよ!」
と言えるのではないでしょうか。
キラキラしている人は確かにやりたいことをやって、楽しく生きているように見えます。でも、その裏では血の滲むような努力をしているに違いありません。
少なくとも、「楽したい」って思っているだけで行動しなかったり、目の前の「したいこと」だけに流されて成功している人は絶対いないと断言できます。
すごく当たり前のことなのに、それを忘れていた4月の僕でした。
人間は神様ではないし、動物ではないと思います。
動物であれば、自分の「したい」、「したくない」という本能だけで物事の判断をします。
神様であれば、常に「誰かのため」に物事の判断をします。
人間は、両方の感覚を持っていて、常にそこでせめぎ合います。動物が勝ち続ければ動物に近づき、神様が勝ち続ければ神様に近づきます。
ここで問いたいのは、果たして何をしても許される、「自由」な空間で動物が連勝するのを止められるのかということです。
いやあ、僕は無理ですね笑笑
何かしらの強制力がなければ、何かしらの緊張感がなければ、動物が圧勝するのは目に見えています。
「やりたいことで生きていく」の「やりたいこと」とは動物的な「やりたいこと」ではないはずです。
誰かを喜ばせるために、自分を成長させたい
この気持ちこそが「やりたいこと」なのだと思っています。
これはある意味、自分で自分に強制力をかけ、動物的な自分を抑えていく営みであると思います。
では、これを毎回子どもに求めるのはどうでしょうか?
酷ですよね・・・。
大人である僕が
「自分がしたいようにしていいよ」
「やりたいことで生きていけばいいよ」
と言うのはあまりに無責任です。
だから、僕はある程度子どもに強制力をかけていかなくてはいけないのでしょうね。
そしていつか、子どもが自分で自分に強制力をかけられるように支援していかなくてはいけません。
って結論を出してみたのですが、なんかやっぱり違う気がします。
昨日、こんなことを聞かれました。
「デザートって、最後に食べなきゃダメですよね?○○さんが先に食べてます」
僕が、
「え??何でダメなの??それは別に自由じゃない??確かにデザート途中で食べるのは先生は嫌だけど。」
そしたら子どもたちは口々に
「ダメですよ!」
って言いました。
これが強制力の賜物だとするならば、これはこれでどうなのかなって思います。
あと、全くやる気がない子にめちゃくちゃ怒って無理やりやらせようとしたところで意味はない気もします。
その子のことを思えば思うほど強制力を働かせたくなりますけど、それって余計なお世話なんでしょうか?
目の前に誰にも迷惑はかけてないけど、突っ伏している子どもがいます。優しく声をかけても、反応がありません。
こんな子がいたとして、どう指導すればいいのでしょうか?
強めに言って無理やりやらせるべきなんでしょうか?
それとも、その子の選択として尊重し、見逃すべきなんでしょうか?
もう分かっかんねぇです笑
まあ、一つ言えるのは一つ一つの僕の甘さがもう取り返しのつかないところまできてしまったんでしょうね。
「人として間違っている」って言葉、、、
どこまで適応されるのでしょうか??
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