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【SS】くじらの悲しみ

その日、東京湾に一頭のくじらが座礁ざしょうしたとニュースで持ち切りだった。 
くじらは住んでいるマンションの近くに打ち上げられたらしく、あたしは喜び勇んでくじらの元まで駆けつけた。

くじらは近くの海岸に、その巨体を横たえ、周囲には見物客が大勢集まっていた。
よく見ると、大手テレビ局の撮影クルーも混じっているようだ。

あたしは見物客の中に体を潜り込ませ、人と人の間からくじらの姿を眺めた。

くじらは近くで見れば見るほど大きく、よくぞ東京湾を泳いでここまで来たという感慨深い気持ちが胸をよぎった。

大きいくじらの姿を背景に、人々はポーズを決めて写真を撮ったり、動画を撮ったりしている。
ビデオ通話で、くじらを見せながら誰かと話している人もいる。

あたしも携帯を取り出し、何枚かくじらの姿をフレームの中におさめた。
生きていたら、どんなに迫力があり、神々しささえ感じる姿だったろう。
あたしはくじらの姿を画面上で拡大したり、または縮小したり遠景で撮ったりと、頭をひねりつつ写真を撮った。

すると不思議なことに、しゃがれたような異様な声が辺りに響いた。

「天よ、なぜ、こんなことを……」

あたしは携帯を取り落としそうになった。
声はなおも言う。

「どうしてこんな仕打ちを。一体なぜ。天よ……」
あたしは周囲を見渡した。
こんなに大きい声なのに、不思議なことに誰にも聞こえていない様子だった。
あたしは声が聞こえた方向に耳を澄まそうとしたが、生憎、見物客の声が多方面から聞こえて、さっぱり見当もつかなかった。
それに、声は人間の発する声よりも大分大きかった。
何だか、人間の倍以上大きい存在が発するときの声のような――。

あたしは急にはっとして、くじらの方を見る。

くじらの巨体は停止したまま、何の動きも見せていない。
だが、もしかしたらと、ある可能性にあたしの考えは行き着いた。
それは、こうだ。
くじらがまだ、ほんの少し生きていて、人間に訴えかける何らかの『声』を発しているのではないか。

周囲の人に聞こえていないのは、特定の感受性を持った人間にしか聞こえないからだ。
例えば、第六感と言う、五感ではとらえられない感受性を持った人間にしか。

あたしは耳を澄ました。
声が聞こえる。
だが、それはどんどん弱くなっていくように感じた。

「天よ、天よ。天よ……こんな仕打ちをされ、海から追い出すとは。なぜ……」
くじらの声は急速に弱くなり、最早、聞き取るのも難しいくらいだった。

あたしは顔を上げる。
くじらは依然、動かずにその巨体を静かに横たえている。

くじらの身に何が起こったのか。
どうして、海の中を突然追われ、浮上することになったのか。
もう少し早くこの場に来ていたら、あたしには聞き取れたのかもしれない。
いや、もしかしたら、くじらにもその原因がわからなかったのかもしれない。

どうすれば、くじらがこんな目にあわずに済んだのか。
海の中を追われ、地上にやってくるまでに、どんな過程が、文脈がそこにあったのだろう。

あたしは、たまらない気持ちになった。
携帯を握りしめ、あたしは再び耳を澄ました。
もう声は聞こえなかった。

見物客は騒々しい声を立てて、見る光景にきが来ると、一人また一人とその場を後にしていった。
誰一人として、くじらにお別れの言葉すら言わない。
あたしは、無性に悲しくなってしまった。

その後、しばらく時間が経った。
あたしは再び海岸へとたどりついた。
あの不思議な声は、もう二度と聞こえない。
だけれども、さざ波寄せる岸辺に立つと、あの不思議な声がどこからともなく聞こえてきそうな気がするのだ。
ゆっくりと、どこか遠くから。

不思議な声が聞こえなくなった理由。
それは、『進化』を殺した人間への罰。

海中の生物は多様な進化を遂げている。
ベニクラゲは、老化やストレスにより衰えると、体細胞が幼若ようじゃくな形態に戻り、再び成長するため、『不老不死』と言われている。勿論もちろん、個体によって、その『若返り』は繰り返し行える回数が限られてはいるが。
タツノオトシゴも、進化の点では興味深い。
オスが卵をメスから受け取ると、自身の腹部に保持して孵化ふかまで世話をする。いわば、オスが妊娠を代理し、しかも『出産』のときには陣痛すら経験して子孫を次世代へと残している。

ひるがえって、人間はどうだ。
種の進化を科学や文明の力にまかせて、自らは環境の適応など一切考えることもせず安穏あんのんと暮らしている。他の旧人を殺し淘汰とうたするのみならず、今では様々な種を淘汰とうたし、思考すら制限して淘汰とうたしていく一方だ。
海中の生物多様性を思考の多様性だと見るなら、地上世界は足元にも及ばない。
進化してきたものたちと、これ以上進化できなかった人間との違い。

くじらの悲しみ。
消えない爪痕つめあとの記憶。

足元に広がる海の世界を、あたしは眺めた。
あの時から、ずっと変わらないままの光景。
ただ、あの時よりも、海ははるかな深さをたたえたように、人間を見つめ返しているかのように思える。

いや、不思議な声は二度と聞こえない方が良いのかもしれない。
人は地上で。くじらは海中で生きなければならないのだから。
お互いに進化をげ、行く先を見据みすえなければいけないのだろう。
だが、あの時のくじらの悲しみは、行き場を失うことなく確かにあたしの胸へと届いたのだ。

足元で、さざ波がさっとその姿を引いた。その後、ゆっくりと岸辺にその身を打ちつけ、音を立てた。


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