浪人していた頃の些細な話

 長いような短いような浪人生活を終え、大学に入学してから2年以上が経った今になって、当時について様々思い返すことがある。多分浪人していた頃は無力感と周囲からの圧力(所詮自分が作り出したものに過ぎないが)で、自分でも気が付かないほど必死だったから、自分を取り巻く周囲の状況を冷静に眺めてみることができなかったのだろう。
 浪人の話はすでに『火中日記』で触れていて、そっちに加筆する形で書こうかとも考えたが、火中日記は結構奇麗な形で上手く纏まっていて、いろいろ手出しするのも惜しい気がするので別に書くことにした。

彼岸

 私は浪人をして初めて予備校というものに足を踏み入れた。私はある程度の進学校にいたから、高校3年のいよいよ大学受験目前ともなると周りのほとんどの人が予備校に入っていた。一度も足を踏み入れたことすらない人間となると、私は多少なりとも少数派であった。
 この時が初めてになったのは、両親の経済的な問題というよりも、私の両親に対する不安の方が大きかった。私の両親は金に関連する事柄で困窮する様子を見せない人達だった。しかし、なにか選択の自由が眼前にあるときに、金を掛けないでも良い方面が開かれているのならば、多少の我慢はあっても進んでその方面を選んでいく人達だったということを私は経験の上からよく知っていた。両親は私が願望を口に出さない限りそれを実行しようとはしないし、私もそれを知っているからこそ自分の願望を言うことを敢えてしなかった。自分の望みを言わないで、親の望むこと、すなわち吝嗇な性質を優先してやろうということが、全く親のためになるのだと考えていたからである。つまりは両親を不安心に考える私の僻みに過ぎない。私の親は私に対して関心がないのだ、私の望みなどどうでもよいと思っているのだと決めつけて、それを払拭する努力を惜しみ、逆に親の望みを叶えてやるという立場を得ることで暗に一人で安楽していたのだ。
 こういう考えは物心ついた頃から、何か自由を与えられた時の居心地の悪さ、罪悪感とした形で漠然と存在していた。家族で買い物へ出掛けて、欲しいものがあっても決して口に出せた事がなかった。今でも時折想起して馬鹿馬鹿しくなるが、小学生の低学年ぐらいのある時に、家族で出掛けていた先の雑貨屋で、カメの形をした小さなマグネットが欲しくて堪らなくなった。私はそれを何度も手に取って、誰かが来たら元置いてあった場所にすぐに戻して、少し離れてみてはまた戻ってなおも眺めることをしばらくやっていた。遂に帰る時間になって、悄然としながら母に付いて歩いている間もずっとそのカメのマグネットのことを考えていた。そうしていよいよ車の中へ戻った時に、私はたまらず潸然として泣き出したのだ。母はきまって泣き虫だった私の泣く理由を察する事ができる人だったから、強引に私を連れ出して、急いでそのマグネットを買いに行くと、それはたった300円のものだったのだから呆れた話である。こういう私の僻んだ態度は、親からしてみればよっぽど退屈なことだったかもしれない。こうしてみると私は幼いときから矢張り檻の中の動けない人だった。
 高校3年生の頃には、母を交えた三者面談で、担任の先生になぜ予備校に入らないのかと問われた。私はしばらく閉口したあとで、値段が高い割にその分の価値があるか知れないとか、自分で学んで発見を重ねるのが面白いとか適当な返事を拵えたのを記憶している。今の私の頭がこの時の私を述懐するなら、私の気付いていない僻みがそうさせたのである。すなわち母は私に投資する価値を認めていないと内心で決めつけて疑わないから、この考えの是非が母の存在によって明るみになることを恐れたのである。殊に、この考えが間違っているだろうことを暗黙のうちに理解しているのだから、尚更恐れたのである。この時の私にはきっとわからないだろう。
 予備校に入る、すなわち甘んじて人より過剰に親の厄介になったことで、私はこの僻みに気がついた。だからそういう意味で、予備校に入るということ自体が、私にとって少なからず変化となったことは間違いない。気が付いたとはいっても、それは本当に最近の話である。

横断歩道を渡れるか

 予備校にたった一人も友達がいなかったことは既に火中日記で述べているが、友達がいないと結構苦労をしたものだった。勿論勉強面でも苦労はしたが、殊に私は昼食の時間が嫌だった。
 予備校での昼食は、大抵の人が3階のラウンジで食べるのだが、いかんせん人が多いから午前の授業が終わってここへくると、もうどの席も埋まってしまっているのだ。一席空いていたとしても、大抵みんな友人と食っているから、その中の隙間に入り込んで黙然と飯を食うのは良い気分ではない。中には仕方なくラウンジの脇に置かれたベンチで一人座って飯を食っているものもいたが、なんともバツが悪そうだった。それに加え、母が作ってくれた弁当が常に美味しいと言える物ではなかったのだ。母は料理やお菓子作りの腕はすごぶるあるのだが、割合にガサツな人で、弁当はかなり適当であった。よく白米に昆布を乗せてあったが、米は昨日以前に炊いた物で固くなっているし、そもそも昆布が好きじゃないのだから、昼飯の時間は正直苦痛であった。しかも私は僻んでいて、弁当について何も言わないことが母のためになると思っているのだから、尚更酷く滑稽な話である。 
 混雑したラウンジと不味いかもしれない弁当を前に私はどうしたかというと、良い席が取れなかったときは、わざわざ近くのスーパーまで行って、そこの休憩エリアで昼食を食っていた。昼休みは1時間くらいあって、午後の初回の授業が入っていない時も多かったため、かなり時間的余裕があった私は、徒歩5分くらいでいけるスーパーにほとんど毎日通っていた。このスーパーには入ってすぐのところにパン屋と、8つくらいのカウンター席と中くらいのテーブルが3つある休憩所があった。ここには無料の茶が提供されていたから、私はここで温かいお茶を啜りながら弁当を食って、パンやお菓子をつまみながら少し勉強をしていたのだった。ここは塾生で利用する人は私くらいで、昼時でもあまり混まず、周りの人も大体一人で冴えなさそうな人達だったから、私には最適な場所だった。  


 確か10月だったと思うが、私は平生通り勇耀ラウンジを横目に見て、美味しいかもしれない弁当を持ってスーパーに向かうことにした。そうして一階に降りた後だったか、降りる前だったか最早さっぱり覚えていないが、若干の懐かしさを持ったある腹痛が襲ってきたのだ。 
 私は幼い頃から腹の弱い性質で、特に高校生の頃は月に一度くらいの頻度で腹痛及びその後に起こる嘔吐に悩まされていた。この症状の程度はなかなか酷く、貧血のような感じからだんだん起こってくる。それからは居ても立っても居られない感じがして、やっとの思いで少量を嘔吐する。吐いた後はすっかり力を使い果たして、トイレの汚い床に脇目もふらず横になって、殆ど気絶したように眠ってしまうほどだった。部活の大会の際に、千葉駅のトイレで1時間あまり寝ていたことがある。コンビニのトイレでも寝ていて、心配した店員がやってきたこともある。高校では全階のトイレで吐いたことがある。当時は意識しなかったが、それだけストレスがあったのかもしれない。  
 不思議なことに高校を卒業してからこの身体の不調とはきっぱり縁が無くなって、すっかりこの苦痛も忘れていたし、幸い浪人時代を過ごした予備校の校舎は、トイレが矢鱈にあって(確か7階くらいまであって、各階に2ヶ所、1つのトイレに3つの個室があった)、腹痛や嘔吐に苦しめられる精神的な心配も少なかったのである。
 だから浪人時代の10月までこの感じを忘れていて、懐かしささえ感じたのだ。私は経験上、この程度の感じなら一度トイレに行って様子を見れば平気だと考えてひとまずトイレで休息をした。それからまあ大丈夫だろうと踏んで外へ出た。この時ロッカーを借りていなかった私は、かなり沢山のテキストが入ったリュックを背負っていた。
 歩き始めて中程まできたところで、この身体の不調が想像より大きい物だと悟った。呼吸が次第に荒くなって、足取りがかなり悪くなってきた。背中の荷物が急に石のように重くなった。とにかくスーパーにはトイレがあって、そこで横になれると思ったから無理矢理歩いた。歩道のガードレールやポールを支えにしながらゆっくり歩いた。周りには人が歩いていて、もたもたしてあまり変な目で見られるのも嫌だからなるべく自然に歩きたいのだが、なかなかそう痛みや異変を隠し切れるものではない。やっとの思いでスーパーのすぐ手前の横断歩道の前まで辿り着くと、丁度横断歩道の信号が青に変わった。私はこの時、腹痛の波が最大に達したのを感じた。脇の下にじっとりと嫌な汗が伝った。この横断歩道は、かなり広い道幅の大通りを横切るもので、比較的長い。目の前のスーパーへの道は開けているが、これを何の支えなしに渡ることが出来ないだろうと悟った。私は人より我慢のきく方だと思っているが、この時はたった数十メートルの距離が果てしなく見えた。いざ踏み出して仕舞えば、恐らく道の真ん中で気絶するだろうと思った。しかしどうするか迷っていられるほどの余裕もない。もうほとんど意識もない。その場で身体を支えて立ち尽くしていると、いつの間にか信号が赤になった。
 私はどうしようもなくなって、少し離れた草地の所に這いつくばるように座り込んだ。石のようなリュックを下ろすと少し楽になったが、どうしても立ち上がって歩くことはできなかった。街中という環境が不安心を煽って、頰のこけた顔の色がますます悪くなった。それからは幾たび信号が点滅を繰り返したかわからない。多分20分くらい黙然として座っていたと思う。たしか人の往来が少ないところではなかった。男がしゃがんで呼吸を荒げているのが尋常ではあるまいと思ったらしい二人の女性が声を掛けてくれたことを記憶している。しかしながら、人が来てもどうなるものでもない。「大丈夫ですか?」と言われても、やはり大丈夫じゃないことは変わらないし、かと言って救急車を呼ばれては困るから、冷や汗のかいた引き攣った笑顔で
 「大丈夫です」
 「ちょっと...今立てなくて」
としか言えなかった。大変気持ちは有難いもので、気分は少し楽になったが、解決するはずもなく、どちらの女性も気の毒そうにするだけで、二、三度問答をして去ってしまった。
 それから座っていてもどうにもならないと思い、どこか近くのトイレに行くしかないと考えた。幸いしゃがんでいる草地は、モデルハウスの展示をやっている建物のところであったから、私はリュックを放棄してこの建物に入っていった。先程の女性もそうだが、人の優しいことがこれほどありがたかった経験はない。受付の女性は蒼い顔をした私に快くトイレを貸してくれた。
 トイレで30分くらい横になり、またしても心配そうに人が来たが、結局嘔吐には至らず、それからは多少元気を回復してスーパーの休憩所で美味しくない弁当を食ったのであった。
 この謎の症状については、遂に医者に行かなかったから原因はわからずじまいである。そうして今ではすっかり無縁になってしまったのであるから、人間の身体というものは不思議である。


発狂

 発狂という題は一寸野蛮すぎたが、浪人していた頃にたった一度だけ奇妙な体験をしたことがある。 
 私の浪人時代の精神的な圧迫はおそらくさほど大きなものではなかった。周囲に圧力をかけてくる人はいなかったし、友人は居なくとも根本さんがついていたし、高校の同級生と月に一度集会をしていたから、精神は健常でいられた。学習面も計画的にやっていて、成績も模試の結果が返ってくるたびに根本さんが何も言うことがないと白状するくらいだった。第一、クラスのホームルームでの席順が、最初の実力テストの結果順であったが、私はこのテストについてはかなり神経質に調べてから挑んだので、なかなか優れた結果だったようで、私はクラスの一番左前の席、すなわち首席に座っていた。だからなんとなく心には余裕があった。 
 しかし、たった一度だけ、発狂紛いの心的作用を感じた事がある。冬の始まりの頃、浪人生活も日常になり、いよいよセンター試験が現実味を持って頭をもたげてきた時期である。この頃にはクラスの中ですっかり顔を合わせることが無くなった人もいる。日も短くなり、殊更予備校という暗くて狭いところに一日中ぎゅうぎゅうに押し込められるのだから、気が参ってしまう人が出るのである。(実際この頃から英語の薬缶頭の先生が予備校に来ているという当たり前のことを矢鱈に誉めだして皆を励ましていた)
 この日、予備校が閉まる21時半まで自習していた私は、やはり重い荷物を抱えて外に出た。外ではたくさんの人通りと、明るい店の電灯が目についた。私の通っていた予備校は津田沼にあって、駅の改札を出て右にいけば予備校があった。予備校がある側は店が比較的少ない(それでも多い)が、左へ曲がると遊べるような店がたくさんあるから、朝に駅の分かれ道で、左からの誘惑に負けないように忠告されていたほど、津田沼は栄えた場所であって、予備校から駅までは徒歩5分くらいであったが、さまざまな店や公園があって人通りも盛んであったのである。
 私は横断歩道を渡って、コンビニを横目に見たくらいの位置で、夜の闇と、店の光と、往来する社会の人と、予備校の人と、千葉工大の学生と、重い荷物を抱えた自分を見て、何だか忽然と可笑しくなった。胸から込み上げてくるように、何かが私の頭まで迫ってきて、口角を無理やり持ち上げさせた。うぷと笑いかけて、私は一旦の正気を取り戻して手を口で覆った。ところが手の隙間から、どんどんうぷうぷと笑いが溢れてくる。何が可笑しいのかわからないが、兎に角笑いが止まらなくなった。私はえへんと咳をしたり、荷物を持ち上げたりするフリをして無理やり笑いを消そうとしたが、やはりうぷうぷいってしまう。人に見られたと思うと、抑えなくてはと思うと、余計に笑いが止まらなくなる。そうしてついに駅前の公園の階段までこの笑いはおさまらなかった。何が可笑しかったのか未だに判然としないが、兎に角どうしようもなく可笑しかったのである。勿論、これ以来このうぷうぷは一回も起きていない。 
 この奇妙な体験は棧の会でも話したが、「ヤバいやつじゃん」の一言で片付けられてしまったきり、誰との会話にも浮上することはなくなった。


根本さんと二千円

 予備校にはクラスがあって、そのなかには世話人のチューターという役職の人がいた。我々の浪人生活が円滑に進むように事務をしたり、成績や精神のことなどのサポートをしてくれる人だ。題の根本さんというのは、私のチューターの女の人である。根本さんは私の数個上くらいの歳で、おそらく殆ど変わらないだろうが、まめでちゃんとした人だった。
 私は友達がいなかったから、用事を見つけては2階の受付へ行き、根本さんと数分から一時間くらい立ち話をしたものだった。根本さんはこんな風に人と関わりの多い仕事をしているくせに、あまり話が上手い方ではないし(僕と話が合わないタイプなだけかもしれない)、声も小さかったから初めの頃は話すのに苦労をした。段々猫好きであることやら何やらを知って来た頃に、提出するプリントに些細な絵を書いたり、我が家の猫の写真を撮っていったり、話のネタを用意しておくことにして、それからは気まずくない程度に会話を進行できるようになった。一年間接してみて、根本さんはとても愛想が良い人で、心の清らかな人だったと今でも思う。私の精神の健康に極めて寄与してくれた方である。センター試験の前には、手作りのチェックリストやら何やらをくれたことを記憶している。それらは今でも私のノートに挟まっている。
 志望校の合格を知ったとき、私はやっと尻が落ち着いたという自身の安心と同時に、彼女の努力が報われるための報告ができると考えて、彼女のために嬉しい気分を味わったのである。そもそも私の成績に大きな不安もなく(何回かやった面談も毎度1分で話が済んでしまうのが常だった)、合格は確信していたようだから、彼女に会って合格を知らせたときに別段驚く様子はなかったが、こころなしか潤んだような瞳を見て、心のうちで静かに幸福を味わったのである。これは私の過去の中で数少ない清らかで愉快な経験であった。
 後日の合格報告会では、校舎の一階に貼る合格者の声みたいな小さな紙をつくった。この紙のためにチューターとの写真を撮る必要があったから、私は根本さんと廊下で記念撮影をした。その時、別のチューターの男がカメラを構えて、
「ポーズはどうしますか?」
と聞いた。私はなんでも良いだろうと思ってガッツポーズとかを取ったが、男はなんだかしっくりこない様子である。恐らく人が見るものだから、仲の良さそうな感じを出したいのだろう。「どうしましょうね」と根本さんと言っていると、カメラを持った男が、
「肩組めば」
と言ったから、私は揚々と気恥ずかしそうな根本さんの肩を取って、満足そうな顔の男に写真をパシャリと撮られたのである。
 後になって一階に貼り出されたものを見ると、肩を組んで写真を撮っている人など、どこまで見ても私たちだけだったのだから、私は些か恥ずかしい思いをしたのだった。

 ところで、この合格報告会が終わると、私は根本さんにある仕事の依頼をされた。入塾説明会でOBとして登壇し、数分進行からの質問に受け答えしつつ、ここが良いとかタメになったとか宣伝をするという仕事である。ギャランティーは二千円分の図書カードだという。人前に出るのは嫌いじゃない上に、自分の経験をいかせるいい仕事だと思い快諾して、奮発していざやってみるとなんてことはない仕事だった。教室も小さいところだし、肝心の人もたった数十人しか来ていない。規模が規模だからあまり緊張もしなかった。教室の外にいた根本さんは存外僕がよく喋るから少々驚いたようだった。仕事が済むと、確かに図書カードをくれた。

 後日すぐにまた電話が来て、また同じ仕事を依頼された。ただし、根本さんは、成績上の不安もなく、クラスの首席にいたからなどと言った理由で、浪人生のモデルとして私に発言させるために電話を寄越すのではなかった。ここで自白するが、私のいたクラスは、私が首席に座っているくらいだから、大したクラスではなかったのだ。だからそのクラスから私の志望する程度の大学に行く人は、他の職員が聞くと多少驚くような稀有な人物な訳であって、そういった意味で根本さんは私を出させたがったのだ。
 私は長い浪人生活から解放され、のんびりしたかった感もあったから2回目の依頼の電話には断りを入れたが、根本さんがなかなか執濃く頼んでくるから渋々請け負って、3回目の電話ではとうとうこれで最後だという条件付きで仕事をしたのである。
 あの時の、数分喋るだけで二千円とは、なかなか待遇のいいものだったということと、それ以来根本さんは約束通り電話の一本も寄越さないで、すっかり縁が切れてしまったことを考えると、返す返すも惜しいことをしたと思う。


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