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乳がんになった時のこと 14

「入院当日」

月曜日の朝。子どもたちを送り出して、10時に入院。午後から検査。その日の夜から絶食で、次の日の火曜日朝9時から手術。2〜3日様子を見てから退院という、なるはやなスケジュールだった。病院へは父と母と私で車で行った。私が実家に戻ってからこの3人で出かけるなんて一度もなかったので、変な感じだった。

大きい病院だけあって、その日に入院する人も30人ぐらいいた。順番に呼ばれ流れ作業的に病棟に上がる。その後個室に呼ばれて主治医の先生と執刀医の先生の2人から手術の説明を受けて、かなりの枚数の書類にサインをした。これには父のサインも必要だった。父は私が乳がんにかかっている事を説明した時も割と冷静だった。ショックを受けてない事はないけれど、騒いだってしょうがないからちゃんと治療しろ、という感じだった。

ただその日の説明で、乳がんの患部の摘出だけでなく、リンパ節への転移を調べなくてはいけないので右の脇の下も5センチ程度切るという(センチネルリンパ生検)話を聞いた時は少し驚いていた。乳がんの転移は脇のリンパ節から始まる。仮にそこに転移していた場合は、その部分は取り除かなくてはいけない。私の場合はおそらく転移していないだろうと言われていたが、手術中に一番最初にそのリンパ節を切って検査を行い、転移が認められた場合は一緒に切除するとの説明だった。父は「そんなにあちこち切るとは…」と驚いてはいたが、とりあえずサインはしてくれた。その日の午後、センチネルリンパ生検のための注射をした。乳房のがん本体に針を刺すもので、3人も出産して割と痛みに割と強い私だったが、「うっ」とうめくぐらいには痛かった。

子ども達が3人も見舞いに来ることを考えると、相部屋だと周りに迷惑をかけそうだったので、贅沢だと思ったが個室にした。その部屋は驚くほど広くて、いつも家の中で子ども達にまとわりつかれている私にしたら、空間がありすぎて落ち着かなかった。

夕方になると、両親が一度帰って子ども達を連れてきてくれた。3人は恥ずかしそうに部屋に入ってきて、なんだかよその家の子みたいだった。こんなシチュエーションが初めてだからだろう。長女と次女に「ベットに上がっていいよ」と言うと、私にくっついて座った。長男は相変わらず愛想良く看護師さんに挨拶をし、病棟の中がどうなっているのかに興味津々であちこちを見て回っていた。長女に明日は手術が終わった後だから会えないけど、明後日には来ていいよというと、使命感をみなぎらせて「うん」とうなずいた。入院中、子ども達の学校の雑事を両親に頼むのは申し訳ないので、子ども部屋の壁に『やることリスト』を作って貼っていた。ちゃんとそれをこなしてね、というと「大丈夫やって、ちゃんとやってるから!」と長男がめんどくさそうに言ったので笑ってしまった。確かに口うるさい母親だわと思った。11月の夕暮れは早く、外はもう暗くなっていた。

仕事柄もあるが、私はいつでも本や新聞、雑誌や映画などの情報やエンターテイメントに触れていたいタイプで、入院が決まった時は今回は時間もあるしいっぱい本を読んでやろうと思って張り切っていた。ところが数日前から全く活字に目がいかなくなってしまっていた。込み入った内容の小説はいくら読んでも頭に入ってこないし、映画も字幕を追って集中することができず、なんなら新聞もちらっとしか読めなかった。せいぜいできるのがインターネットぐらいだったが、がんの情報ばかり読んでしまいがちだったので、あえて触れないようにした。これは手術が終わってからもしばらく続き、このまま一生本を読めなくなったらどうしようと焦った。今だに理由がわからない。

その代わりになぜか編み物ばかりをしていた。私は元々編み物が好きで、子供の頃から父のセーターなんかを編んでいた。子どもが生まれてからはそんなに時間もなかったが、今回は長女のニットキャップを編んでやりたいと思っていた。入院道具に毛糸と輪針を持って来ていたので、ほぼ全ての時間、テレビをぼーっとながめながら編み物をしていた。編み物をしているときは無心だ。編み物は一針編めば、絶対に、少しづつながらも前に進んで出来上がっていくが好きだった。

夜の9時からは絶食で水を飲むのすらダメだった。晩御飯は普通食だったが量は少なく、ひもじかった。家だったら子ども達と風呂上がりのアイスをキメてるのにとますます心細くなった。起きているとお腹が減るので早く寝ようと、電気を消したが何時間か寝ては目が覚めてしまうという細切れの眠りだった。

ああ、私は緊張しているんだ、と思った。

#乳がん #健康 #シングルマザー

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