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荀子×運命学② 帝王学の始

第2回目は、
荀子の人生を辿りながら、
荀子が伝えたかった事に迫ってみたい。

荀子の人生

荀子は諸子百家の中ではめずらしく、貴族の出身。
貴族(卿)ということで、「荀卿」とも呼ばれていた。
名は「況」。周王室にゆかりのある趙の出身だ。

旬子の記録は、
司馬遷「史記」の「孟子荀卿列伝」に記載されている。

この書には、性善説の孟子を始め、陰陽五行説を説いた陰陽家の始祖、鄒衍、博愛主義を説いた墨子などの伝記も掲載されている「諸子百家名鑑」のような篇である。

それによると、荀子は「戦国の七雄」の一つ、趙の貴族(卿)で、50歳になりはじめて、学芸の中心地である斉の国の首都 臨淄(りんし)に遊学したとある。

太公望呂尚 が封じられてからの歴代の斉の首都である、臨淄(りんし)の城門のひとつ「稷門」(しょくもん)の近くに、斉の王は、広大な屋敷が作り、中国全土からくる学者たちを、身分に関係なく衣食住を与えて厚遇したため、ここには中国全土に知られた「稷下の学」と呼ばれたアカデミーが形成されていた。

ここで学士たちは、学派を問わず、日々論争を行ったため、後の歴史には、百家争鳴(ひゃっかそうめい)と言われている。

儒家・墨家・道家、陰陽家、兵法家で世に名高い孫臏など様々な学派が集まり、自由に討論が行われ、論理が磨かれ、影響しあって、独自の哲学が形成された。

東洋思想の基礎の全てがここで誕生したといっても過言ではない。

荀子は、このアカデミーに50歳の時に入学した。
2500年前の当時、その年齢で入るのは極めて珍しかったことだろう。

同時期に直接交流した学者として、陰陽家の鄒衍、贅壻の淳于髠、道家の田駢らがいた。彼らとの出会いは後の荀子の思想に大いなる影響を及ぼす。

アカデミーには、「祭酒」という生徒会長のような職があり、荀子は3度も選出された。

そのため、それを妬んで懺悔する者がいて、人間関係に悩んでいたところ、楚の国の宰相として名高かった春申君にヘッドハンティングされ、楚に移り、そこで新たなアカデミーを開設した。
斉の臨淄には10年間いたということなので、
60歳前後からの新天地での再スタートになる。

この新設された荀子アカデミーに入門したのが、李斯と韓非子だ。

それでは、司馬遷「史記」に記されている、荀子の時代をみてみよう。

荀子の生きた時代は、汚れきった世の中で亡国や乱君が相次ぎ、大いなる道は廃れ、世間では吉凶禍福はすべて神頼み、つまらない儒者は小言にこだわり、荘周(荘子のこと、老子とならぶ道家思想の中心人物)らは、巧みに是非を言いくるめ、世情をますます乱していた。
そこで荀子はその状況を憎み、儒家、墨家、道家の実情および興廃と序列を論じ、それを数万言に著して亡くなり、蘭陵(楚の国)に葬られた。

史記の孟子荀卿列伝

どの程度、汚れ切った世の中だったのか。

どの程度汚れ切っていたのか、
墨子を例にとってみる。

墨子は、兼愛主義を唱えた思想家として有名だ。
墨子の故郷「魯」は、孔子の生まれた国。
史記の孟子荀卿列伝によると、時期的には、孔子と同期、あるいは孔子より少し後の人物であり、荀子より約100年前に誕生した思想家だ。

孔子が唱えた儒家思想は、身分制度を前提にしたものであった。
墨家はこの考えに対するアンチテーゼを唱え、身分制度を取り払い、平等に人を愛する兼愛・博愛主義を唱えた。

兼愛とは、自分を愛するように他人を愛し、
互いに利益を共有することを唱えた理想的な思想である。

しかし、時代は戦国時代。
戦い方を唱えない限り、遊説者(コンサルタント)として存続出来ない。

そこで、墨子は、自ら仕掛けず、攻められたら守るという、専守防衛の考え方を唱えた。兼愛主義の墨子らしい戦い方だ。

だが、弟子の時代になると、ここに矛盾が生じてくる。

墨子を師と仰いだ墨家集団は、
守るために、攻めの武器の徹底研究を行った。
そのため、墨家は性能の良い武器が制作できる、武器製作の第一人者になっており、諸国に販売する武器商人になっていた。

戦国時代が助長されたのは、皮肉なことに、この墨家が武器を開発し続けた事にあるという説もある。

勿論、墨家の間でもさすがに反省が生まれ、原理に戻り、兼愛を実践しよう、武器販売をやめようとする派と、
武器商人として潤うことで将来を展望する派に分かれ、血と血を争う熾烈な内部闘争に発展したが、結局は後者の実利主義者が勝つことになる。
だが、この大いなる矛盾により、戦国時代が終わると、墨家は衰退していった。

あの兼愛主義の墨家までが、そこまで汚れきったのが戦国末期だ。

そんな乱れた世の中に、荀子は登場する。
しかも、荀子は、40代の後半に秦に旅行するまで国外を出ておらず、それまでの歴史は一切記録がない。年齢的にも、孫までいただろう。
どうして名家を捨てて、留学したのか、その辺りの記録はないが、そこにまた荀子の魅力があるのだと思う。

この時代の、知識人が、
その年齢まで国外に出ない事は珍しいことだったという。
孔子も孟子も孫子も墨子も、色々な国を訪れ、遊説し、自分の能力を宣伝して、どうにか採用されようとしたが、生まれが高貴で、実家も裕福だった荀子は、中年過ぎまで、ひたすら自国で学問に励んでいた。

たび重なる戦乱により、滅亡しかかった、斉の稷門アカデミーを再建するため、依頼されて斉に来たという説もあり、この説の方が納得しやすい。

今でいえば、70歳の老人が、家族を捨てて、ハーバードに入学したようなものだ。

10年程アカデミーにいた後、60歳で新たなスタートを切るが、
春申君が没した後も母国に帰らず、楚の蘭陵にて、約20年間余生を送り、教育と著述活動を行った。
今読んでいる「荀子」は、その時に書かれたものである。

荀子から学んだ者達が、その後中国を統一し、その後続く漢王朝の思想的土台を作ったという。

そう考えると、帝王学とは、この荀子の考えなのではないか。
習近平国家主席が、荀子を愛読書というのも、納得できる話である。

荀子の運命学 第二篇 修身

私たちは何故、
将来地震が来るとわかっていながら勤勉に働き、
台風に再襲される事が分かっていながら、
真面目に復興し、
大した利益が出ないとわかっていながら、
頑張って商売を続けているのか。

伝に、君子は物を役し小人は物に役せられる、
といえるは此れを謂うなり。
身は労するも心の安ければこれを為し、
利は少なきも義の多ければこれを為す。

荀子巻第一 修身篇第五

「君子(優れた者)とは、自らが主体となり、
自分を取り巻く環境や周りの人々を上手に活用するが、
凡人は、主体性がないため、環境や外物に翻弄される。」

近い将来、
大地震が必ず来ると政府は公言している。
これは大変不安なことだ。
だが、不安であればあるほど、
自分が何をすべきか分からなくなり、
周りに翻弄されてしまい、
主体性を失ってしまう。

今やるべき事を黙々とやることこそ、
気持ちが落ち着く唯一つの方法だ。

自分を安心させるためには、
黙々と今を生きることである。

黙々と生きるとは、「己が生きる」こと。
己という主体性がある。

そこに主体性があることで、
次へと進むことができるのだ。

このまま今の商売を続けていても、
大した利益が出ないことは分かっている。
しかし、それが「自分が生きている」という道義なら、
それを行った方が良い。

無駄だからと辞めてしまうと、
不安になるだけだ。

不安になると、外物に翻弄され、
混迷の中に生きることになる。

この商売の方が儲かるからと、
勧誘され、前の仕事より儲かっても、
気持ちが納得せず、安住しないのなら、
そこには自分の主体性がない。

そのため、外物(周り)に翻弄され続け、
幾ら大金を手にしたところで、心が放浪し続ける事になる。

これは荀子の「修身の篇」に書かれている言葉だ。

荀子の「修身」の特徴は、人間の内部の主体性、自律性としての「心」が、修身の大切な要素と捉え、「気」という物質的要素から心身を養うことを述べている所にある。

どんな仕事においても、主体性があるかどうか、
それが肝要なのだ。

そして、もう一つ、幾ら主体性があっても、外見的に不安定だと、それは人間的魅力に繋がらない。
その手段として唱えているのが、「礼」の規範に従うことだ。

生き方の自己規定のために「礼」がある。

礼とは身を正す所以なり。
礼然くして吾も然くするはすなわち 是吾が情の例に安んずるなり。

荀子巻第一 修身篇第十

礼とは身を正すものであり、
決まったことを行うことであるが、
心が心底安住していない限り、淡々と行うことなど出来ない。

山脇史端訳

荀子のいう「礼」とは、
茶の湯の世界に通じるものである。

心の安寧が挙動作法に現れると唱えた。

つまり、己に主体性を持ち、礼に沿った
安定した行動・動作が出来れば、
どんな野蛮な地に行っても、
相手を安心させ、信頼されることが出来ると説いている。

荀子の生きた古代中国の戦国時代は、
言葉の通じぬ異民族との壮絶な戦いの時代でもあった。

見知らぬ相手を自然に安心させる姿の維持こそが、
自分を一番安心させる方法なのかもしれない。


山脇史端
一般社団法人数理暦学協会

参考文献


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