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沖縄の史跡

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沖縄には「御嶽(うたき)」や拝所と呼ばれるウガンをする場所がいたるところにあります。観光地ではないので紹介されることはありません。場所によっては不思議な雰囲気をかもしだす御嶽や史…
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#おきなわ

◼︎ 辻南公園 ◼︎

那覇市にある辻南公園に行ってきました。公園内にいくつか拝所があります。ここも何度か歩いて通っていたのに…拝所があることに全く気づかず。 一番大きな祠は鍵が掛かっていて、中をみることができませんでした。いくつかあることから、ここに何らかの理由で集められたのだ思うのですが、調べても何も出てきませんでした。

◼︎ 知名ヌヒャー墓 ◼︎

以前紹介したテダ御川の手前にある「知名ヌヒャー墓」に行ってきました。案内板通りに行けるのですが、ずっと坂を登って行くので結構疲れました。たどり着くと立派なお墓があり、その敷地の奥に知名ヌヒャー墓の墓はあります。 アップの際にいろいろ調べてみたのですが、何も見つかりませんでした。立派な案内板はあるのに…どんな人物か気になるところです。

■ 戦後の竜宮神 ■

馬天のクジラ公園内にある「戦後の竜宮神」に行ってきました。明治時代、馬天は海軍の貯炭場や給水タンクが整備され、港は国頭からの山原船による木材・薪炭などの移入港として栄えたそうです。また、大東諸島との航路となったことから移住者が増え、海岸近くはハマヤーと呼ばれる小集落ができたそうです。 なぜ「戦後」と付くのは分かりませんが、戦前はナーチャミーモーの近くにあったそうです(ナーチャミーモーについては後日)。戦後は、旧久高船のチケット売り場の南側や漁業組合事務所の東側に移り、現

◼︎ ウミナイ御墓 ◼︎

大里城趾付近をウロウロしていた時に見つけた御墓です。崖のようなトコロに案内板があるのを偶然見つけ、周辺の御嶽とまとめて撮影しました。「ウミナイ」は「妹」という意味で、かつてこの周辺を治めていた島添大里按司の妹の墓だといわれてます。 14世紀頃… 島尻地域を支配した島添大里按司によって島添大里城が築城されました。大里・佐敷・知念・玉城地域を支配下に置き、中国の明王朝とも盛んに貿易を行い、大きな勢力を誇っていました。しかし、初代琉球王朝の国王となる尚巴志によって攻め落とされ

◼︎ 松尾御嶽 ◼︎

南城市大里地区にある松尾御嶽(まちゅーうたき)に行ってきました。この辺りには多くの拝所・御嶽があり松尾御嶽もその一つです。アーチ橋を模したような形をした御嶽となっています。僕の写真ではツタに覆われ分かりづらいですが、アーチの上には宝珠があり、両側には灯篭が置かれています。 琉球国由来記には「松尾ノ嶽」、神名「松尾森御イベ」と記されているそうえす。松尾御嶽は遥拝所だそうですが、どこへの遥拝所なのかはっきりしたことはわかっていないそうです。ちなみに僕が訪れた時は雑草が多く分

◼︎ ザズンの殿 ◼︎

沖縄の南部をドライブしている時に見つけた拝所です。百名公民館の前にあり、かつては「ヂャチュンノ殿」・「茶屯之殿」とも呼ばれていたそうです。ザズンの殿は、御嶽の山に鎮座する祖先神を村落内にお招きし、おもてなしをする祀りの場所だそうです。殿には、火ヌ神が祀つられ、この火ヌ神から各家庭に火種を分ける行事も行われたそうです。 かつては、旧暦2月3日の麦のウマチー、5月6月の稲のウマチーに盛大な祭祀を催し、村建ての神様に感謝をささげ、農作物の豊作を祈願していました。沖縄戦で破壊さ

■ 宮里公民館周辺の拝所郡 ■

今日紹介するのは原付で沖縄市をウロウロしている時にみかけた拝所群です。いろいろ調べてみたのですが、何もみつかりませんでした。 ちなみに調べている時に、Googlemapを見ていると、マップが古かったようで、トプ画にある白い祠?はありませんでした。きっと最近建てられたものだとおもわれます。

◼︎ 手登根殿 ◼︎

南城市の手登根集落にある「手登根殿」に行ってきました。以前、案内板通りに探してみたのですが、見つからず諦めました。調べてみると農園の裏手にあることが分かり、再度行ってみました。以前は、農園の木に隠れて発見できなかっただけでした… 手登根殿について調べてみたのですが、何も見つけられなかったのですが…「殿(とぅん・とん)」について書いておこうと思います。 「殿」とは、集落や御嶽に接している広場のことです。かつての沖縄では「殿」より上(丘)に御嶽やグスク、「殿」より下に村が

◼︎ ヒータチー(灯台) ◼︎

奥武島にある「ヒータチー(灯台)」を撮影してきました。小さい島なので、車を止めて運動がてら歩きながら撮影してきました。 「灯台」とあるように、油ランプを灯して夜間の安全、航路に重要な役割を果たしたそうです。明治45年以前から使われてたようで、昭和の白黒写真では、現在のように家などはなく、島から遠くなければ火は見えたかと思います。ちなみに手前にある拝所については、調べても何も分かりませんでした。

◼︎ 唐の船御嶽  ◼︎

八重瀬町の長毛集落にある「唐の船御嶽」に行ってきました。 昔々… 中国の貿易船が港川沖で難破し、船員はこの辺りに上陸し洞窟で住み始めました。彼等は食糧がなく、芋や野菜、にわとりや豚を盗んで食べていたそうです。激怒した住民は、このことを番所に訴え出ました。番所では遭難した船員に同情し、番所が食糧を分け与えました。 さて船員達はこの地に祠を設け、媽祖(まそ)と呼ばれる航海の女神を祀りました。彼らは故郷の中国へ帰れるよう、航海の安全と健康を祈願していました。やがて中国へ帰れるこ

◼︎ フスミ御嶽 ◼︎

原付でウロウロしている時に見つけた「フスミ御嶽」です。ずいぶん前に同じ名前の御嶽を紹介していますが、こちらは南城市にあるフスミ御嶽です。「フスミ」とは「へそ」を意味し、集落の中心とされています。 フスミ御嶽は、入り口近くに拝所があり、奥の方にいくと土帝君があります。かつては旧暦の3月3日には、海に行くかわりに「浜下り」という行事をここで楽しんだそうです。この拝所と土帝君を合わせてフスミ御嶽と呼ばれています。

◼︎ イークン御殿 ◼︎

宮城島にあるイークン御殿に行ってきました。イークン御殿は「ウドゥン(お宮)」とも呼ばれています。 琉球三国時代… 尚巴志に滅ぼされた他魯毎(タロマイ)の四男・宮城按司はこの地に逃れ隠れました。その後、宮城按司の二代目・宮城大主は、上根家の娘を妻として娶り、その子孫が祀られているのがこの拝所です。 イークン御殿は、池味と上原の2集落の神事の中心となっている場所で、現在も上原集落の神女は、最初にこちらで拝みを終えてから、各地に点在する拝所での行事を行いながら巡るそうです。

◼︎ 南のお嶽 ◼︎

八重瀬町の港川にある「南のお嶽(南ヌ御嶽)」に行ってきました。南のお嶽は、「竜宮の神への迎え」の男神であると伝えられ、白い球体の石が神体として祀られています。ハーレーの日には、集落の人が集まり拝みをするそうです。ちなみに「北ヌ御嶽」もあり、神体は女神とされています。 「北ヌ御嶽の女神だけでは部落は栄えない」 という理由で、南のお嶽は建立されたといわれています。今回のアップの際に調べて「北ヌ御嶽」のことを知り、次回撮影してきたいと思います。

■ 新里ノ殿 ■

南城市の新里にある「新里ノ殿」に行ってきました。ここは新里大主の屋敷跡と言われ、その子孫や集落の人達が拝んでいるそうです。 元々の御嶽は地滑りによって消失してしまい、新里集落の拝所「イビの森」へ合祀されました。