『全共闘以後』刊行記念トークライブ@京大熊野寮(絓秀実氏との対談:2018.10.1)その4

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その3」から続いて、これで完結〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 日本を代表する知識人・絓秀実氏との公開対談である。2018年9月に刊行された(が、すぐに〝回収〟となり同年12月に〝改訂版〟が刊行された)外山の新著『全共闘以後』の販促イベントとして、2018年10月1日、今や全国に数えるほどしかない非Fラン大の1つである(しかしもうFラン転落寸前でもある)京都大学の熊野寮で開催され、テープ起こしは紙版『人民の敵』第45号に掲載された。
 司会を務めているのは、熊野寮生ではないが京大OBで、知る人ぞ知るその(どの?)スジでは有名なサークル「サークルクラッシュ同好会」の創設者であり、京大周辺で複数運営されているシェアハウス「サクラ荘」の創始者であり、京大や東大や〝国際環境みらい福祉大学〟などと違って特Aランクの本邦最高学府である外山主催「教養強化合宿」の(2015年春の第2回)修了者でもあるホリィ・セン氏である。

 ( )内は紙版『人民の敵』掲載時にもともとあった註、[ ]内は今回入れた註である。他のコンテンツもそうだが、[ ]部分は料金設定(原稿用紙1枚分10円)に際して算入していない。
 第4部は原稿用紙換算27枚分、うち冒頭9枚分は無料でも読める。ただし料金設定はその9枚分も含む。

     ※     ※     ※


 〝革命の大義〟廃れてポリコレあり

司会 ……そろそろ会場からの質問を受け付けましょうか。

 〝質問〟を受け付けるなんておこがましい。〝意見〟を云ってください。あと〝糾弾〟(笑)。

外山 うん、〝糾弾〟とか〝追及〟とか(笑)。

聴衆1 華青闘告発を契機として、差別論が運動のメインになって、縮小再生産の末にポリティカル・コレクトネス的な方向に行ってしまうとのことですが、そういうポリコレ的なものというのは、現在において運動の拠点になりうるんでしょうか?

 〝運動〟というか、単に〝世論〟ですよね。

外山 だって朝日新聞なんかが率先してポリコレ的な風潮を煽ってるぐらいなんだから、もはや運動のツールにさえなりませんよ。

聴衆1 ポリコレからは何らかの運動を作ることはできない、と?

外山 作れないと思います。

 もちろん個別的にはいろいろありますよ。在特会へのカウンターの運動とか……。

聴衆1 そういう運動であれば、ポリコレ的であっても肯定されるんですか?

 だってそれは必要ですから。川崎あたりで在特会に対して対抗していくとか、あるいはセクハラについて糾弾することだって、例えば学生が教授を吊るし上げるようなことは必要です。しかし問題は、それが〝世論〟になって、権力側の道具になっていることですよ。

外山 そういうメカニズムに無警戒である場合が多すぎる、と。

 うん、全然警戒してないんだもん。

司会 外山さんたちの高校生運動でも、フェミニズム的な糾弾が内部で始まって崩壊していったというような話を書かれていましたが、ポリコレ的なものがむしろ運動を停滞させたりするということでしょうか?

外山 うーん……現場レベルではそういうことは往々にして起きがちではありますが……『全共闘以後』で言及してるほぼすべての事例でそうですけど、運動が盛り上がっていく局面では、そういうことはあまり問題にならないんですよね。そういう問題が起きてないわけではないと思うんだけど、良し悪しはともかく、あまり問題として焦点化されない。
 しかし運動がピークを過ぎて、停滞局面に入ると次々にそういう問題で揉めてますます疲弊する。仲間うちのいろんな〝アラ〟が見えるようになるということなんでしょうか、「今のコイツの発言はセクハラだったぞ」というのが目について、糾弾が始まって、結局はその繰り返しで人間関係が崩壊していったりする。良いか悪いかはともかく、現象としてそうなりがちです。

 〝粛清〟ですね。

外山 運動現場では繰り返されてきた光景。秋の嵐も最後はそういう問題で崩壊したし、ぼくが主に関わってた全国高校生会議もそう。

 しかしポリコレ的なものに限らず、停滞期における〝粛清〟は、19世紀のナロードニキの時代からあったことですよ。そういう〝粛清〟が、最近ではポリコレ的なものによって正当化されるようになってる。

外山 さらにSNSによって、一度〝サベツ者〟の烙印を押されたらそれが定着してしまう。

 革命の大義がないからでしょう。革命の大義がなくなったら、もうポリコレの大義しかない。


 リベラルな学生自治会や教授会は
 ネオリベ大学当局には勝てない

聴衆2 渡部直己さんの問題について、絓さんは近いうちに何かお書きになるとのことでした[2019年5月刊行の『G-W-G(minus)』03号に掲載]。ぼくも大学に勤めている人間で、大学のネオリベ化というのは日々感じているんですが、渡部さんの言動の問題以上に、例えばその問題を口外しないように云った教員がいるとか、今の大学という環境なり、渡部さんを取り巻いて支える大学人の人脈がどのように形成されてきたのか、といった大学という場のあり方なり、そのあたりの問題にも言及される予定でしょうか?

 例えばその当該の女の子が、渡部のセクハラをいつ告発したのかという時系列の問題ひとつとっても、非常におかしなことがいっぱい出てくるんですが、それはまた別の話として、おっしゃるように、内々で済ませようよ、というようなことを云った人間もいた、と。そういう人たちは、主観的にはリベラルで、大学のネオリベ路線に抵抗してるつもりなんです。こういう問題が表沙汰になると、絶対に大学上層部からの弾圧がくるから、告発した女の子に対して、ほどほどのところで収めておこうよって働きかけたんだろうし、つまり主観的にはネオリベではなくリベラルなんですね。
 ところがそういう収拾策がうまくいかず、やがて表沙汰になって、大学全体の問題ってことになっちゃうと、上からのさらなる管理強化の道具に使われる。良かれと思って内々で済ませようとしてたのが、「お前も共犯だ!」って云われる羽目になるんだ。

外山 ネオリベ様に逆らうか、と(笑)。

 早稲田のいわゆる右派教員、我々がビラをまいてるところに突撃してくるような(笑)、そういう連中がやっぱり渡部糾弾の尖兵になってたりする。早稲田の問題というのは……京大はまだ教授会の自治があるでしょ?

聴衆2 いやー、もうなくなりました

 そうなの!?

聴衆2 法的にも教授会の権限はなくなってます。

外山 じゃあもう京大もまもなく終了ですね。

 ともかく早稲田はもうないんですよ。今回のセクハラ問題でも、裁定を下すのは全学機関です。これまでは、教授会の決定がなければ教員を処分することなんかできなかった。それが今回は、全学的な機関が勝手に裁定して処分を下す。教授会には何の権限もないという状態です。

聴衆2 つまり、権限を奪われた教授会の機能を代行するような意味で、一部の教員が内々で収めようとした、ということですか?

 そうとも云えるかもしれませんが、実際どうなんでしょうね。オレも中の人間じゃないから……。

聴衆2 ぼくが早稲田にいた時にも、それは具体的に身体の接触がある形でのセクハラ事件があって、その時はある著名なフェミニストの先生が、今回揉み消しを図ろうとした教員と同じような動きをしたんです。その場合もやっぱり、そのフェミニストの教員は主観的にはリベラルなわけで……。

 主観的にはね。実際には単なる仲間意識、身内をかばう意識なのかもしれないけど、そうだとしても、もはや教授会自治という形の権利さえない教授たちの共同体を守ろうという、リベラルな問題意識に発してるというふうにも、おそらくは云えるんです。
 しかしそもそも〝68年〟というのは、〝教授会の自治〟なんかナンセンスだと攻撃したんだ。それが反革命的に回収されて、ネオリベ的な大学改革によって教授会自治が否定されてる。

外山 それまで良いものとされていた、学生自治会や教授会の〝自治〟に対して、そんなものは欺瞞だと告発したのが〝68年〟ですね。

 で、まさにその後、我々が〝ポツダム自治会〟と批判的に呼んでたような、学生自治会なるものは全国的に消滅していったわけだ。学生たちの批判を汲み取って、大学当局側が潰してくれた、とも云える。

外山 しかし現在の大学のネオリベ化路線に批判的な問題意識を持っている学生たちは、それに対抗して〝学生自治〟を掲げたりしてしまいがちです。それはかなり諸刃の剣なんですよ。〝68年〟の運動がせっかく欺瞞的な学生自治を批判して、そういうものをぶち壊す端緒ぐらいの役割は果たしたはずなのに、それを踏まえずに〝学生自治〟を要求することは、〝68年〟以前の状況に戻せという運動にもなりかねない

 両義的なんだよね。

外山 どっちかと云えばネオリベ的な大学改革を推進してる側のほうが、全共闘的な問題意識を引き継いで、学生自治会や教授会の欺瞞的な〝自治〟を潰して回ってる(笑)。

 そうそう。

外山 ここらへんが非常に難しいんです。〝学生自治を守れ!〟とか云ってる側のほうが、全共闘より後退してる可能性が高い。


 〝匿名の被害者による加害者糾弾運動〟の卑劣さ

聴衆2 もう1つ、絓さんは〝MeToo〟的なものを労働問題として捉えるべきだとおっしゃって……。

 今回の渡部の問題のようなものに関してはね。セクハラ告発を契機として解雇されるという、今回のような事例は労働問題でしょう。
 そもそも昨今の〝MeToo〟というのは、渡部を告発した女性もそうだけど、ほとんどの場合は匿名だよね。〝MeToo〟万歳の奴らは〝被害者保護〟とか云うけど、誰だか分からないような被害者にどうして加担できるわけ? 加担してる人たちは、そういう女性をまるでジャンヌ・ダルクのように思って、〝私もジャンヌ・ダルクです、MeToo〟とか云ってる。誰だかも分からないような人をジャンヌ・ダルク化していいのか。
 オレはやっぱり、告発する側は、つらくても自分自身を主体化すべきだと思う。つらいかもしれないが、告発するんなら名前を明かすべきですよ。自分はこういう人間だ、と云うべきです。

外山 ぼくもまったくそう思いますが、じゃあ実際に今後そういう流れになっていくかと云えば、絶対にならないでしょ。ますます被害者の匿名化は進むだろうとしか予測できない。

ここから先は

7,111字

¥ 270

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?