もうくに日が落ちた帰り道を歩いて、盆槍ぼんやりしながらアパートの階段を上がると、一匹の油蝉あぶらぜみが、丁度私の部屋のドアの前にあるランプに向かって羽ばたいているのが見えた。取り憑かれたように白い光に向かって行って、硬い外殻をランプに打つけたと思うと、その反動で光から遠ざかって、また懲りもせず光を目掛けて飛んでいた。
 私はそれを避けながら部屋の鍵を開けて、中に立入ると、蝉は突然進路を変えて、閉めかかったドアの隙間から私と共に部屋の中へ入ってきた。それから蝉はすぐに部屋の蛍光灯へかたきを変えて、無遠慮にまた無闇な突進を始めた。
 蝉は頭を打つける度に、じりじりという大きな声が部屋に響かせた。暫くすると打ちどころが悪かったと見えて、白い壁の一点に止まって動かなくなった。
 私は無性に腹が立った。名状めいじょうし難い感情だった。衝動的に、アルミホイルで蝉を包むようにして捕らえた。
 口を丸めて密閉すると、私はそれを殆ど器械的に洋卓の上へ放り投げた。それから近くにあった空のペットボトルを手に握って、歪な銀色の球体を思い切り叩いた。中で潰された蝉の大きな声が耳に響いた。私は気が触れた人のように何度も腕を振り下ろした。一度「ぎいい」と異な声が響いたあと、それからは二度と音もしなくなった。洋卓の上の銀の塊は平らにならされて、白い光を集めて光沢が出ていた。
 私はそれを摘んで、窓から外へ投げ捨てた。あんまり強くペットボトルを振ったものだから、右肩に痛みを覚えると同時に、私ははっと正気を取り戻した。
 



一. 近況


 あまりここ最近の記憶が鮮明でない。思い返してみると、この月は丁度今のような、雨を忘れた梅雨のように過ぎていった。G棟の入り口の前にいつの間にか綺麗な紫陽花あじさいが咲いていたのを見て、梅雨が来ていたのだということを私は知ったのである。

 雨の少なかった6月初には修士論文課題の発表会があって、同じ領域の人間が一人々々が自分の研究の予定について発表をした。私は学士での研究と殆ど同じことをやるが、異なる分野の人間の前で発表をするにあたり、だいぶ中味を噛み砕いたスライドを用意した。それから原稿を誦じるまで練習をした。人数もそれなりにいるので、一人あたりたった5分の発表なのであるが、短すぎる時間が逆に始末が悪かった。

 就活もそこそこに進めている。修論課題発表会の翌々日には、私の就職活動の初めの一歩となったエントリーシートの提出があった。
 自分を表すエピソードを喋舌った動画を撮って、志望理由や、学生時代に頑張ったことといった全くくだらない事を書いて出した。
 就活は4月ごろからやっているが、その殆どは有意義であるが馬鹿げたものだ。自己分析をして、企業分析をして、面接の対応を拵えて、企業の求める人材に成り切る。全てが形式的で、社会のくだらなさとしょうもなさを集めて形を整えたら就活という二字になるだろう。こんなことを来年の春までやらなくてはならないというのは反吐が出る (そもそも来年から始まるはずなのであるが)。
 就活を勝ち抜くためのセミナーなどもよくやっているが、全くあれは人の不安を食い漁る商売である。就活勝ち抜く技術とはそんなに特殊で一時的なものではない。ただ最高学問の府で教育を受けただけ文章力と、自己理解と、表現力があれば良い。あとは人並みの第一印象と、少しの運であろう。これらは殆ど文化的な基本的素養に過ぎない。特に自己理解のための作業に対して、自己分析などと勿体そうな名前をつけているが、失敗をした日の帰り道や、布団に入ってから寝るまでの時間、バスを待つ間の時間、そういう時にする考え事がまさにそれであって、名状するような大層なものではない。目を閉じた刹那に眠ることができる人間がいようはずもないのに、人は20年生きてきて初めて自分という存在を見つめている。きっと彼等は鏡を見たことがないのだろう。
 ところが私が初めに出したエントリーシートは落第した。私は棚にしまった鏡をわざわざ取り出すはめになった。しかし落第を知らせるメールの中で非常に枠が狭いため云々、非常に高く評価云々、優先的に案内を云々と、期待させるような書き方がしてあったのが些か不愉快であった。きっと落第した全員に同じ文章をおくっているに違いない。あとで友人に聞くと、このインターンシップは分野が違いすぎるから無謀だと擁護してくれた。

 それから6月末に控えた研究進捗報告のためにせっせと実験をZと進めてた。Zは後輩であるが、真面目でよく働く。意外と負けず嫌いなところがあるが、あまり仔細しさいに説明したり、いちいち確認しなくても勝手に理解して実験を進められる優秀な人だ。全く門外漢だったSDS-PAGEなどの分野に手を出しているので、二人して首を傾げながら実験を進めていて、今では新しいアッセイ系の確立を彼女に任せている。

 マウスの経口投与も始まった。これは先輩の化合物を用いた実験で、私の結果には全くならないのであるが、後学のために、世間のために働いている。毎日マウスの世話をしなくてはならないので、3人で交代制で産総研に行っている。1日1時間くらいで終わる作業ではあるが、あそこは緊張するので時間以上にタフな仕事である。

 中国からの新たに研究室へ来た同期のLくんの面倒も見始めた。彼はアルツハイマー病関連の研究がしたいということだったが、マイクロピペットも扱ったことがないほどの初学者であったので、私がかなり初歩的なところから実験を教えている。中国からわざわざくるくらいだから、彼も真面目に分類される人間で、この論文を読んでと言うときちんと読むし、こういう論文を探してというと矢張りきちんと探してくれる。英語も出来るし日本語も出来る。もちろん中国語もできる。普段は日本語で喋る。実験操作で専門的な日本語が出てきたり、伝わりにくい言葉は英語を使う。ドクターに行くというので、将来きっと頼れる人材になるだろう。
ただし辛いものを食べた時の日本語だけ彼は間違っていて、一味を沢山かけた物を食うと、満足そうに上を向いて
「気持ちイイー!」
という。それからサムズアップして満面の笑みで私たちを見てくれる。私たちはそれを聞くたびに吹き出してしまうのであるが、強ち間違ったことでもないのでいまだに訂正しないでいる。
 先日ようやく彼のサンプルが届いた。二百種類もあるサンプルのスクリーニングを私の確立した手法でやる。かなりタフな仕事である。

 合間を縫って自分の研究も進めなくてはならないので、迂闊にしていると、
「S先生(共同研究先の先生)に送るデータはまだですか?」
なんてメールが来てしまう。
いつ実験をしようか考えるためにコーヒーを淹れると、
「戸澤さん、このTocotrienolの結果はこのような感じ?少し変?」とL君が聞いてくる。コーヒーを飲み切らないうちに、暇そうな私に声を掛けるものがある。
「戸澤さんあれってどうなりましたか」
コーヒーが不愉快な緩さになる。
「とっちゃんあの話って決めた?」
なんのことだか思い出せない。
「明日って産総研で行動の練習ありますよね」
次の面接が週明けに控えている。あの授業の課題がもうすぐ締め切りである。
「ああそうだ悠太さあ、この前言ってたプロトコルってもう送ってくれた?」
ところで空いた時間をデータを出すために、今から実験を始めて、午前3時にサンプリングをせねばならない。そういえばあそこのESが明日までであった。しかし遊びも人付き合いもそれなりにせにゃ世間体がまずい。遊びの他にも眠ることが何よりも楽しみなので、週に一度は長く寝ないと気が済まない。近い将来、これから先、就職をして、実験の成果をまとめて大学院を卒業しないといけない。
 またメールが来た。
「戸澤君は2D NMRとれますよね。お願いしていいですか」
 
 私は仕方なく立ち上がって、それからどうにも動けなくって訳もなくまた座り込んでしまった。

......こうもやるべきことが後へ後へ控えていると、いよいよ余裕がなくなってくる。
 日々更新される忙殺を経験して自らのキャパシティを大きくしてきた筈だが、時折やってくる忙しいという感覚は一向に消えない。ただしこれ以上忙しくなったら身体が保たないというほどでもないし、少し経てばまた暇になることも知っている。また私より忙しい人などどこにでもいるので、やるべき事を全てこなして、何となく普通にやり過ごせてしまうのが悔しい気がする。
 理系院生として平均的の忙しさだとは考えているが、こうも刹那的も忙しく感じてしまうと私の器量の無さが嫌になってきてしまう。
 仕事の一切を放棄すると大分精神が楽になるんじゃなかろうかと思う。飯を食ったら食った分だけ肥れるんじゃないかと思う。
 私は一体全体何のために、どういうリターンを期待して生きているのだろうか。人生に時給が生じればどれくらい気が楽になるだろうか。

 noteも書けなくなった。忙しくって時間が取れないのではなくて、精神的な余裕がないということに起因している。余裕がないと考えるということができなくなってくる。

───私のなかで音もしないで何かかぷつりと切れてしまわないかと不安になる。私はこの不安にやり場を与えるために、幾つか少し考えることを思い出した。

二. 沈む思考


 そういえば私は考えるということを考える気分が起ったのであった。日々、何を着ようだとか、何を食べようだとか、この実験結果が正しいだろうかとか、どこに相関があるだろうかとか、空が青いだとか、日が長いだとか、実に様々なことを考えるわけであるが、決してこれは必要に駆られて考えるわけではなくって、自然に考えてしまうのである。
 この考えるという自然の行動は、確実に、絶対に孤独な行為だ。誰かと脳を繋げることができない現在では、かく主観に、一人に始終する行為だ。
 だから考えるにはまず一人にならなくてはならない。一人にならなくては真に考えるということから逸脱するのではないかとさえ思う。
 ところが自分一人で考えていると、あまり一人に始終していると、だんだん他人にまでその思考が侵入して、何だか途轍もない万能感──他人もこう考えるのではないか、こう考えるべきではないかという脅迫的な観念──に襲われることがある。
 だからといっていざ他者と一緒に物を考えるとなると、矢張り相手のことはちっともわからないので、途端にその万能感は萎れていって、自分の脳みそを疑いたくなってくる。
 一人でしか成し得ないがゆえに、考えるという行為はこうした精神的な起伏を孕んでいる。人によってその起伏の大小は、到底上ることのできない山に見えたり、深い絶望の谷に見えたりするのだろう。

 例えば誰かとくだらない問題について議論するというとき。
 自分の主観で考えた意見を言うとする。
 すると相手が意外な意見を云ったりする。
 そういうこともあるかと、自分の意見を修正する。当然逆の場合もある。
 全く議論にさえならないような返事をするので、生返事をして話を流してしまおうと思う場合もある。そうして話を流した後で、私は時折後悔することもある。

……もしかして君はすごいやつなのか?
……君は何も考えずに生きているのか?考えすぎた結果、考えなくなったのか?
……君はどこまで考えたのだ?とっくにこんな考えは通り過ぎたのか?
……私が言った事が私の本当ではないことを君は理解しているのか?
君が私のために何かの本音を犠牲にしたことを私は見逃してはいないか?
私が君に伝えたいことが、君に上手く伝わっていないことを君は理解しているのか?君は私の只今の微笑に含んだ諦念や尊敬や軽蔑を逃さず捉えているのか?
君は何を考えているのだ?
君は何を考えていないのだ?
……君の考えていることが何一つわからない!

 相手のことが全くわからないように、自分一人で考え抜いた結果として辿り着く一つの答えは、自分一人で考えられることなど全くたかが知れているということだ。自分一人で考えたことを、揺るぎない堅固な事実のように捉えるというのは少々滑稽である。
 自分一人で考えろとか、一人で考えられる力を持てというのは嘘っぱちだ。高等教育でさえそう指摘される。つまり考えられるようになるということは、どう考えるかを考えられるようにすることだ。
 というようなことを述べているDavid Foster Wallaceのスピーチを読んだ。

 少し違った話かもしれないが、私も研究について、半可通の知識でやったことのないアッセイをやろうと奮闘していると先達て述べたが、私一人でその試行錯誤を考えても、ちっとも前進する手段が浮かばないのだ。思い返してみても、初めの数回の実験は全くの無駄で、誰か経験のある人に付いてもらって、頭を貸してくれたなら全く必要のない時間であった。
 また、この前はもっと酷い目にあった。使い方を知らない実験装置を使っていたら、いつの間にか強い紫外線が出ていて、それを保護眼鏡も無しに沢山見たもんだから、その日の晩には目が焼けてしまって開かなくなった。それからは三日程真っ赤な目で過ごした。 
 これは孤独な学習でもあり、一人の思考という脆弱さをあらわしてもいる。一人の思考は脆い。思考は遺伝しない。個体を超えて蓄積しない。つまり思考は歴史から蓄積されない。生まれたら誰しもが共通でゼロからのスタートである。

 私はやはり人生の所謂いわゆるデフォルト設定である一人称の視点を抜け出すべきだと感じる。
 つまり相手の思考を考えられるようになるべきだ。他人の思考を学ぶべきだ。歴史の思考を学ぶべきだ。三人称とともに考えることを考えるべきだ。一人で考えられるようになれと言うとは、自分一人の思考の限界を知り、一人や、二人や、他人と考えることを考えられるようになれと言うことである。ちなみに蓄積された思考の歴史とはまさに学問のことである。大人がしきりに勉強をしろという裏にはこういう考えがあると思う。

 客観を手に入れることは一つの最善である。客観と言っても、そのさらに客観といった多層的な客観である。高揚の山も、絶望の谷も、限りなく遠くから見れば小さな凹凸に過ぎない。もしくは上から見れば等しく平らである。それをさらに客観すれば、どちらも掌の上に収まるだろう。
 しかし客観は同時に最も恥ずべき失敗である。思考を客観に従属させるほど、思考は人間的を離れ、冷えた舌で僻んだ理屈を綴るばかりになる。
 私は主観を貴んでいる。主観は考えの源泉であって、客観を重ねるうちにそれを失うのは惜しい。客観した結果辺り一面平らになってしまえば、相手の山と谷を理解することは到底できないどころか、自分の心や身体でさえ疑えるほどわからなくなってしまう。
 だからこそ自分の頭から抜け出した客観としての自分は、客観というある種の枠に収まらず、自由に世界を飛び回って、客観と主観を交えた無次元的な考えを持つのがよいと思うのである。考える対象を客観の極致から考え抜くのではなくて、その対象と同化することを目指すべきだというのである。考えた結果として相手を理解したいのであれば、相手の思考に同化するのが最もいい。換言すれば、自分の思考を捨て去るということでもある。主観を捨てるのではなく、純主観に身を任せるのである。純客観に身を任せるのである。相手の山と谷を理解したいのならば、相手と同じように山を登って、谷を下るのが最適なのは当然だろう。
 それはつまり、一体何かというと、今まで述べた文句を一纏めにするとつまり何かというと、「視野を広く持ち、考えを考えろ」という陳腐な言葉になるのかもしれない。

 相手の思考と同化するとは、これも自分の思考である以上、全く独りよがりなことである。相手はそんな実感がないかもしれないし、そもそもそうしたいとは寸毫すんごうも思っていないかもしれない。相手にそれを求めるのはナンセンスである。もっと広い意味で繰り返せば、自分の考えの安心を、精神の安心を、存在の安心を、他人に求めるのは無意味である。
 相手の考えていることなど決してわかりはしないのだから。

 ───相手の考えていることなど分かりようはずもないことを是認ぜにんすべきだ。かつ、自分一人で考えることには限界があるのだから、った一つの考えに固執すべきでない。
 相手がこう考えるかもしれないという想像の幅を、自分はこう考えられるかもしれないという選択の幅を、自らの考えの柔軟さを、自由を、あるいは余裕を少しでも広げられると良いのではないだろうか。

 ……私がこういう考えを実際にある程度整理してからようやく書き下すことができたのは9月に入って、いよいよ暇になってからである。暇になると、暗い部屋でこういう哲理の考えに耽ることができるのである。暇でなくってはどうしても書けない。頭の奥でやらなくてはならないことがちらちら見えて、見てしまったと思うとその小さなものが頭蓋骨を占有するくらい大きく膨張して圧迫を感じるので、どうしても無駄な事を考えるということができない。もう少し深刻な仕事であれば、沈んだ気分のなかに精神的な余裕に似た諦念を見出すことが出来るのだが、なまじっか尋常な仕事だと上手くいかない。
 私は暇という時間的な余裕を神聖的なものと同一だと見做している。暇は全て自分が自由に扱える時間であり、何をしても、何もしないということを選んでも、その時間の中における活動は自己本位なものであるからだ。
 自己本位というのは、畢竟ずるに自分のためにということである。自分のためにすることでなければ誠実なものは生まれない。
 例えば芸術は己を表現するものであって、そこに何かその人間の熱や色といった、その作品でしか表せない魂的なものが映じられていて、それを作品越しに感じることができるものが芸術たるものである。他人のためにということを介在することはあっても、一番初めの根本的な出立は矢張り自分でなくてはならない。換言すれば、飯を食うために創るものは、飯が食えるなら創らなくて良いくらいのものなのである。
 こういう意味で、暇があればこそ文が書けるというのである。勿論、暇において芸術的行為をするべき必要はないが、暇におけるどの行為も、人のためにするべきこととは逸脱した自己本位であって、その活動は真に人間的で、誠実であって、芸術的で、神聖的なものなのであると考えている。暇じゃなくても創りたいというものこそ真に創りたいものじゃないかというかもしれない。それもそうだが、ただ暇においては外因的な必要に駆られないので、全ての活動が内因的になるのではないだろうかというのである。
 
 ただし人として仕事をして活動する場合はこうもいかないのは、すぐに理解できることだろう。自己本位で人のために働く行為は矛盾している。例えば自分がやりたいことだからといって、ただ寝るだけで金は稼げないし、今日は疲れたからもう帰って寝ようということはできない。ただし、我々はその他人本位の犠牲に対する対価、すなわち金を貰って我慢をしている。つまり働くことの目的は金のためや麵麭パンのためにあるのならば、自由に物を買ったり、口をのりしたりすることができれば働く意味がないのであるから、そもそもその活動は不誠実だという『それから』の長井代助の議を借用して言うのである。金のために働くのは不誠実だ。かといって、自分のために働くということは不可能だ。
  
 しかし麵麭パンを超越して自己本位に他人のための人間活動ができるのならば、それはとても素晴らしいことではないだろうか。要するに、働くために働くことができれば、犠牲のために働くことができれば、その行為は誠実たるものになるのではないだろうか。
 私はこう考えていた時に、偶々ある言葉に出会った。
 それはスタジオジブリのプロデューサーの鈴木敏夫が、上司に言われた言葉として紹介していたものである。

「君はまだ人生はギブアンドテイクだなんて思っているのか。人生はギブアンドギブだよ」

 ギブアンドギブであれば、働くことも誠実になり得るのではないだろうか。つまり、ギブが目的であって、ギブを自己本位とするのである。人に与えるために働くのである。自ら望んで自身を犠牲にするために動くのである。働くことや人間活動において、ギブアンドギブの精神があれば、自己犠牲を良しとすることができれば、誠実に、つまり単簡に言えばテイクのために動くことなく、薩張さっぱり楽しく遣って行くことができるのではないだろうかと思うのである。
 人に優しくするといった些細な事でもそうである。自分のためにするのである。対価はもとよりあり得ない。あるならその行為自体がすでに対価である。
 私はこの言葉を解してから少し気が楽になった。良い意味で傲慢になった。
 自分のため、という我儘な心持ちを是非肯定することが肝要だと思う。生きている以上、全ての行為は自分が出発点であるのだから、ちっとも我儘なところなど無いはずである。結果そういう考えが迂回して人のためになるのだと思う。
 人に優しくすることができなかったり、負の感情やストレスを吐露しやすかったりする人間はこういう考えに及んでいないのではないだろうかと思う。そういう私も、もちろんテイクを完全に度外視して、ただ自己犠牲に始終するという高いことはまず出来ないし、する義務はないし、また違った話になってくると思うし、多忙にために苦しい瞬間を味わう日も間々ある。そんな時は大抵ストレスを感じていて、くだらないことに癇癪を心の中で起こしている。ただ、何となく多忙にも満足感を感じているのは、この観念のおかげであるとと同時に、考えることができないためだろう。

 ところが、これらの長々とした思考の始まりとして述べた、デフォルト設定を脱却することを説いたDavidは自ら死を選んでしまった。
 沈思が祟って、彼は底なしの沼に沈んで息をすることが出来なくなってしまった。
 私も時々泥濘ぬかるみに足を取られたように無力になる。ヘッドに偏重すると、ハートがそうしようと思っていても、ヘッドがその意思を抑えつけて、私はそこから一歩も動けずに黙ってしまうのである。
 私のヘッドは私のハートを屈従させるように出来ているのである。

 「考え過ぎじゃない?」というのは一つの目指すべきゴールである。
 あまり思考に固執すると、どの発言も浅薄せんぱくな気がして、仕舞いに何も喋ることができなくなるのである。「考えすぎだ」という領域に至って漸く我々は思考をそこで打ち遣って結論を与えることができる。私は以前考えすぎじゃないかと言ってくる人に、それは考えなさ過ぎじゃないかと思っていたが、考え過ぎる悲観を極めると、やはり考え過ぎじゃないかと楽観することができるのであるから、そういう指摘もある種是認ぜにんせざるをえない。
 いかに早く「考え過ぎじゃない?」に至ることができるかがその人間の思考力および幸福につながっていると思う。考えることが不安心につながるとは思わない。考えないことが安心に繋がるとは限定しない。ただ、考えることで、───考えることができるだけなのである。そして、考え過ぎじゃないかという思考への到達を以てハートをヘッドの束縛から解放してやることが出来るのである。解離したハートとヘッドを結び付けることが出来るのである。

 雨の降らない梅雨がいつあけるのだろうと思うと、蝉の声が遠くに響き始めた。
 ところで人生に対価が生じれば日々どれくらいの虚しさが募るだろうか。

 

三. 好きなものとその理由

 友人のKが尿路結石に罹ったらしい。彼は端倪たんげいすべからざる鍛錬と黄色い米で身体を鍛え上げて、丸太のような不動の筋肉を持っている人である。それが大学院に行くに当たって部活を引退したのを期に、必要以上の肉を削ぐ方向へ活動を転換していた。身体に粘土細工のように肉をつけて、今度はそれを引き剥がそうという決河の勢いが祟ったのだろう。彼の巨躯には尿路結石が巣食って、日々非道い痛みに呻吟しんぎんしているらしい。
 私たちはそれを面白がったが、その痛みは本当のものだろう。ただし流石の私も彼の痛みと同化したいとは思わない。
 Kとはお互いの近況を聞くような空談をよくやるので、結石のように様々な話題を交換する。彼は趣味:インターンシップというくらい色んなインターンシップに行っている (それだけ厳しい選考に通過しているということでもある)ので、その話や、参加者の女の化粧がまずかっただとか、論文を読んだことのない文系はまるでだめだとか、私立大学の人間は中身のない自信に溢れていて不愉快だとか、そういう偏見を聞くこともある。
 そのなかで先日は私の好きなアーティストであるBUMP OF CHICKENに関する話題があった。
 いつかの何かの話の中で、私がBUMPはどの楽曲でもずっと同じことを唄っていると評した。無論私としては、彼らの音楽は脈絡が通徹しているという意味を含めていたのである。
 ところがKが同じくBUMPに傾倒する後輩の一人にこの批評を伝えた所、全くそんなことはないと反駁されてしまったというのである。まして私について碌に中味を聞いていないで、聞き流しているだけじゃないかと非難さえしていたというので、私はKに苦笑するほかなかったのである。
 Kは私の偏愛を能く理解しているが、BUMPに対しては精通しているわけではないので、その時はどちらの意見の片棒を担ぐわけにもいかず、ただ意見の仲介をしたのみでそれぎり進展はなかったそうだ。
 少し私の頭の中の整理も兼ねて、私の言葉の意味するところと、改めて考えることについて弁じたい。

 彼らの楽曲は同じことしか唄っていないというのは、詰まりは「過去や未来との和解を通じて現在を肯定する」ということである。これが全てである。どの曲をみても、別のモチーフが介在していることもあるが、こういう要素はあると思う。
 第一に殆どの曲にしても問題提起に始まる。提起はなくとも問題を抱えた自分の存在がある。過去に挫折や代えがたい栄光があって、理想と解離した現在がある。それが藤原基央らしいユーモアとウィットに富んだ悲観的楽観のような肯定に至る。過去から続いた未来があって、実際的な解決でなくって、迷えるからこそ迷子のままでも大丈夫というような思考的な解決である。(物語がはっきりと存在するKのような曲や、あまりに古い曲などにはあまり適用されないかもしれない)。これが彼らの音楽の一般であるといってまず差し支えないと思う。
 例えば、Sailing dayは、この題のように航海をモチーフにしており、ONE PIECEの映画の主題歌となった曲であるが、
「目を閉じたその中に見えた微かな眩しさを掴み取ろうとした愚かなドリーマー」から始まる。主人公は過去(未来)の輝かしい出来事を想起し、それを手に入れようと愚かしくもがいているような現在がある。
 続く2番において「目を開いたその先に見える確かな眩しさが空になったハートに理由を注ぐ」に続く。現在において、「危険や不安」を感じつつも、現在に確かな原動力を感じる。(無論ONE PIECEの船員を想起させるような歌詞でもある)
 そこから「誰もが皆んなそれぞれの船を出す それぞれの見た眩しさが灯台なんだ」という解決に至る。つまり現在の原動力とは、愚かしくもがいて掴み取ろうとしていた輝きを、「決して消えはしない僕だけを照らし出す灯台」と捉えなおすという和解によって生じたものである。また、「僕だけを」というその人の独自性が強調されることで現在を強く肯定している点も注意されたい。
 「眩しさを見た」という過去が、「灯台」のように自らの行き先を正しく照らし出してくれるという、過去現在未来の継続性・双方向性があり、それを認識することによって、
「Sailing day 舵を取れ 嵐の中嬉しそうに帆を張った愚かなドリーマー」と、現在を肯定する結末に至る。まさに過去と和解して現在を肯定するという詞である。このような現在と地続きである過去が正しい方向を照らしてくれるという、過去と和解するような詩は他の曲にもやはり散見される。

 rayでは、君といた過去の輝きを「透明な彗星」と例え、それを探しながら生きる現在に悩みながら、
 「思い出はその軌跡の上で輝きになって残っている」とし、「終わらない暗闇にも星を思い浮かべたなら すぐ銀河の中だ」とやはり君といた過去と和解することで現在を肯定している。
 君を失ったということについても、「寂しくなんかなかったよ ちゃんと寂しくなれたから」「あの痛みは忘れたって消えやしない」と、その悲しみを覚えつつ、過去があるから現在があるという、現在を際立たせるような使用がされている。
 終盤では「お別れしたことは出会ったことと繋がっている あの透明な彗星は透明だからなくならない」と、過去から続く自分の時間軸や継続性を意識しながら、透明だから無くならないという詩的でユーモラスな解決を与えている。過去の悲しい思い出は決して無くなることがないからこそ、強く現在を照らしてくれる存在とし、その「光のはじまりには君がいる」と君の存在を再確認しつつ、君といた輝かしい過去があるからこそ、過去から繋がっている現在をその光とともに生きていけるとしている。

 他のどの曲でもこういった解釈ができるが、これ以上は野暮だから割愛する。こういう物語構成はどの曲にも見られて、一つ々々の楽曲が小品として小奇麗にまとまっており、丁寧な装丁のついた作品に近い感じを与える。言い回しや表現が凝らされていて、単に体裁を取り繕うような難しい言葉を使うこともなく真率に中味が伝わるので絵本のような感じというのが近いかもしれない。

 私は車の中でBUMPしか流さないので、同乗したものがそれを聞いてなぜBUMPが好きなのかと問いかけてくることが間々ある。どうしてこの複雑な経過と理由をそう一言で答え得るだろうと思うのでその時の返事は曖昧だが、私は彼らのこういう脈絡通徹が好きでずっと聞いているのである。彼らの音楽は根本義は全く同一でありながら、主題やモチーフを変えたり、表現を変化させたりして常に新しさを創出し続けている。聞き続けているからこそその新しさを発見できるし、その変わらない良さを理解できる。
 他に好きな点を挙げるとするならば、彼らの第一のプライオリティが楽曲であるということだ。わが子のように曲を大切にしていて、粗末に扱ったり、粗末に生み出したりしない。すべてが作品として完成されていて、上品に出来上がっている。そういう曲作りに対する姿勢が好きなのである。(最近は繰り返しの歌詞が目立つが)

 また、よくBUMPの曲は暗いというが、最終的には現在を悲観的楽観として肯定するため、明るいと言えば大変明るい。ただ概した全体的な色としては高度に暗色である。あまり詞を気にしない人からしたらあまりに陰鬱な感じかするかもしれない。
 私は単純に底抜けに明るいのは好まない。やはり何も考えずに一発目から「考えすぎじゃない?」あるいは「こう考えるべきだ」に行くのはあまりにも中味が希薄で、どんな言葉も上皮だけに聞こえてしまう。近年は消費の早さから、音楽は伝わりやすさに傾きがちで、街に流れるポップミュージックはそんな軽薄な曲ばかり溢れていて、川の水のように流れて消費されている。
 考えの不足から無意味に明るいことしか歌わないのではなくって、どん底の暗さから明暗が意識されていて、説得力があり立体的な明るさの方が私は好きだ。
 彼らの楽曲は何層にも暗いところが重ねられていて、完全な手放しの明るさはどこにもない。解決も根本的でなくて一時的である。また苦痛が現れるということを知っている。彼らの現在に対する肯定は希望ではない。常に絶望が孕んでいる。だから存在感があるのである。
 ただし、最新の「木漏れ日と一緒に」など、最後まで解決が与えられない曲もある。こういう曲は大変暗い。この曲はまだリリースされていないが、初めて聞いたときにあまりに暗いので驚いたくらいである。

 また、彼らの音楽に対してよく厨二病のような感への批評が上がることがある。この意見に対して全く賛成であるが、他のアーティストに見られるこの感とは一線を画していることを吹聴したい。
 厨二病というのは、名状し難い一種の自意識の過剰による類型化された観念の範疇であるが、概して子供じみていているからこう言われるのである。こういう要素を含む中で、彼らの音楽が他のものと異なる点は、彼らが主張するのは子どもじみた万能感ではないのいうことである。寧ろ、より幼い、孤独感や無能感を現している。自分はやれば何でもできるいうような悪童の感じではなくって、言いたいことを上手く表せなかったり、思った通りに身体を動かせないという、自分が何も出来ないことに対するもどかしさといった可愛げのあるような絵本ライクな表現されている。そういうある種謙虚さが根底に潜んでいるのである。

 上述したように、彼らの音楽には一貫した要素が多く存在し、脈絡通徹しているのである。だからそれらを端折って彼らは同じことしか歌っていないと形容したのである。こういう考えをK君の後輩も持っているかもしれない。彼が反論したのは、単にそういうポーズを取っただけなのかもしれない。その真意はいずれにせよ、私は彼らの音楽に対してこういう認識を抱いている。

 さて、ところでKくんはアイドルにハマっている。
 アイドルの人間自体を好きになるというのは、会ったことも話したこともない人間に対して、ただメディアが作り上げた偶像だけを見て、その人間の作ったものでも、歌詞でも音楽でもなく、ましてその人間の本当のところでもなく、だたその偶像を、ありもしない誇張した自らの願望を、好きだというのだから軽薄だ。その軽薄さに気が付かず、自ら沼を深くして、自らの生活や思考の大部分を侵食している一部の人間は全く愚かだと言わざるを得ない。軽薄に好きになって、愛玩の対象にしたり、その人を応援する趣味の如くやったりする分にはまだいい。何かに向って正しく努力している人間には人を引き寄せる正の作用があると私も思う。それが自らの世界の殆ど大部分を占めたり、絶対的な強い言葉を使う人間は心配する。
 こういう理由でよくくだらないとうっかりこぼしてしまうが、彼もアイドルに対して、その本当のところを見抜いていて、私にはまだ理解できていない何か真理じみたことを考えているのかもしれない。
 私は今朝彼が6 mmの結石を排出したという知らせを聞いて、なんとなくこんなことを考えた。


四. 潮風に吹かれて

 例年よりも暑さの厳しい夏に差し掛かった頃、私は高校の仲間と館山へ遊びに行った。
 少し前に皆で集まった時に、その場の勢いでつい先の旅行の予定まで約束してしまったものが、珍しくきちんと履行されたのである。皆んなは(数人を除いて) 既に社会に出て働いているが、この日のためにしっかり休みを取ったようだ。
 合わせて9人なので、私とXの車の二台で行くことになった。皆の住んでいるところを照合して、二台は別の集合地点から各々の人間を集めて出発することになって、私の車には三人が同乗することになった。私は筑波から松戸の集合地点まで行くので、少し早めに起きて南流山駅へ向かった。
 館山までいくとなるとかなり長い道のりを走ることになるので、途中のガソリンスタンドでガソリンを満タンに入れておいた。

 思い返せば、これから会う彼らとは高校時代最も長い時間を共有した。高校時代の思い出はすなわち彼らとの思い出になるのである。
 旅行をしたことも何度かあった。ただやはり数年来だということが、内心私の精神を浮つかせていた。

 南流山に着いて、ロータリーのところで車を止めた。
 この駅は高校時代毎日下車して高校へ向かった駅である。ひとつ前の新松戸駅からも行くことが出来て、そちらから行く人の方が多いのに、私はわざわざこの南流山駅から歩いて通っていた。ただ一人で登校したいか、朝一緒に歩く人間がおらず気まずくなりたくなかったのだろうが、そういうわけで愛着のある駅でもある。
 車窓から初めてみる表情の駅を眺めていると、すぐに人ごみの中からSとZが現れて車に乗った。先達てあって以来なので特別新鮮な感は無かったが、旅行の陽気な感じが彼らの精神に纏わりついていた。
 「とっちゃん何飲む?運転だから先選んでいいよ」
 Zは皆の分のコーヒーを買っていて、皆にそれぞれ渡してくれた。こういう些細な気遣いを恥ずかしさやぎこちなさに負けずにやってのける点において、皆それぞれ大人になったのだと胸の内で感じた。
 それから清水が五分ほど遅刻してやってきた。髪を上げて、白いセットアップの服を来ていたのが意外だったが、いざ彼が車内に入ると、矢張り何も喋り出さない凝り固まった空気を纏っていたのが彼らしかった。
 「清水セットアップやん」と私が言うと、
 「セットアップ......?何ですかそれ」
 「いやそれ上下、セットアップでしょ?」
 「これセットアップっていうんですか、気にしたことなかったです」と清水は相変わらずなことを言った。Zが、
 「いいじゃん可愛いじゃん清水」というと清水はにやにやしていた。Sはハハハとでかい声で笑った。

 これで漸く全員が揃ったので、我々は南流山から一先ず中途の市原を目指した。車内ではZを中心に様々な話題が転々とした。持ち前の明るい気質で場を回していたZは、高校の時分と比較して随分甲斐性を得た、というより元から甲斐性のある人で、それが外向きに育って現れたと言ったほうが正しいかもしれないが、とにかく我々の中で最も社会的に外向に発達した人間だと思った。話題を絶え間なく発することができて、弄られにも受け身が取れて、何かの意見に対してそれを素直に受け入れる余裕もある。
 別に他の人間にそれらがないわけではない。彼らはみんな社交的で余裕のある人間だ。ただとりわけZの高校時代とは違ったところに気がついた。

 お互いの近況やこの旅行に関する話をするうちに、Zは高速道路で見かけたジムニーに反応した。彼女はジムニーやそういう野生味のある車が好きらしい。このジムニーという車は2年近く待たないと乗ることができない大変人気な車なので、意外とミーハーな所があると私が揶揄すると、彼女は反論するように笑っていた。
 もう一台大きな車としてジープを見つけたが、これでも良いらしい。それからZはジープを見るたびに挨拶をするので、ジープを持っている男と結婚すれば良いと皆んなで笑った。

 1時間ほどで市原SAへ着いた。此処でXらと合流することになっている。SAの中へ入ると、土産品のあたりを物色している見慣れた男どもの姿があった。
 彼らはやはりにやにやしていた。私を含む彼らの笑い方は、アハハでもなければにこにこというわけでもない。やはりにやにやというのが最もあたっている。
 近づいていって挨拶をすると、やはりお互いににやにやした。肥えたHに
「痩せた?」と冗談を言うと、にやにやしながら
「ちょっとね、ちょっと」というのであった。私はまだ以前のHと現在のHを同等のものと看做かんかしていた。
 全員と合流をして、しばらく座って歓談をしていた。
 「明日の予定何も決まってないのやばくね」
 「まあいいっしょ」
 「マザー牧場とかいく?」
なんて呑気な話をした。

 それから再び出発となって、館山の小さな寿司屋を目指すことになったが、二日間私が運転するのも疲れるので、簡単な保険に入った清水に運転を交代してもらった。清水は普段から車に乗るらしいので、あまり心配はしなかったが、私の車の乗り心地の固さやブレーキのレスポンスの良さには驚いたようだった。スマホに映したナビの到着時間を巻こうと皆で話していたら、いつの間にか清水は130 km/hくらいで走るようになったので少し驚いた。
 私はこの時初めて自分の車の後部座席に座った。

 暫く走って着いたのは、こじんまりしていてとても美味そうな寿司屋だった。中へ入ってみると、入ってすぐ目の前にあるカウンター席で男が静かに鮨を食っていた。
 厨房の方から出てきた女将さんに挨拶すると、生憎もう魚が少ないらしく、9人は難しいということだったので残念ながら別の店に行くことになった。Xの車も到着して、海鮮の食える新たな飯屋を探す段になって、9人という人数の多さに初めて気がついた我々は適当な店に電話を取り出した。こういう時に電話をするのはIかZかHと私である。私は良さそう店に2件ほど掛けたが、矢張り9人は難しいと断られてしまった。
 結局10分ほど来た道を戻って、地方にありがちな魚市場のような大きなレストランで飯を食った。カジメという海藻が一緒に出てきて、食べ方の通りに味噌汁に入れて飲むと粘り気が強く出て美味かった。それからデザートの枇杷ゼリーが美味かった。やはり南房総といったら枇杷である。
 ここでは横に長い卓に向かい合う座敷だったが、私はSと清水が隣にいて、IさんとZが前にいるような席へ着座した。時折眼前のIさんと話したり、ZがIさんと話したりしているのを聞くと、何だかIさんが、旧知の友人と旅行に出た気分の高揚からか、もしくは本来有している活気が現れたからか、時々会話のリズムを変に早足にして、数手も先行した反応をしたり、角度のずれた返事を寄越して、一般的な会話たるものに不調をきたすので、そういう変が起きたあとで、Zと意図して間を作って、目を合わせてくすくすしていた。
 Iさんは兎に角純な人だ。前の飲み会の散会後にはこんなことがあった。私が帰路を運転していると、車の中から、偶々私の車の前を横切ろうとするIさんを見えた。Iさんは私に気が付かないまま、私の車に向って丁寧にお辞儀をして、極めて正した姿勢のまま歩いて行った。車の運転手が私だからではなく、どの状況においても彼女はあの態度を見せただろう。私は彼女が今まで出会ってきた人間中で最も悪を知らない純粋な人間だと思い知った。
 隣で美味そうに飯を食うSは、高校時代と比較すると随分肥えた。身体も大きいし、良く食べる。薬学系の大学に行っていて苦学しているようだが、徹夜したり、麻雀をしたり、年相応にそれなりに遊び呆けてもいるらしい。
 清水は先から一言も喋らずに「レディース丼」を黙々と食べている。この「レディース丼」がボケなのかリアルなのかは難しいところだった。彼は一言も話さないのでフリがない。清水に適当な話を振ると、
「え?ああはい」という。面白いようで、何も面白いことは出てこないのだが、こう弄る側に回ると、無闇に棒で突くのが面白く感じてしまう。彼の存在自体がフリになっているのかもしれない。清水は一度転職をして、今は河川に関連した工事の何某の仕事をしているらしい。大学で学んだことを一応生かせてはいるようだ。川を見ると興奮するらしい。

 腹を満たした我々はそれからすぐにピーナッツソフトの有名なところへ行って、Iさんが態々日の当たるところでアイスを食べて、足元に溶かしたアイスを点描する様を見て笑った。店にはノートがあったので、清水を書いておいた。
 それからスーパーで酒やバーベキュー用の食材を買い込んだ。酒を買う人、野菜を見る人、肉を見るとというふうに上手く分かれて、やはり上手く買い物を進めるので、皆大学生というステップを超えてきたんだろうとまた心中で推してしまった。
 
 途中の道で、Zが虹のようなものが見えるというので、見ると、車の窓から彩雲が見えた。太陽の近くの雲が、その光を回折させて、虹とはまた違った不規則な虹色を呈する大気現象である。最後に見たのは3年前だったので、とても久しぶりに見たような気がして、後部座席の真ん中から無理やりそれを見詰めていた。占いや霊的な存在を信じるわけではないが、言葉では説明しきれない何か複雑な因果から、これからやこれまでを暗示するように作用するのではないかと考えることもある。彩雲はZが写真を撮るとすぐに見えなくなってしまった。

 それから話すこともなくなってきたので、清水に最近一番うれしかったことを聞いた。清水は長い沈黙のあと、

「そういえば、前にバドミントンの大会にでたんですよ」
「松国のNくんとダブルスで出て、優勝しました」

 優勝はすごいと思ったので、どんな大会なのか聞いてみたら、初心者ばかりの5組くらいしかいない大会だったのが面白かった。Nくんというのはお笑い芸人をやっている (目指している?)といっていたので、負けた方が面白かったと揶揄した。

 宿へ向かう田舎道は段々は山道に変化して、ナビの通りに進んでも辿り着けずに通り過ぎてしまった。来た道を戻って、よく見ると目的地付近の竹林に林道が伸びていて、車が一台通れる幅と轍があった。

 左右に木々の聳え立つ道を揺れながら走って、車の止められるようなところへ着くと、駐車場のようなスペースがあった。泊まるべきコテージはまだ見えない。
 X達は既に先に着いて車を停めていた。なかなか車から出ない様子なので、何かと思ったら、付近の大木に蜂がいて出られないようだった。
 蜂が去ってから荷物を持って、道の先に続いていた山道のような階段を登ると、森の中の少し高くなっているところに、大きな水色の洋風のコテージが見えた。外にはリビングと地続きになっているようにスペースがあって、ガーデンテーブルと椅子が並んでいて、見映えは大変良い。
所謂一般人の貸しコテージなので、入りあぐねていると、予約をしたZにホストから連絡があった。
 「えっと、到着したら、全員が映った写真を送ってください、だって」
 私は思わず、
 「このままデスゲーム始まるやつやん」
 というと、どっと笑いが起きた。
 それから苦戦して鍵を手に入れ、中へ入ると、これまた凄く綺麗で良い部屋になっていた。プロジェクターのある大きなリビングダイニングがあり、2階が寝室とバスルームになっていて、9人で過ごすには充分な広さだった。

 それから荷物を整理して、まだ夕食時まで時間があるのでみんなで海へ行った。
 海はコテージからも見えるくらい近くにあった。しかし海の付近に車を止められる場所が見当たらず、少し海の付近で彷徨いていた。
 到着する前の駐車場がなさそうというだという空気の段階から助手席の人間が付近について調べてくれたら楽だろうと思っていたが、生憎隣はSで、私が
 「うわ駐車場ないか」というと、
 「あー駐車場ないかもね」と繰り返すだけで、ちっとも調べる素振りも見せない。やはりSは関白な所がある。今更の仲になって、一々そういうことを指摘して調べさせるのというのも気が進まないので、一度適当なところで停車して、私が付近を調べて停められるところへ停めた。彼に対して私が腹を立てることはないし、それを感じさせる素振りを取ったり、指摘したりすることも決してない。私のヘッドがそうさせるのである。

 車から降りると潮風で肌がべったりとした。海へは道路と林を抜ける必要があって、人が通ったような跡を目印に海の方へ走った。長い林を抜けると、強い風が我々を吹いた。眼前には大きな海が広がっていた。
 千葉の海は独特な色味がする。澄んではいるが、濃色で、美しいというよりも激しい印象を受ける。随分風が強いのも相まって、海を見るたびに大きなものに気圧されるような感じがした。

 ビーチボールを持っていったが、強風のせいで使い物にはならなかったどころか、飛ばされないように必死で持っているようだった。
 男どもが落ちている食べかけの林檎を拾っていた。海に入る訳にもいかず、ただ林檎を投げたり、ふざけ合ったりして遊んでいた。足元が濡れることはなかったので、折角コテージから持ってきたタオルマットは無用の長物となった。
 波打ち際にはカツオノエボシが打ちあがっていた。綺麗な色なので触りたくなるが、Nがみんなに「こいつはやばい」と注意していた。
 Uは一人浜辺まで下りてこないで、コンクリートの斜面に座って風を受けながら我々を見ていた。
 それからIさんの指揮でみんなで写真を撮った。
 我々は高校時代からいくつも集合写真を持っている。それらの一つ一つは私の心の中で輝かしい記憶として残っている。この動かない景色の中へふらふらと没入するように、当時と、今に至る変化や時の繋がりを言葉の外で意識することができる。時々古い写真を見返すと、私の老いた心が何にも言い難いような感情によって、膏雨を得たように蘇るのである。

 …コテージに戻ると、バーベキューの準備が始まったが、私は就職活動のために説明会を受けなくてはならないことを思いだした。
 この企業は既に面倒なwebテストを解いて、エントリーシートも通過していて、今回の説明会は選考に必須のものだったので、面倒だが寝室で一人で受けることにした。私はパソコンを用意して、皆んなが楽しそうに夕食の支度をする中、一人寝室のドアを閉めた。
 しばらく話を聞いているだけかと思ったが、途中から座談会が始まった。外資系の企業で皆自信と強情にあふれた空気を纏っているので、その中に入り込んで話をしなくはならないのが苦痛だった。この時点でこの企業は私のような低徊趣味のものには合わないだろうということを悟った。40人程度が参加しており、同期のMもいた。途中でブレイクアウトルームに分かれて興味のある社員のもとへ移動するときに、私の移動した先にMも来たので、私は幼い笑いをこらえるのに必死だった。
 「世界最小のオムツについて興味を持ったのですが…」と質問をしていると、外から
 「乾杯!」
と楽しそうな声が聞こえてきた。私が遅いのでもうバーベキューを始めてしまったようだ。もどかしい気分になった。
 それから30分くらいで説明会を終え、駆け足で一階へ降り、外へ出ると、皆はなにやら人狼をやっているようだった。

 「とっちゃん何飲む?」と飲ませ係のIさんがハイボールを作ってくれた。気が利くが、当人にも意識して飲ませないといつの間にやられてしまう。
 Hはもうなんだかぐったりした顔をしていた。Sは一人でせっせと肉と野菜を焼いていて、出来上がったものから皿に移していた。
 ここから以降の会話はあまり記憶していない。私は楽しくなって皆にいろんな話を振ったことを盆槍覚えている。それからカブトムシやおおきなカミキリムシやノコギリクワガタなどの昆虫が飛んできて、捕まえて服に付けるなどして遊んだ。その間私はぐいぐい酒を飲んだ。
 肉を焼き尽くした21時くらいに、コテージの中へ戻って、じゃんけんで負けたSと清水らが暗闇の中買い出しへ行った。

 それからつまみと酒が補充されて、小さな洋卓を囲みながら談笑をした。全く悔しいことだが、ほとんど会話の詳細を記憶していない。前回、鬱とADHDで転職をし、包茎手術と風俗 (私が行けと言った飲み会の翌日に行っていた)を済ませた清水と、面白い話をしたはずであるのだが、思い返しても記憶は曖昧模糊あいまいもこで、ただ明るい部屋の様子と笑顔が映じられるだけなのである。
 夜遅くになる前に、女子どもは何時の間にか寝室へ動いていて、すごく酔いが回ったなか2階に行って、素早く風呂を済ませたことを辛うじて覚えている。それから何時の間にか股間と尻を出し合って、手を叩いて笑ったあと、身を包まれるような酔いとともに息を忘れて眠りに落ちたのである。
 
 翌朝は二日酔いで起きた。水を飲むのも億劫だと胃が文句を垂れていた。女子たちは随分早く起床していて、キッチンでなにか作業していたので、見ると、ヨーグルトで鶏ももを処理した本格的なカレーを作っていて、皆に振舞ってくれた。
 朝ごはんを食べない私にとって、二日酔いの朝からカレーを食べるのは大変な所業だったが何とか食べ切った。味はとても美味しかった。
 軽いめまいの中、外の片づけをしていると、アルミホイルに包まれたステーキ肉がグリルから出てきた。どうやら昨晩焼いて保温したぎり忘れて仕舞ったのだろう。
 
 二日目は結局マザー牧場に行こうということになった。私は朝にも同社の説明会があったが、昨日の雰囲気と、部署があまり興味の低いところだったので、初めだけ聞いて退出してしまった。PCをいじる私にXは
「次は何G?」とにやにやしてふらふらしながら揶揄ってきた。
 私はてっきり何段階目の何次かと思って真面目に返事をしたが、すぐに社名を弄ったものだということに気が付いた。私は以前彼らが成長とともに冗談が通じなくなってしまったと憂いたことがあったが、その対象は私も例外でないのだということを黙然と考えた。冗談のような幼い精神は常に大事に持っておきたいが、知識や知恵や、大人然としたものを持ちすぎると、やはりうっかり落してしまうこともある。落したものを落したことに気づかせてくれる友人の存在を有難く思った。

 荷物をまとめて、コテージを出ると、折角なのでコテージを背景に写真を撮ろうということになった。
 今回もIさんがタイマーで写真を撮れるいい画角を探っていた。彼女はしゃがんで地面に置いたリュックの上にスマホを安定させた後、ちょうどカメラに映る位置にいた私に声を掛けて、誘導をし始めた。
 「とっちゃんもうちょっと前!」
 私は返事をしてカメラの方に向き直って前へ進んだ。私は真剣そうな顔でスマホを見るIさんを見て、この瞬間に、なんとなくいたずらな童心が刺激されて、前へ一歩進んだ後、そのまま明らかにフレームアウトするように二歩三歩と前進を続けた。案の定Iさんは、
 「あ!いきすぎ!もうちょい後ろ!」と手を素早く振りながら純粋な反応をしてくれたので、今度は後ろに下がった。
 「そうそうそこらへん!」
私は矢張りなお後退した。
 「あんいきすぎいきすぎ!」
Iさんは今にも飛び跳ねそうな勢いで苦悶するので、私は尚の事愉快になった。Iさんは私が前後するのに合わせて必死で私を誘導した。
 「あっ!あっ!前!」
 「そこ!ああっ!」
すると、
 「とっちゃんA(Iさん)で遊ばないで」とZに苦笑とともに叱られた。

 それから1時間ほど車で走ってマザー牧場に着いた。運転手だとXの車に乗ることがで着ないのが残念だった。初めて来たので興味深かったが、どれも平成の空気を未だに纏っていた。牧場だが、最も可愛げがあったのは牧羊犬だった。羊を追いかけるデモンストレーションをショーとしてやっていたのだが、時計回りに回り込めだとか、追いかけろだとか、止まれという人間の細かい指示を理解し忠実に再現するのに驚いた。
 牧場なのでソフトクリームが美味かった。少し小雨が降って陽は出ていなかったのでIさんの足元は綺麗だった。雨の降るなかで、みんな服に雨の跡がついたのだが、Hの着ている服にあまりにも濡れた形跡がつかないのが面白かった。
 ピンク色のペチュニアが一面に咲いている斜面があった。ペチュニアの花壇の間は比較的広く人が並んで歩いていけるが、坂の下から見上げるようにすると、人がピンクの花畑の中に立っているように見えた。
 近くの芝生で四葉のクローバーをUが見つけた。私や他の者も負けじと探したが、結局Uの見つけたもの以外見つからなかった。
 牛を見るために坂を下ってきたので、戻るために坂道を上る嵌めになった。誰が始めたかしらんが、坂を走って登りだした。こうして彼らと走るのは実際に高校生ぶりな気がした。私は体重が軽いのですいすい進めるが、ついてきたXやH、Zは息が大変息が苦しそうだった。
 坂道を登りきると、流石に私も息が切れ切れになった。
 それから露店のゲームをやったり、空中を自転車のような乗り物で進むZとIさんををみたり、ベンチでぎごちなく談笑する清水とUさんを眺めたりした。マザー牧場はもう少し牧場の感がするかと思っていたが、かなりアミューズメントパークに近しいものであった。ここでやることはほとんどなくなったので、我々は昼食をとりに行った。

 ここでまた運転を清水に交代してもらった。私の車はXの大きな車の隣に前向きに止まっていて、清水がそこから車を出すのを見守っていたが、清水が後ろへ下がる前にハンドルを切って、角度をつけて出ようとするので、自分の車と接触するのを心配したXが
 「なぁんでハンドル切るんだよ!まっすぐ下がれって!」
と楽しそうにはしゃいでいた。騒がしそうな外の様子を見て清水も困惑しながら笑っていた。
 
 清水に運転をまかせて、私はようやくX車の助手席に乗ることが出来た。非常に大きな車で、ボンネットの左端にも鏡が付いていた。走りだすとロードノイズが殆ど聞こえない静粛性に驚いた。インテリアも高級感があって、なるほど所有感が満たされる車だと理解した。ただ燃費が恐ろしく悪いので、Xは燃費表示を見たくないと苦笑していた。
 私も金ができたら高い車を所有してみたいものだと内心考えた。
 Xは最近おじさんになったようだ。というのも甥だか姪だかが出来て、彼もすっかり溺愛しているらしい。先達ての飲み会もそれが理由で先に金を置いて帰ったぐらいである。相変わらず頭が良いが少し弄られるような愛嬌も上手く含んでいる人間だと思う。先刻も私のリュックに差さっている折り畳み傘を見て、
 「うわとっつぁん折り畳み傘持ち歩いてんの?」
 「いつも?」
 「まじかかっけえー。折り畳み傘持ち歩いてるやつが一番かっこいいわ」
 と体を揺らしながら言っていた。独特だが芯の通った考え方を有している。
 彼に今どんな仕事をしているか聞くと一寸思案した後分かりやすい説明をしてくれた。社会上において彼がどのような働きをするのだか知らないが、良くできた人間だと思うのでうまくやっているのだろう。
 
 腹はそこまで空いていなかったので、昼食にはそば屋に行った。
 注文をしてから待つ時間が長かったので、清水に一番好きな食べ物を聞いた。清水は暫く思案してうどんと言った。確かに数年前彼は丸亀製麺でアルバイトをしているところをSに盗撮されていた。それから世界で一番うまいうどん屋さんにどれくらい並んで待てるかと聞いたら、今度もまた暫く閉口へいこうしてから、
「3時間…」と言った。結構待てるなと思った。

 蕎麦を啜った後は、東京ドイツ村でパターゴルフをすることになった。また車で1時間ほど移動した。千葉をいったり来たりしている。
 私はまた自分の車の運転に戻った。話すこともいよいよ尽きてきて、車内には若干の沈黙が続いた。Hと久し振りに車が一緒になった。
 私は先達ての飲み会で彼と再会をしてから、彼の性格が少し暗くなったのが気になっていた。
 Hは随分過酷な職業をやっているらしい。まともに休めないというわけはないが、日々積み重なる残業に徐々に精神と肉体を削られているのだろうと考えていた。実際に彼の口数は私の知っているHのものより随分減っているようだった。語気も笑みも弱弱しい感じがする。何より一見して彼の剽軽ひょうきんな雰囲気が減衰して、暗く澱んできたことは私の目に明らかだった。

 仕事というものは何なんだろう。ZやXのように人を豊かにしながら、Hや清水のように人から生気を削り取っていく。その差異はどこから生じるのだろうか。
 現代には働かないで金を得る手段が溢れている。それでもなお社会に出て仕事をすることにどんな意味があるだろうか。自らを削りあげて行くことに何の意味があるだろうか。私は自身の我慢を強いてまで働きたくない。と同時に、我慢を強いてこそ成長できるのだから、厳しい環境で働きたい。仕事のために働きたくはない。と同時に、仕事に私の力の全てを注ぎたい。
 彼もこんな矛盾を抱えているだろうか。そんなことはついに一度も聞くことができなかった。
 
 パターゴルフは初めてだった。私はUと清水とコースを回ったが、最初の方は力んでしまって真っすぐ球が進まなかった。清水はクラブを間違えていて、少し腰をかがめないと球が打てないような子供用の短いものを使っていたが、スコアは3人の中では一番高かった。
 3チームに分かれて勝負したが、結局我々のチームは最下位でアイスを奢らされた。月並に悔しかったのでもう一度やりたい。

 それからまた芝生の上で写真を撮った。
 また、小さなジップラインがあったのでそれで少し遊んだ。ジップラインが二つ平行に並んでいたので、
 「清水、これ両手で持って同時にいける?」
 と野暮なフリをしたら、清水はにやにやしながら、ジップラインの綱を両手に一つずつ持って、綱の間の中央に立った。それから皆の好奇心を集めながら、ゆっくりと足を踏み出すと、彼が地と空の境界が感じられないほど滑らかに宙に浮いて、二つのジップラインを寸分違わぬ速度で滑っていくので、皆腹を抱えて可笑しがった。
 旅行は幕張SAで軽食を取って解散になった。SAに降りるころに気が付いたが、コテージの部屋の中にあった足を拭くマットを持ってきてしまっていた。返すのも難しいので、言われるまで私の方で保管しておくことになった。買った花火もやらずじまいで、私の家にしまってある。
 何となくこうしたアイテムによって、私たちの関係性がぎりぎりでつなぎとめられているような気さえした。そこには安心と不安があった。
 「一本締めで解散しますか」
 「それじゃあ皆さん、お手を拝借」
 「よーーー」
 パンと軽快な音が一つなって、今回の旅行は御仕舞いになった。
 またどこかへ旅行に行くだろうか。乾いた風を総身に浴びながら、私は珍しく何となく将来のことが楽しみになった。
 

五. HOW DO I SAY THAT

 館山での旅行中に説明会へ出ていた企業の本選考の面接を受けた。
 この企業には夏選考があって、受かればインターンシップへ参加して、そのまま内定となるらしいことを先輩から聞いて、第一志望ではなかったが、世界でもトップレベルのメーカーで、内定も早いので腕試しも兼ねて受けることにしたのだった。
 1次面接は1時間ほどかかり、エントリーシートの内容や特定のケースにおいてどう動くかといった質問を受けた。比較的和やかな雰囲気だったので問題なく試験を終えた。
 それから3日後くらいに、合格の通知とともに最終面接の連絡がきた。一緒に受けたMの方は手応えこそあったらしいが残念ながらここで落第となったようだ。
 この最終面接というのが、話には聞いていたものの、次の面接は英語で1時間やるというので、英語の不得意な私はすっかり弱り切ってしまった。
 数週間で英語を話せるようになるのは無理があるので、とにかく質問を想定して、回答を拵えて英訳しておくということをやっておいた。
 英語面接で使えるフレーズなども調べてみたがあまり使えそうなものはなかった。志望度が高くないことも相まって、多少英語に不自由があってもとにかく自信を持って、笑顔で応対すれば何とかなるだろうくらいに考えていた。
 試験は午後からだった。私はあまりに緊張すると平生の飯が喉を通らないので軽く食べられるお菓子だけ口にしていた。時間になって、zoomに接続すると、前回の面接の時よりも偉そうな人と、アラブ系のトレックという男の2名がいた。
 面接は自己紹介から始まった。
 一人目の日本人の男も随分堪能な英語だと思ったが、続くトレックはネイティブスピードで、独特の訛りもあってか何を言っているのだか判然としなかった。自己紹介でこれだから、今後込み入った話になれば、私は彼の喋舌っていることを殆ど聞き取ることができないだろうと悟った。この瞬間に、遠くからぼんやり眺めていたものへ一気に鼻先まで近づいて、現実的な大きな壁を目の当たりにしたように緊張が胸を走った。私は特別引き締まった思いがしたが、とにかく笑顔を失わないために楽しもうということだけを心に決めた。
 それから初めの質問として、志望理由を聞かれたので、矢張り予め用意した文言をWordファイルを見ながら述べると、トレックが、
 「あなたは生命科学系の専攻ですよね。なぜこのポジションを希望するのですか」的なことを聞いてきた。うっかりしていた私は、この重大で当然の質問に対する回答を全く用意していなかった。そういえば私の専門とこの職種はかなりずれていたのだった。面接が始まった矢先、その矢は私の額の正中に勢いよく突き刺さった。
 「I would like to … make use of my strength」
 私は自分の課題発見やその解決の能力などを生かしたいという風なことを志望動機に書いていたので、苦しいながらそれを読み上げた。しかしこれは私の志望動機と重複する内容ななので、トレックはわかったともわからないとも返事をしなかった。私は開始早々自らのペースを乱されることになった。
 それからエントリーシートに書いたものを説明してくださいと言われ、英訳したものを機械的に読み上げると、それについて質問が来るという形で進んだ。質問はかなり鋭い、というより否定的な視点から生じるものであり、深く考えているかを探るようなものだった。
 当然私の用意した回答では間に合わず、私はすぐに言葉に詰まってしまうことになった。
 「How do I say…」
 私はすっかり自信を無くして、それからの時間は苦痛だった。トレックもあまりに退屈で机に頬杖をついたり、頭の後ろで腕を組んだり、斜め上を見つめていたりしていた。飛んでくる質問は鋭く厳しい。英語は出て来ず伝わらない。時々口を開くトレックは巻舌をするので何を言ってるんだかわからない。沈黙が私の思考を焦らせた。焦りが沈黙を数倍長く感じさせた。
 以前同じ面接を受けた先輩から聞いた話だが、この先輩も英語が喋れず、面接官が耐えきれずに10分くらいで日本語での面接に切り替わったらしい。そしてこの私の面接も始まって13分で遂に、
 「OK, Trek, We should talk in Japanese.」
といって日本語混じりの面接になった。私は情けない思いがした。
 「あー、つまりトレックは、彼もYoutubeやってるけどあまり再生数が伸びない。どうしたらいいか、あなたはどういう具体的な目標立てて、それをどうクリアしたか聞いてます」

   私はもうだめだと思ったが、焦る頭でも笑顔だけは忘れておらず、ふにゃふにゃ笑いながら、要領の得ない回答を繰り返した。矢鱈ヘラヘラするので逆に印象が悪かったに違いない。
 いよいよトレックは質問をしなくなり、続いてのケース質問は殆どトレックは参加していなかった。多分日本語がわからないのだろう。
 最後の逆質問だけ英語に戻し、私は評価のためでなくって、ただこのまま終わるのが苦しかったために、和やかなムードを回復するような質問をした。日本人の方は少しにやにや笑ってくれた。トレックも久々に口を開き、
 「ここでの仕事はいつもチャレンジングで楽しいよ」的なことを言っていた。
 時間が余っていたが、これはもうだめだなと思っていたので、二つ目の質問はしなかった。
 面接を終えて、退室をする前に、
 「英語で伝えきれずすみません」と謝罪をすると、
 「いえいえ、大丈夫ですよ」と笑っていた。まあ確かに結局私のことを落とすんだろうから、英語が喋舌しゃべれても喋れなくても関係ないだろう。
 私は最後に丁寧にお辞儀をして退室した。

 パソコンを閉じると、私は大きな溜息とともそのまま後ろへ倒れ込んだ。それから凄くイヤな気分に陥った。高圧的な質問と、私に微塵も興味を持たないような態度に、今にも「あなたと一緒に働きたいと思わない」と言われそうな気がした。私はこのような優れた人間と働きたい。いいや、私は自分の無能が明らかになるのが嫌だから、優れた人間と働きたくない。私の本当は一体どっちなんだろうかとわからなくなった。私がさっきまで述べていた自分に対することが本当なのかわからなくなった。
 私のヘッドは私のハートを服従させるようにできている。私の意思は私の理想に縛られている。そのうちヘッドもハートも草臥くたびれる。それなのに私のボディーは生きたがっている。この不均衡が苦しかった。私はこのまま眠ってしまおうかと考えた。しかし目を瞑っても心臓が高鳴ってちっとも眠くならなかった。退屈そうなトレックの顔が想起された。私の口から拙い英語が溢れた。混雑した私の頭に、ある暗い一点が滴下されて波紋が生じたように、一つの出来事が連想された。

 それは先日私の知人が夭折ようせつしたという報知だった。いや、知人という程の仲でもなかった。ただ高校の時分に知己になって以来は縁が切れて、悉皆すっかり別人のように他人になってしまった。 
 私は彼女と高校2年生の時分に同じクラスになった。交際の狭い私が彼女の存在を認識したのもこの時であった。以前からの付き合いがなかったので、初めて喋舌ったのも随分クラスが馴染んだ後だったと記憶しているし、行事以外で特別喋舌しゃべったような覚えもない。

 私の記憶の中の量的に乏しい彼女の姿を探すと、いつも頭の中に現れる光景がある。
 平生の英語の授業のなかで英単語帳から英単語を問題に出し合って、単語の意味を当てていくというワークがあった。私は当時近くの席に座っていた彼女とペアになって、初々しい恥じらいと共にワークをやったのである。彼女は流暢な発音で私に問題を出した。周りの生徒も皆声を出しているので、多少近づいて声を張らないとうまく聞き取れない。何となくその空気感が私の彼女の二人だけに焦点のあった空間のように感じられたので、特段喋らない相手ということもあって、若干緊張するような気がした。
 私は彼女の出した問題に対して次々とその意味を言いあてるので、少し難しい問題を出すと言って、interbene (介入する)という単語帳の後ろの方にある英単語の意味を聞いてきた。私は偶々その意味を知っていたので、やはり直ぐに答えを言うと、彼女は驚いた顔をして、純粋に私も褒めてくれたのである。私の方でもどこにこの会話の重心を置くべきかわからず、不慣れな寸劇を見るように気恥ずかしくなって、気不味い微笑を洩らしたのである。
 私と彼女の関係はそこまでである。お互いに深い印象を持っていないだろう。しかし彼女が、私の記憶の中の暗くない彼女が、思考に苛まれて荼毘だびに付されたという事実を想起すると、何か心に騒ついた感を覚えざるを得ない。
 澱んだ私の心は掻き回されるように酷く濁った。

 それから私は起き上がって、徐に外へ出て、私の部屋の下あたりで、私が投げ捨てた銀色の平らな塊を探した。それは案外ベランダのすぐ下に落ちていた。私はそれを部屋へ持ち帰ってゴミ袋に入れ、もう一杯になった袋の口を固く縛った。それから何となく瞑想するように立ったまま目を閉じて一過性の思考に沈んだ。
 ───死は救済だろうか。白い光に無闇に向かっていく徒労をせずに済むだろうか。明日のことを考えることさえ辛い人間は、今日無理矢理に思考を止めることのほうが重大だろうか。自らの心臓の鼓動を聞いたと思うと、高所から落下して、西瓜すいかのように割れる頭と鮮血がはっきりと映じられた。瞬きをすると、皮が割かれて大脳の透けたマウスが見えた。小さな頭蓋骨に鋏を入れて、骨を断ち割る軽快な音が再生された。蛞蝓なめくじのような海馬が取り出された。蛍光灯に頭を打ちつける蝉が見えた。圧迫されて体液の漏れた姿が見えた。
 私は冥々のうちに総身に力が入って筋肉が緊張していることに気が付いた。体のどこかに沈痛を感じた。思考は流転しながら一つの秩序を持って回転していた。
 私はあの部屋で、この銀の塊に向かって腕を振り下ろしていた。それはヘッドからでも、ハートからでも、ボディーからでもない行動だった。もしくは何にも屈従していない私の純粋な一つの行動だった。

 私は恐怖を見ながら安心を探している。それはまるで夜に陰を探すようなものだ。しかしヘッドの停止はすなわち安心ではない。ハートの解放は幸福ではない。ヘッドもハートも何処かへ行ってしまえば瘋癲ふうてんになるほかない。
 安心は不安心があって生じる。秩序は混沌があって生じる。不幸があればこそ、絶望があればこそ生きる意味があるのだろう。

 最終面接から一週間ほど経って、落第の連絡が来た。私の生きる希望はまだあるらしい。


 

 ───暑い夏が終わった。季節は過ぎて秋になった。


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