【小説】均衡

近頃、駅前をぶらついているとどの店にも監視カメラが備え付けられているのに気づく。一昔前にはこんなものなかったのに、そんなにトラブルが増えたのだろうか。監視カメラどころか、小さな商品一つ一つに万引き防止タグが貼り付けられている店も珍しくない。タグを付けるのにも相当な人手がかかるだろうに、それほど万引きによる被害というのは大きいのだろうか。いや、きっとそうなのだろうけれども。

考えてみれば、万引きが増えたから防犯用品が増えたわけではないのかも知れない。自分が子供の頃、柄の悪い連中がよく盗んだものを学校に持ってきて自慢していたものだ。あの頃は、カメラはかなり貴重なものだったし、万引き防止タグなど発明すらされていなかっただろう。今ある便利な道具たちは、どこかの誰かがいずれかのタイミングで需要に応えて作り出したものなのだ。

とはいえ──。文房具売り場をうろついていると、色々な道具が目につく。ボールペンを消すことが出来る消しゴム、芯が自然と出てくるシャープペンシル、読書のときに本を捲りやすくする台、等々。これらの道具は、本当に需要に応えるために作り出されたものなのだろうか? 文房具だけではない、考えてみれば家電なんかも、大変小さな塵まで除去する空気清浄機や、食材を新鮮なまま凍らせられる冷凍庫、外出先から操作できるエアコン、他にも挙げればきりはないが、需要に応えるというよりむしろ欲望を刺激するような、これ見よがしな機能がついたものが多い気がする。

いやいや、考えてみればそれは当たり前なのだ。生きるために欠かせないものを一つ一つ生み出していた時代なんて、随分昔に終わったはずなのだ。むしろ、電子レンジやパソコンや携帯電話だって、今となっては必需品だが過去には誰も欲していなかったに違いない。何しろそれが存在しない時代なのだから、欲することも出来るわけがないのだ。需要を生み出すということは、もう長らく世の中の基本となっていることなのだろう。とりわけ、この資本主義社会においては。需要が多ければその分供給も増え、社会がどんどん進歩していく。であれば、欲望を刺激して需要を生み出すのは良いことなのかも知れない。

何となく雑貨屋に入ってみる。この店にはどうやら監視カメラがないようだ。万引き防止タグも見当たらない。まあ、何も驚くことはない。そういう昔ながらの店だってあるのだ。防犯にだってコストがかかるし、費用対効果を考えて導入しない選択肢はある。しかし、とすれば──ここで私がもし万引きしたら、この店に防犯の需要を生み出すことができるのではないか? 私ははたと立ち止まって考えた。

防犯をしている店というのは、防犯に対して相応の投資をしていることになる。その投資にかかるコストと、万引きによる被害のコストとを比べ、後者の方が大きいと見込めば防犯にお金をかけるのだ。結局のところ、防犯をしようがしまいが、店というのは防犯用品会社か万引き犯のどちらかに投資することになる。いやむしろ、本来店の仕入れ額の何%かは万引き犯に取られるべきものだが、そこへ防犯用品会社が割り込んできて、万引き犯と取り分を奪い合っているのではなかろうか? そもそも、防犯用品会社というのは万引き犯のおかげで商品を売ることができるだから、万引き犯はこの世に新たな需要を生み出していることになる。つまり、人の役に立っているということだ。だとすれば、もしこの店で僕が万引きをしたとしても、私は何か大変な悪さをしたということにはならないのではないか。むしろ、それはこの店が防犯をしていないことに対する当然のリアクションであり、また私にとっても相応のリスクを背負った上で得られる対価という意味で分不相応なものではない──。

思索に夢中になっていたら、いきなり誰かに腕を掴まれた。
「お金を払ってないものをポッケに入れちゃいかんでしょう」
そう言われて初めて、私がポケットに手を突っ込んでいたことに気づいた。私は動転してしまい、いきなり飛び上がった。
「あっ、いや、違うんです、これはそんなつもりはなくて──」
「お金を払ってないものをポッケに入れちゃいかんでしょう」
男は全く同じセリフを繰り返した。胸の名札を見ると、店長と書かれている。
「あっ……はい。考え事をしていたら無意識にやってしまいました。大変悪いことをしました」
「あなた、良しとか悪しとか考える顔をしているね」
店長は死んだ目つきでそう言った。私はぎょっとして店長の顔を見たが、たるんだ瞼の奥にある目は虚空を見つめているように虚ろだった。
「えっ…………はい」
「良いことは相手が望むこと。悪いことは相手が望まないこと。私はお金と引き換えに商品を売りたい。あなたは何と引き換えにその仏陀を手に入れたい?」
手を見ると、私が握りしめていたのは小さな木製の仏陀像だった。よりによって何故こんなものを手に取ったのだろうか。
「ええと…………お金は払いますよ、普通に」
「あなた、別にこれ欲しくないでしょう。じゃあ私は悪い人だ。あなたにとっては」
「え? いや、そんなことはないですよ……」
店長の表情はぴくりとも動く様子がない
「でも私は売るね。この仏陀をあなたに、5,000円で」
「えっ高くないですか?」
「高いよ。本当はこれ、仕入れ値たったの300円」
「…………」
「私はあなたの悪い人になるよ。でも、悪い人になることを恐れてない。悪くなることを恐れちゃいけない。良しとか悪しとかを他者に求めない」
店長はレジに向かおうとしている。
「…………私がこれを万引きしても、そう言えるんですか?」
「言えるね。そしたらあなた、私にとって悪い人になる。でも私以外の人にとって悪い人にならない。あなたの万引きは絶対誰かの役に立つ。私の役には立たないが」
「あの、これ1,000円で売ってくれませんか?」
「ダメだね。値札は5,000円とある」
そこで、私は何だかこの仏陀に5,000円を払うのが妙に馬鹿らしくなった。店長が背を向けている隙に仏陀をポケットにねじ込み、走り出した。
「ごめんなさい!」
そして店の外に出たが、店長は追いかけてこなかった。店先に出て、ただ走り去る私を眺めているだけだ。私は足を止めた。
「……あの、なんで追いかけてこないんですか?」
「追いかけるの疲れるし、時間もかかる。あなた若くて腕っ節も強そう。殴られるかも知れない。割に合わないよ」
「そうですか……」
「嘘。あなた暴力できない顔だね。でもそんなんじゃダメだ。悪くなることを恐れちゃいけない。良しとか悪しとかを他人に委ねちゃいけない。逃げ出すときにごめんなさいって叫ぶようじゃダメだよ」
「はあ……」
「いいか、世の中はいつも整ってるから安心しろ。あなたが思うみたいに不完全でグラグラしたものじゃない。良しも悪しもない。水が下に流れるのと同じ」
言うだけ言うと、店長は店内に戻っていった。随分と妙な人もいたものだ。私は拍子抜けして、よたよたと歩きながらポケットの中の仏陀をまさぐった。するとそのとき、
「今だ、行け!」
と背後から店長の声が聞こえたかと思うと、警備員が2人襲いかかってきた。
「こいつ商品万引きしたよ! 3倍の額払わせるべきだ」
「クッソ、この気狂いが!」
私は警備員を振りほどき、店長に全力でビンタを食らわしてから一目散に逃げ出した。

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