【小説】いるか

先日、友人と能登へ行った。禄剛崎の漁村で車を降り、灯台を見に行った友人とはぐれた僕は、人気のない海岸に辿り着いた。その海岸に、一頭のいるかの死骸があった。泥岩の白いベッドに横たわった彼は、流線型の身体を豊満に膨らまし、鬱血した筋肉は濃いピンクに染まっていた。皮膚は所々剥げ、体側にいくつも開いた穿孔と欠損した右の鰭は、重い火傷を思わせた。頭の左半分は失われ、眼球があったであろう地点を中心に深々と穿たれた穴の中に、脂の浮いた赤黒い液体が慎ましやかに滲み出ていた。いるかの死骸を見たのは、それが人生で初めてだった。

──初めまして。僕は生きた人間ですが、君は死んだいるかですか。
──おやおや、見れば分かるでしょう。おれは今蝿共の餌食となっている真っ最中ですよ。
──君はどこから来て何故死んだんですか。
──おれは石川の、輪島の沖で生まれましてね。それから20年ほど生きましたよ。丁度あんたと同じ歳の頃ですか。ある夜、この辺りの沖を悠々と泳いでいたら、いきなりしゃちに襲われましてね。群れの一匹が食い千切られまして、おれはいきなり動転しちゃってね、めちゃくちゃに逃げ回ったら、暗いので何も見えなくて、気づいたらこの岩場に打ち上がっていました。潮がどんどん引くので身動きが取れなくて、いたちや猫に鰭を食われました。岩肌がごつごつしていて、寝返りを打ちたかったのだけど、その前に朝が来て、身体が乾いて死にました。
──そりゃ災難ですね。痛かったですか。
──どうなのだろう。痛いというのがあまり分かりません。それはいるかにもあるもんなのでしょうか。
──さあ……。君の下腹部で萎れているそれは、陰茎ですね。
──そうです。死ぬと思ったら勝手に膨らみました。
──君、子供はいますか。
──いくらかおりますが、多分みんな食われたでしょう。
──悔いはないものですか。
──おれの陰茎は、今でこそ赤黒く萎びて固まってますが、生きている頃は何頭もの雌いるかを誘惑しましたよ。悔いなんて器用なことは、おれには分かりません。
──人間は、なかなか陰茎だけでは生きられないものですよ。
──そうですか。器用ですね。

彼は、肛門から血を流しながら相変わらず佇んでいた。ずらりと並んだ120の歯が、腐った歯茎の上でぐらついていた。

──静岡の方では、人間もいるかを食うんですよ。蒲原のいるかすましとか、いつか食べてみたいものです。
──知りませんでした。うまいならおれも食べてみたいな。あんたの方も、にんげんすましとか、探せばあるかも知れませんよ。
──霊長類の脂は臭いし、人間なんて大抵不健康なので不味くて食えませんよ。
──そんな物言い、いかにも人間らしいですね。しゃちやいたちや猫や蝿共が、うまいのでおれを食ったと思いますか。腐ったおれのはらみの方が新鮮な猿よりもうまい、なんてことはないでしょう。

彼の頭に深々と開いた穴は、まるで僕を見つめる大きな眼のようだった。

──死んだいるかの画像を見ると、どうも頭を半分抉られていることが多いようですね。何故でしょう。
──柔らかな眼を食われるのです。その後は成り行きで顔も半分食われます。いるかは打ち上げられると横向きになるので、もう片方の眼は地面に接していて食えません。
──眼はうまいから食われるのではないんですか。
──そうかも知れません。でも人間の言うところのうまさとは意味が違うでしょう。
──君の牙を貰っていってもいいですか。
──分かりません。何故おれに聞くんですか。
──君の持ち物だと思ったので。
──おれの持ち物はありません。しゃちもいたちも猫も蝿も、昨日おれを齧っていった海鳥も、俺の断りなしにそうしていきましたよ。
──それは君が野生の動物だからですか。
──また人間らしいことを仰る。あんたも野生の人間ではないですか。自分の営みを地球からむやみに切り離そうとするのは、やめたらどうですか。
──じゃあ、貰います。

僕は、腐肉に包まれた彼の牙を、その辺に落ちていた海藻でもって摘んで引っこ抜いた。ねちっとした感触と共に、歯茎の肉に包まれた牙が二本、彼の顎から引き剥がされた。

──いるかの歯は全部犬歯なんですね。
──そんなことより、おれの言葉を書いているのは全部あんたでしょう。自室で泡盛を飲みながら、携帯電話のメモ帳に書いているのでしょう。でも、その事を悪いと思わないでください。
──え、何故ですか。
──あんたの言葉は誰の物でもないからです。

僕は机の上を見た。昨日海で千切ってきたいるかの牙が二本、入れ歯洗浄剤に浸かっている。

──あんたの言葉は誰の物でもないからです。その証拠に、さっきおれの歯を茹でたときの匂いは実に強烈だったでしょう。

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