1988年の反原発運動・全史(その14)

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その13」から続いて、これで完結〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 単行本版『全共闘以後』の「第3章・第3節 反原発ニューウェーブと札幌ほっけの会」(原稿用紙換算42枚分)にあたる部分の〝オリジナル全長版〟(原稿用紙換算約290枚分)である。
 紙版『人民の敵』第3839号に掲載された。
 単行本版ですでに読んだという諸君も、あんなに面白い話だったのに、本当はもっと面白い話だったのかと衝撃を受けるはずだ。

 第14部は原稿用紙換算17枚分、うち冒頭5枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその5枚分も含む。

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 いっぽう泊原発現地では、引き続き総評系の労働者部隊の抗議行動がおこなわれ、さすがにこの日は最大限に闘争心を発揮して、前日にほっけの会が一時占拠したほうのゲートからの突入も試みられるなど、かなりの混乱となったようだ。辰田らの部隊も生協の部隊と共に計約二百名でゲート前に押しかけていたという。
 さらに、宮沢が言うには「センスはいいんだけど性格が悪いというか(笑)、何か思いついたら自分1人でやっちゃうような人」で、鹿島が言うには「もともとどこかの工場の持ち主なんだよ。それが泊原発の阻止闘争が始まると、工場経営の仕事を退いちゃって、全生活を反原発に投入した」のだという、七月の燃料棒搬入阻止闘争の際にはゴムボートで輸送船に近づこうとした一人でもある三尾谷遊人が、この時は地元四町村の一つである岩内町の反原発グループのメンバーなど十名ほどの仲間を独自に組織して、泊原発からの送電線を支えている、やはり四町村の一つである共和町の田んぼの中に建てられた鉄塔に、試運転開始直前の午前八時五十分頃から、仲間たちの見守る中、よじ登っていったのである。
 三尾谷がある程度の高さまで登ったのを見届けると、仲間の一人がすぐさま、近くの民家の電話を借りて、まず泊原発の代表番号、そして北電本社、地元の支社、岩内警察署などに、「男の人が鉄塔に登っている。すぐ電流を止めて下さい」と要請した(救援団体だろう「遊人と原発なしで暮らしたい仲間たち」が八八年十一月に発行した救援パンフ『泊原発・試運転の朝…鉄塔にのぼった』の記述による)。泊原発にかけた電話に出た職員も大いに慌てた様子で、「わかりました」との返事があり、実際に送電は一時ストップされたと新聞報道にも出ている。
 続いて仲間たちのうち他の四人もそれぞれ別の鉄塔に登り、鉄柱にしがみついたり、用意しておいた板を上手い具合に取りつけて座り込んだりし始めた。もっとも三尾谷以外のメンバーは象徴的に三尾谷への連帯のアピールのような行為として短時間だけ登ることが最初から打ち合わせられていたようで、そのうち最も長く鉄塔の上にとどまった女性も、夕方には自主的に降りた。
 三尾谷が一人、ずっと鉄塔の上で粘る。
 機動隊を含め大量の警官が現場に集まって大騒ぎとなったが、問題の鉄塔を通っている送電線の使用を止めているだけで、どの鉄塔に人が登っているのかが判明してからは他の線では送電を始めただろうし、そうであればなお早々に強硬手段をとることも躊躇われて、警察はなすすべもなくひたすら説得を試みるばかりである。
 夕方以降は雨も降り始め、三尾谷の体力の消耗も心配された。三尾谷は結局、自力で降りることができる体力ギリギリまで消耗してきたと自分で判断するまで十五時間も粘って、深夜〇時頃、自分で降りてきたところを威力業務妨害の容疑で逮捕される。拘留は二十三日間で、十一月八日に事実上の不起訴処分で釈放された。
 送電鉄塔に人が登っていることが分かると、やはりそこを通る送電線は人命に関わるため使用できなくなり、これには鹿島も「なかなか、すごい戦術」と驚いたようだ。仮にすべての送電線をその方法で止めてしまえば、試運転はともかく営業運転はできなくなってしまうのである。
 宮沢も「事前に相談してくれれば」と悔しがり、「30人の〝ほっけの会〟メンバーでそれぞれ1本ずつ鉄塔に登って、そうすれば排除するのに1日や2日は要したと思うよ(笑)。30人全員に登らせるのは難しいとしても、10人も登ればだいぶ違ったでしょう」と言う。

 試運転開始の翌々日である十月十九日の夜、北電前のテントを撤収することになった。
 もっと続けたいという意見も多かったが、撤退すべきタイミングで撤退しておかないと、永遠に続けられるものでもなし、単に消耗してなしくずし的に終わってしまうというグダグダの結末にもなりかねず、それでは政治的にはむしろマイナスである。「必要とあればいつでも戻ってくる」、「〝何か〟が起きるたびに、北電社員が朝、出社してみるとテントが現れているという日は必ずやってくる」という〝宣言〟を残し、〝テントたたみ式〟をやって撤収することに決めたのだ。

 鹿島は、十月に入る前後にはすでに泊原発を止められる可能性はなくなっていたと考えているようだが、宮沢は、この試運転開始以降もまだ逆転の可能性は残っていたと言う。ここで前に引用した宮沢の言葉、「最左派の部分が常に前衛の位置にいるわけでもなく、すごく右だと思ってたような部分が前衛に立ったりする局面もある。どの部分がいつ重要な役割を担うことになりうるのか、あらかじめ機械的に決めつけることはできない」という闘争観をもたらした、意外な展開が起きるのである。

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