1988年の反原発運動・全史(その6)

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 「その5」から続く〉
 ここから後篇にあたる「札幌ほっけの会」篇。
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 単行本版『全共闘以後』の「第3章・第3節 反原発ニューウェーブと札幌ほっけの会」(原稿用紙換算42枚分)にあたる部分の〝オリジナル全長版〟(原稿用紙換算約290枚分)である。
 紙版『人民の敵』第3839号に掲載された。
 単行本版ですでに読んだという諸君も、あんなに面白い話だったのに、本当はもっと面白い話だったのかと衝撃を受けるはずだ。

 第6部は原稿用紙換算21枚分、うち冒頭8枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその8枚分も含む。

     ※          ※          ※

 「札幌ほっけの会」は、おそらくは八二、三年の反核運動の〝高揚〟期に始められ、泊原発の建設予定地近くの海水浴場で毎年夏に開催が続けられていた、「はんかく祭」という〝バカバカしい〟という意味の北海道方言〝はんかくさい〟と〝反核の祭〟とをカケた反核イベントに、たまたま同じ八七年夏に参加して知り合った札幌の三つの若者グループが、十月二十六日の〝原子力の日〟におこなわれる予定の抗議行動に一つの〝若者部隊〟として参加しようと意気投合して、それに向けた時限的な共闘組織として、本番一ヶ月前の九月二十六日に結成した反原発グループである。
 八八年の反原発運動の高揚についてはほとんど記録が残っておらず、何よりもRCサクセションの〝『カバーズ』騒動〟だけが突出して知られており、〝高松行動〟など一連の小原良子らによる〝反原発ニューウェーブ〟や四月の〝一万人(二万人)集会〟がかろうじて稀に想起されるだけで、それらとて絓秀実『反原発の思想史』を除いては、広く読まれることのない学術系の出版物ばかりである(絓も参照している本多宏『脱原子力の運動と政治』北海道大学図書刊行会・05年 での言及や、坂本義和編『核と人間Ⅰ』岩波書店・99年 所収の長谷川公一の論文「原子力発電をめぐる日本の政治・経済・社会」、『成蹊大学文学部紀要』第26号・90年 に掲載された高田昭彦の論文「反原発ニューウェーブの研究」など。なお本稿でかなり引用した中島真一郎の論考「ターニングポイントとしての伊方」は、〝三・一一〟以降の反原発運動の〝高揚〟を背景とした青土社の雑誌『現代思想』11年10月号の「反原発の思想」特集に、「いかたの闘いと反原発ニューウェーブの論理」のタイトルで、細部をかなり削って短く改稿した形で掲載されている)。まして「札幌ほっけの会」については、小原らの『原発やめて、ええじゃないか』『クリティーク』第12号のような(今回は入手・参照できなかったが、他に小原・日高六郎・柳田耕一の共著『原発ありがとう』径書房・88年7月 があり、そして小原の単著『原発いらない いのちがだいじ』もおそらくお茶の水書房からおそらく八八年中におそらく出ている)、〝当事者の証言〟をまとめた当時のリアルタイムの資料すら公刊されておらず、現時点ではほとんどまったく知られていないと言ってよい。
 例外的に、外山恒一が八〇年代末の諸闘争を回想した『青いムーブメント』(彩流社・08年)があるが、外山の記憶(しかも自身が直接体験したわけではない伝聞情報)のみに基づく極めて不正確・大雑把な記述である上に千部ほどしか売れていないし、また、後述するように、ほっけの会のメンバーだった古賀徹の『理性の暴力 日本社会の病理学』(青灯社)が二〇一四年に出て、ある程度まとまった記述(十ページ弱)があるが、やはりさして流通しない本である上に、やがてほっけの会を割って出た一人である古賀の立場からする極めて一面的な記述となっており、その特殊性・重要性がそこからはまったく読み取れない。
 したがって札幌ほっけの会の、八八年夏から秋にかけての、驚くべき活動の詳細については、本書で初めて広く明らかにされるところとなるものである。

 「札幌ほっけの会」に結集した三つの若者グループについて、ほっけの会の実質的なリーダーだったと見てよかろう宮沢直人は、『デルクイ01』(彩流社・11年)に寄せた論文「何が可能なのか」の中で次のように書く。

 札幌ほっけの会は、「恵迪寮生有志」「幌延問題を考える北大生の会」「反原発札幌現地化闘争委員会」の三グループの共闘組織として結成された。その最初の行動は一九八七年一〇月五日の対北海道電力行動であった。
 (略)
 「寮生有志」は北海道庁爆破(引用者註.おそらくは東アジア反日武装戦線の一連の闘争の影響下に、七六年三月に起き二名の死者と七十四名の負傷者を出した)の犯人とされて裁判闘争を闘っていた大森勝久(引用者註.自身の無実と〝真犯人〟への支持を表明)の支援を行なうグループだった。植民地の侵略民として、アイヌ民族への贖罪と植民地の現状に対する究極の自己否定・「滅私奉公」の思想を持っていたといえる。
 「反原発札幌現地化闘争委員会」は私も参加していたノンセクトグループから形成された。第四インターと友好的な関係にあった。メンバーであった青年アナーキストの影響を受けて、大森支持を否定しない傾向があった。反原発以前は三里塚闘争支持などの主張を行なっていた。
 「幌延問題を考える北大生の会」は核廃棄物の処分場として有力な候補地にあがっていた北海道の幌延町の問題について学習し反対する学生グループであった。この問題については当時の社会党・共産党・労働運動なども反対し、北海道の左翼や市民運動に共通の課題となっていた。この会には革マル派の学生活動家が参加し、自己の勢力の足場としようとしていた。

 ここには宮沢の記憶違いが含まれている可能性があり、後で改めて述べるように、ほっけの会以前に宮沢が参加していたグループの名称は、「反原発札幌現地化闘争委員会」ではなく、とくに定まった名称のない、宮沢と、「青年アナーキスト」猪俣の二人を中心とした、とりあえずは〝宮沢・猪俣フラクション〟とでも呼んでおく以外にない有象無象の不定型な若い極左活動家集団だったかもしれない。

 宮沢直人は五五年生まれで、ほっけの会の結成時点で三十二歳であり、すでに〝若者〟とは呼べない年齢に達していた、八〇年代末の〝ドブネズミ系〟の〝第一波〟の諸闘争を担った主要な面々のうちの最年長者でもある。『人民の敵』第3号掲載のインタビューでは(宮沢へのインタビューは、それぞれ別の角度から第13号および第14号にも掲載されているが、煩雑になるので以下、号数はいちいち表記しない。また出典表記のない宮沢の言葉はすべてそれら三つのインタビューでのものと解釈されたい)、六〇年にはちょうど五歳となるわけだから、「60年安保を記憶している一番若い、最後の世代だと思う」と述べている。札幌で生まれ育ったが、両親とも教員で、とくに父親は反安保のデモに熱心に参加していたという。
 七一年に道立の札幌南高校を受験した際には、まだ〝高校全共闘〟の名残があって、校門前でヘルメット姿の同校生徒が受験生にビラをまいたりしていたが、不合格となり、いわゆる中学浪人を経て翌七二年に今度は同じく道立の札幌北高校を受験した際には、もうそのような光景は見られなかったとのことだ。
 札幌北高の生物部に強引に勧誘されて入ってみると、白衣姿で数人で肩を組んで歩きながら「デカンショ節」を〝放歌高吟〟したりすることを好む、すでに応援団すら軟弱化していた同校では唯一、バンカラの気風を残した、「何というか、ある種の、旧制高校型の〝自由主義〟を追求する集団」で、宮沢もその雰囲気にすっかり馴染んでしまう。やがて成り行きで生物部が組織ぐるみで生徒会選挙に介入することになるのだが、当局側が都合のいい結果となるよう〝票の操作〟をおこなっているのではないかとの疑惑が生まれて、宮沢らは〝不正選挙糾弾〟の〝民主化運動〟を起こす。

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