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どうして主人公の部屋は一人部屋が多いのか。

おはようございます。日曜日、いかがお過ごしですか。

新しい年度が始まり、そろそろ落ち着いた頃でしょうか。生活に変化のあった皆様にとにかくエールを送ります。新しい環境に慣れるまでは空回りがつきものだと思うから、どうか心と体を大事にしてください。と、毎年春は自分自身に言い聞かせています。私自身が環境の変化に弱いから。

昨日、某「美少女が悪と戦う名作アニメ」を観ていた娘が、ぽつりと言いました。

「アニメの子って何でみんな、自分の部屋があるの?」

彼女はこの頃自分の部屋に憧れているようです。なるほど。

私は浮かんだことを答えました。

「物語を作る上で、兄弟と同部屋である必要がない時は一人部屋なんじゃないかな」


あくまで素人の考察です。ファンの皆様の領域を踏まないように気をつけますが、粗相があればごめんなさい。

娘が見ているアニメ作品の主人公達は一人部屋を与えられていることが多いらしい。娘はそれが羨ましい。

「現実じゃなくて物語の世界だからよ」と大人の私は思いますが、物語と現実が地続きの子供の言い分としては、純粋に「いいなあ、羨ましいなあ」なのです。

「ちびまる子ちゃんは、お姉ちゃんと二人部屋だし、サザエさんのカツオとワカメも同じ部屋だね。お話を考える中で、一人部屋が良いか、兄弟同じ部屋の方が良いか、作った人は考えているのかもしれないね」

と、娘に話してみたのですが、彼女はテレビに夢中なので、そこで話はふんわり終わり、ここからは一人で考えたことを書きます。

「美少女が悪を倒す名作は「悪を倒す」ことが一番の目的だから、作品に兄弟喧嘩は不要だ。だから一人部屋なのかもしれない。ちびまる子ちゃんやサザエさんは、家族とのやり取りを一番に伝えたいから、あえて兄弟が同じ部屋なのかもしれない。」もし、自分が物語を作るなら、伝えたいこと以外のいらない部分は全てカットするだろうなあと思いました。

大学生の頃、創作の講義を受けていた時、教授がこんなことを話していました。

「君たちは、作品の創作者だ、創作者はその世界の神だ。物語の中の木一本、登場人物の洋服一つにいたるまで、出したからには意味がなければいけない。その世界の完成度が高ければ高いほど、名作になるわけだ。キミたちの作品は突っ込みどころ満載だ。世界の作り方が甘い駄作ばかりだ」

なるほどと納得し、名作の完成度の高さをまぶしく思いました。

ドラマの放送後には「痛快な伏線回収」が話題になります。作者は意図して伏線を仕込むし、完璧に伏線が回収されると、観た人は気持ちが良いのです。

愛してやまない「プリキュア」の主人公の部屋が、妹と同じ部屋だった場合、私は妹が物語の重要なカギを握るのではと推測しワクワクします。
「もしかして、今回の新しいプリキュアは妹なんじゃないだろうか」と期待して。姉妹喧嘩や、夜寝る前のやり取りが登場すればするほど期待が膨らむ。

作品の考察は適任の方がたくさんいらっしゃるはずなので、この辺で黙ります。ここからは、身の丈に合ったことを語りますのでお付き合いください。

私は自分の人生が「完成度の高い物語」じゃなくて良かったなあと思います。

もし、自分の人生が完成度の高い物語ならば、出てくるもの全てに意味があるはずなのです。だから、兄弟と同じ部屋ならば兄弟が人生の重要なカギを握るだろうし、花柄の洋服が好みなら、花柄模様の何かが人生の名場面につながっていくかもしれない。そして、私の動作全てを「作者」と「読者」が見張っていて、話すこと食べること全てがその後の展開の意味をもつことになる。

なんか、疲れちゃうわ。

もし、私が兄弟同部屋を希望していたとしても、私の使命が「悪を倒すこと」であれば、物語の展開に家族との触れ合いが不要ならカットされてしまうし、天涯孤独な生い立ちにされてしまうかもしれません。名作の作者ほど、残酷なのです。

私が一人っ子で育ったことは、性格を作る上に何かしら影響はあったかもしれないけれど、人生の進行上、意味はあってもなくても良い。身軽で自由です。

今、ベランダに鳩が止まり、下の娘がほほえましいやり取りをしていたけれど、物語の進行上意味がなければこれもカットです。もし、私が物語の主人公だったとしたら、アナザーストーリーに収録してもらうことを望むしかありません。そして作品がヒットしなければそんな場はもらえず、編集後記にちょっと書かれて終わるかもしれない。

以前私は、人生を「完成度の高くない物語」と例えたことがあるのですが↓

人生には、ドラマチックなことが無限に起こりうる。でも、人生は物語としては完成度が高くないので、ドラマチックな出来事は支離滅裂、無責任に起こる。回収しきれず置き去りにされた伏線が、自分の歩いた道を絡まり転がっている。

明日、アイスの当たり棒を引くかもしれないけれど、それは年末に宝くじが当たる前振りではない。それ以上でもそれ以下でもない。

明日の昼休みの後、素敵な人が意味深な笑いで見つめてくれるかもしれないけれど、この後、昼ドラも真っ青な恋愛劇は展開されはしない。それ以上でもそれ以下でもない。

前回の記事では、ドラマチックな出来事がその後の展開に影響されないことを「がっかりすること」として書きましたが、今回は「安心すること」として書きたいです。

人生が完成度の高い物語なら。アイスの当たり棒を引くことが物語の進行上で意味を持っていなければカットされてしまうけれど、私の人生としては意味がなくてもOKなので、当たり棒を引くことができます。何もこの後万馬券を当てなくても良いのです。

私の人生は物語として完成度が高くないので、昼休みの後に素敵な人が意味深な笑いで見つめてくれることもあるかもしれない。でもその後、昼ドラも真っ青な恋愛劇が展開される必要はないので、自分の結婚生活に影響はない。
だから、意味深な笑いとときめきだけを味わうことができるのです。

名作の主人公も、そんな悲喜こもごもを物語の裏側で体験しているかもしれない。でも、それは作品の調和がとれなければ、本編ではあえて語られない。

私は人生の主人公ではあるけれど、作者も読者もいないので、表も裏もなく一切カットされず、色々なエピソードが混在している。良いことも悪いことも、面白いことも、心砕けることも、意味のありなし関係なく起こりうる。

そこまで考えて、なんだ、現実ってなかなか良いものじゃないかと思いました。

人の評価をうかがわなくて良いから、伏線を仕込まなくても回収しなくても良いし、視聴率が下がろうが上がろうが関係ない。本当に、身軽です。

自分の人生に意味なんかなくても良いけれど、唯一の読者視聴者は私自身です。私が良いと思えれば人の顔色なんか見なくても良いのだと。最後、一生懸命生きたなあと思えれば、良いのだと思います。

さあ、明日からも、何が起こるかわからない生活が始まります。笑って泣いて、その後の展開も気にせずに、生きていこうと思います。


ここまで書いてみて、さほど真新しくないことを偉そうに書いてしまったなあと少し落ち込んでいるのは、私が物語の主人公ではないからです。

多分、学生時代、教授が話したことや、その時読んだ文章、学生同士のやり取りに影響されています。それが長い時を経て、自分の身の丈に消化されたのがこの文章です。特に誰かの文章を真似したつもりはありません。もし、「戸山、パクったんじゃないの」と言われたらそこは削除します。そして、数々の作品を世に送り出している皆様が不快に思っていたら。色々ごめんなさい。
気弱になっているのは、新しい環境にざわついている春のせいです。

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