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決断が、文脈を生む。

わたし、あきらかにコロナウィルスに関するインプットが過剰です。

なぜそんなにインプットするのか

小さいながら経営をしている立場であることや、そしてよめさまとちいさな娘ふたりを(おもに経済的な面で)支えていること、そしてよめさまとふたりで、じぶんたちいぐち家の方針を決めている立場であること、つまり決断をする立場であることが、そのインプットを求めます。

正誤はあまり重視してなくて、やれることをちゃんとやっているか。なにに貢献すべきか。後悔しないか。みたいな基準を満たすために情報を得ています。

決断が文脈を生み出す

会見をかなり見てます。会見を通しで視聴すると、メディアの、とくに速報的な要約記事は、とても言葉足らずであることがわかります。びっくりしますよ。判断材料としてはめちゃめちゃ甘いんです。

で、詳細記事を見ると、メディアのイデオロギーや記者の主観が入り込んできます。もちろん、これ自体は悪いことではないです。

じぶんのイデオロギーや主観とのコントラストが、自分のポジションやバイアスを知るよい指標として機能し、パースペクティブを拡げてくれます。

それでもって熟考し、決断する。この決断するということは、それに基づいて行動するということに対して、強い文脈を与えます。そして熟考すればするほど文脈は強くなります。

文脈は、その名の通り「流れ」なので、そこで終了することなく、次の行動や次の決断における有力な手がかりにもなりえます。この決断が文脈をつくる、というのは今回得た新しい知見でした。

文脈の弊害

でもこの強い文脈がやっかいで。このコロナに関して言えば、自分が選択しなかった行動に対する攻撃性を高めてしまう効果があります。つよい信仰心は排他的になるものだな、と身を持って知りました。

このバランスをとらねばならないこと、人間的な成熟が必要とされることをつよく認識していかねばと反省した本日でした。すいませんでした。

おわりに

今日の非常事態宣言で、ある程度のガイドラインが示されました。じぶんで考える負担はやや減りますし、環境の変化(ウィルスの状況ではないですよ、環境のこと)もゆるやかになると思います。ちょっと落ち着いて意識的にインプットを減らし、心の平穏と、いましかできないことをやろうと思います。


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