真のファシズム入門(千坂恭二氏に訊く)その2

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 「その1」から続く〉

 すでに公開済みの「真のアナキズム入門」の続編的な対談というかインタビューである。もちろんファシズムに肯定的な立場から語られており、千坂氏は〝アナルコ・ファシスト〟と形容されることもあるが、千坂氏自身はファシストを自称してはいない。
 いずれにせよ、ファシズムに否定的な者に〝ファシズムとは何か〟を問うても無意味であることは疑いない。ファシズムは第2次大戦の終結以降、ただひたすら〝悪〟の思想とされており、ではなぜそのような思想に惹かれる者がいるのか、説明不能になるはずだからである。
 2015年3月7日に大阪の「トラリー・ナンド」でおこなわれ、紙版『人民の敵』第8号に掲載された。時々登場する「小灘」氏とは、同店の店主で「民族の意志同盟」関西支部の支部長でもある小灘精一氏である。

 第2部は原稿用紙換算21枚分、うち冒頭7枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその7枚分も含む。

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千坂 ファシズムについてもっと真剣に検討されるべきだよ。右翼よりむしろ左翼がもっと真面目に考えるべきなんだ。例えば第二インターのカウツキーやベルンシュタインの社民主義に反発してソレルなんかが登場したわけでしょ。現代の左翼はどうなんだ、と。みんなリベラル派になってしまって、構改派や社民派みたいな改良主義ばっかりじゃないか。それを突破する契機をどこに見出すかだよ。昔ならボルシェヴィズムが突破口だったわけだし、あるいはアナキズムもそうだったかもしれない。だけど今はボルシェヴィズムはスターリン主義として否定されてて、ボルシェヴィキ方式を批判したグラムシ的な路線に取って代わられてる。その流れをどこかで断ち切って、別の流れを見出してそっちに渡ってしまわなければならない。

外山 今は自称アナキズムさえ〝社民化〟してるでしょ。

千坂 〝68年〟の時点でアナキズムはすでに社民化してたよ。戦後日本のアナキズム運動で唯一、社民化しなかったのが大阪の「アナキスト革命連合」だったわけだ。なぜアナ革連は社民化しなかったかと云えば、バクーニン主義者だったからだよ。労働運動とか、現実的な社会変革を目指す路線に対して、そんな改良主義じゃダメだ、〝総破壊〟をやらなきゃダメなんだと云って、もちろんそんな武装蜂起路線をどこまで実現しうるかはまた別問題だけど、そういう姿勢を保つことによって原理主義的な革命性を維持しえた。実はレーニンだってそうなんだ。『国家と革命』で、アナキストたちがカウツキー主義者やベルンシュタイン主義者を批判して暴力性を対置するのは正しいと書いてる。アナキストたちの主張を擁護して第二インターの路線を切り捨てたんだ。もちろんレーニンは、今度は返す刀でアナキストたちの暴力は無秩序なものにすぎないと批判して、我々は組織的な統制のもとで暴力を行使するんだ、と云うわけだけども。
 非スターリン主義的な社会主義のモデルの1つとしてユーゴスラヴィアのチトー路線があって、ああいう〝自治社会主義〟的なものへのシンパシーを抱いてるアナキストも68年頃には多少いた。ある種のコミューン論とか、権藤成卿の云う〝社稷〟的な共同体論とかを、ユーゴスラヴィアの〝自主管理社会主義〟に結びつけて、管理社会を突破するビジョンにするような、〝構造改革〟的なアナキズムだよね。とくに東京のアナキズム運動の主流派がそうだった。関西のアナキストたちからは少し距離があったから、時代錯誤的な暴力主義者たちが跋扈できたんだけどさ(笑)。
 ……仮に現代においてファシズム革命を実現しうる可能性なんかゼロだったとしても、現存秩序の側によって全否定されてるってところにファシズムの可能性があるんだ。〝絶対悪〟とされて、部分的にさえ肯定することが許されてないわけでしょ。今の反体制派に必要なのは、どこかで〝現実〟を断ち切って、背水の陣をしくことだよ。ドリュ・ラ・ロシェルっていうフランスのファシストがいたよね。彼が『ファシスト社会主義』っていう有名な本を書いてるから、それでもちょっと読んでみてほしい。そういうものを知らずに、安直にファシズムを否定する左翼は全員、社民か構改派になってしまうよ。体のいい、資本主義の左翼的補完物にしかならない。そこを突破するためには社民性、構改派性を断ち切らなきゃいけない。そこでファシズムの存在が意味を持ってくる。ファシズムを標榜することによって、みんなから批判を浴びる(笑)。誰にも肯定してもらえない(笑)。そういう存在になることによって初めて資本主義的現実を断ち切れるんだよ。つまりグローバリズムの外部に出ることができる。現時点ではファシズム以外にそういう〝政治思想〟〝社会思想〟は存在しないでしょう。他は全部、回収されうるんじゃないかな。

外山 民主主義社会ではあらゆる言論の自由が保障されてるけど、〝ただしファシズムは除く〟ってことですからね。

千坂 ファシズムだけが禁止されてるんだ(笑)。だから唯一、民主主義の外部たりうる。

外山 ところで社民主義と構造改革主義って、結果的には似たような姿になるけど、そもそもは由来を異にする思想ですよね?

千坂 社民主義は、議会に進出して、議会で多数派になって社会主義的な政策を実現するってことでしょ。構造改革派は、議会云々は中心ではなくて、もっと個別の現場で影響力を拡大していく感じじゃないかな。

外山 ああ、文化領域とかも含めて……。

千坂 だから例えばベ平連なんてのは構改派的だよね。〝議会進出〟とかって発想はしてなかった。当時で云えば社会党が社民で、ベ平連が構改派ってことになるんだと思う。ただどっちも結局は〝二重権力〟みたいな、現存秩序への対峙的な発想がない。二重権力的な対峙形態を作れないと、何をやっても既存の秩序に回収されてしまうんだ。
 今はもうボルシェヴィズムですら回収される。マルクス・レーニン主義者たちには言論の自由が認められてるんだから。「ソ連の社会主義にも良いところがあった」とか云っても大丈夫で、そういう言論が許されることによって骨抜きにされるんだよ。一切の正当化が許されていないような立場でなければ骨抜きにされてしまう。

外山 ファシズムはもう、一から十まで全部悪かったことになってますからね(笑)。

千坂 好むと好まざるとに関わらず、そういう立場は今はもうファシズム以外に存在しないって現実を直視しなきゃいかんよ。歴史上の具体的なファシズム政権を肯定するか否定するか、どう評価するかとは別の次元の問題として、現代においてファシズムが持っている意味がそこらへんにある。

外山 いかに回収されないか、という……。

千坂 その媒介としてのファシズムっていうのかな。そこが分からないと左翼は社民か構改にしかならないし、右翼だって単なる保守派の別働隊にしかならない。たしかに現実の運動としては、社民や構改か、保守的なものしか不可能かもしれないよ。そもそも原理的に思考するってことは〝不可能性の探求〟だし、現実の糧にはならない。にも関わらず、社民や構改や保守にとどまらずに、仮にそのように見えたとしてもそれは単に現実によって強いられた姿にすぎないのであって、本当はそれらを超えようとする志向を持ってるんだという、そのことの担保としてファシズムを標榜することに意味がある。現存秩序に対する全否定性を帯びているのは、現代の民主主義社会においてはファシズムだけなんだから。

外山 同じ社民的な要求を掲げて運動を展開するにしても、ファシズムの名の下にそれをやることで、単なる社民であることを脱却できるってことですよね、たぶん。そもそも歴史上の現実のファシズムだって、結局はまあ社民的な政策をやってるだけですし。

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