皆のおすすめの曲を全部聞いた話
私は同じ音楽ばかり聴く人間である。非常に稀な頻度で気に入った音楽を見つけると、それを何度も繰り返し聴いて遂に飽きる事を知らない。
理解出来ない人もいるかもしれないが、おんなじ音楽をずうっと聴いているのは非常に面白いことだ。段々その音楽の印象が深くなっていくのである。何度も聴く中で音楽をいちいち解体してみて、リズム、テンポ、メロディから音楽を深く見渡すことができるようになる。歌詞のあるものはその奧妙な文章構造や含蓄を理解することができる。六ずかしいことを考えながら聞いているわけではもちろんないが、実際何年も聞き続けている音楽に、こんな音が入っていたとか、こんな意味があったとか、様々な発見があることは決して珍しいことではない。また、気分によって音楽の印象が大きく変わる。わかりやすいのはテンポだ。いまだテンポが人間のどの要素と相関を持っているかをつかめてはいないが、明らかにテンポの感じ方は日々変化している。ほかの音楽的要素とも同じように微々たる相関があって、結果として好きな曲、聞きたい曲が結構な頻度で変化するのだ。
だからおんなじ音楽ばかり聴くのはけっして変化の少ないことではなくて、違う音楽を聴くとはまた違った変化を感じることができるのだ。
しかしながら、矢張り当然これは退嬰的ともいえる。あまり同じものばかり摂り続けるのは脳にも毒かもしれない。また私が音楽的な流行からあまりに乗り遅れているのは自分にも明らかだった。
そう思って、皆に匿名で好きな曲を教えてもらって全部わざわざ聞いてみた。みんなの好きな曲を知ることができるのはもちろんのこと、気に入って何度も聴くようなものが新しくできればよいと考えたのだ。
おすすめされた曲は延べ131曲、JPOPや映画のサントラ、洋楽、ボカロまで非常に様々な曲を教えてもらって、半年くらいで全部聴いた。
誰か人が好んで勧めるような曲だから、その多くは確かに良いものだったと思う。中には全然下らないものも混じっていたが、なかなか質の高い体験になったと思う。自分からは到底聞かない音楽ばかりだったからである。結構いろんな幅の音楽があって驚いた。人の好きなものは千差万別なんだと思った。
全く烏滸がましいが、おすすめされたものの中からとりわけ今でも聞き返すものをここにあげておく。音楽の評価とは良いとか悪いとかではなくて、単に嗜好(思考)が合うか合わないかの問題であるから、ここであげたものが優れているとか、そういうことではないことは注意しておく。
・Sunset Jesus -Avichii
・A Step You Can't Take Back -Keira
・wonderland -iri
・ほろよい -kojikoji
もう少しあったはずである。思い出したら記載する。
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以下余談
人のインスタライブを見るのは大変面白い。中身はほとんどの場合およそ退屈なものだが、大抵数人しか見ていないのだから、入ると大袈裟に歓迎してくれる。これが面白い。だからやっていると誰彼構わず入っていく。
この前もそういう飄然とした心持ちで知人のライブを無遠慮に見に行ったのだが、彼は同郷の結構な女性と一緒にやっていて、700人くらいが見ていたから驚いてしまった。
この配信自体は正直なところをいうと僕とは正反対のお笑いだった。キャピキャピした女性的な、かなり若いものだった。僕のような老猾の入る隙のない程だったから、始終黙然として聞いていた。当人たちはみんな楽しそうなのだから良いのだろうが、私は一人久しくインターネットの一種の恐ろしい一面を垣間見て戦慄して慄いた。この一面の詳細を述べることは当人の体面に関わるからしない。
700人を前にした彼女(元来700では0が一つや二つも足りない力量の持ち主だが)は、私に触れなかったが、多分人が多すぎて気が付かなかったのだろう。(もしかしたら気づいていて、あえてふれなかったのかもしれない。少し関連することとして、私はあまり人にいじられない。多くの場合私が悪態をついていじる側にまわってしまう。このnoteも、絵も、もう少しバカにされたり、可笑しくいじられたりしてもいいと思うのだが、周りの人間はどうにもいじってこない。各々の思慮の結果か、私の纏う雰囲気によるものかわからないが、私は時々、もう少しいじられた方が楽だしおもしろいと思うことがある。どこかにとざわはいじっちゃいけないという風潮があるのだろうか)
彼女や知人らは高校時代の昔話に花を咲かせていた。
殊にファッションショーについて喋っているのには痛く妙な感に打たれた。あの白い装置は丁年未満の若人にとって、その目に眩しい光を投ずるとともに、自らの容色を映す鏡にもなるのだ。多感な時期につけられた傷は、それ以降についた傷よりも強く黄金色に輝く、もしくは不快な腐敗臭を放つのだろう。私にはあの装置は思い出になって久しく、大抵の時は忘れてしまっているのだが、彼らによってこの事実を思い出された。
私は彼らの言うところの、鏡に向かう恐怖、無力感と同一の感情を知らない。『権威』で書いたことなら知っているが、多分同じものではなくて、恐らくは、私がこのライブを見ていたときの快の裏に蠢動していた不快と同じ範疇のものなのだろう。
もしかすると、彼らは私の存在に気付いていて、敢えて触れなかったのかも知れない。彼らからしたら、私はかたきに違いないのだから。彼らは優しい人達だから、当時を懐古して誰も悪くないと言っていた。そして誰も悪くないからこその不快だと言っていた。当然それは嘘である。優しいからこそ悪者を作れないだけだ。ここにいる悪者を、善人に仕立てるのに苦痛を感じるだけだ。
彼女は高校時代において権威に不快を感じ、尽力した結果としての現在においてその権威を手中に収めている。その権威はライブの中の知人の様子にも可笑しいほどに明らかだった。そうして先日は、白い装置ーーそれも私の立ったよりも遥かに高級なーーに上がったらしい。...はたして彼女は満足しただろうか。登った山から見えたのは見たかった景色だろうか。視界のどこかに矛盾や歪みを感じただろうか。立っているのが嫌になるような強い風が当たらなかったろうか。この点はあの地獄のようなライブ配信をかき分けても知りたい点である。
加えて述べておきたいこととして、あまり自分達の領域を美化しすぎるのは良くない。もっと時間的にも空間的にも周りを見渡さなければならない。と、私は時々思うのだ。自分達のものを自ら嘆賞することは、自分達以外を見下ろす行為と一般である。自分たちの所属を、その程度を確認し合うことで、暗に周りより高い位置を確保しているのだ。殊に、確認しようのない過去を持ち出してこれをやるのは最も卑怯である。たまにこれを癖のようにやりたがる人がいるが、私はそれを見聞きするたびに身体のどこかに痛痒を覚える。
目線を落として見下ろすと決まって自分の足元ばかりが目に映ってしまうものだ。
腐すつもりはない。確かに皆んなが良いものだったと回想するものは良いものだったと思う。但しそれらは終わったからいいものなのだ。二度と戻らないから良いものなのだ。
また滅裂なので日記になってしまった。わたしは型にはまって論理だった文章が好きなのに、なかなかそれを書くのは難しい。
...私は私の中にある「良い」を追求して良いのだろうか。良い、悪いとは全体何なんだろうか。私の「良い」は他の人の「良い」と共通しているのだろうか。果たして共通しているべきなのだろうか。
みんなの良いというものがちっともよく思えなかったり、私の良いというものがちっとも受け入れられなかったりする経験が増えてきて、こう考えてしまう。おすすめされた音楽もそうである。私の知らない、誰かの「良い」に触れたら何かわかると思ったら、余計わからなくなってしまった。
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