超簡略 前期後期ヴィトゲンシュタイン

ヴィトゲンシュタインの哲学は、前期と後期に分けられます。

前期は写像理論(論理実証主義)。後期は言語ゲーム。

彼は、前期の理論を「すべて間違っていた」として全撤回、後期の言語ゲームを展開する。これは本当に衝撃的なことであります。


前期。写像理論

 写像理論は ⑴世界は、要素に分けることで、分析可能である
       ⑵言語も、要素に分けることで、分析可能である。
       ⑶世界と言語は完璧に一対一で対応する(写像関係にある)

       ⑷言語で表せないものは、分析不可能である       (語りえぬものについては沈黙しなければならない)

 簡略すれば、これだけである。つまり、私たちの世界は言語であり、言語は世界であると。

そして世界と言語の交差点として私たち主体が存在すると。(しかし、これは完全に唯我論になってしまう。後期で訂正される)


前期から後期への過程

 さて、写像理論では、世界と言語は独立要素に分けられることが前提になっていました。しかし、ヴィトゲンシュタインは要素命題は存在しないのではないかと疑いはじめます。

例えば、言語について。「この花は赤い」と言うとき、同時に「この花は白くない」「黒くない」ということも間接的に含意しているのです。

つまり、赤を選択するとき、同時にそれ以外の色は否定される。
しかし、否定されるといっても消えるわけではない。必ず、背後に保存されている。どういうことか。

言語にはそれぞれのジャンルに地平があるということに関連する。

例えば、色については

<赤/白/黒/青/緑/黄/紫/ピンク/茶・・・>という地平があり、

その中から選択される。ほかを否定して選択されるのだ。(共通の地平の否定)

よって、言語は要素で完全に独立していない。何色であるかは他の色ではないことによって、消去法的に決まると言っていいでしょう。

  以上、言語に要素命題はないことを確認しました。では、世界についてはどうか。そのまま花の色の例を使う。

結論から言えば、私が「赤」だと思っているものと、友人Aが「赤」だと思っているものが同じだと言えないということだ。
友人Aには実は、その花が認識的には青く見えているかもしれない。友人にとっての「赤」は視覚的には「青」である可能性があるのです。

何かが「赤い」というとき、ただ言語の上で一致しているとわかるに過ぎません。本当はその人にとってどう見えているのかは、そのひとだけが知ることでありましょう。

したがって、世界についていえば、万人にとって共通の要素というものは、確定できないのであります。これは写像理論が唯我論であることからも当然です。


後期。言語ゲーム

 さて、これまで、「世界」と「言語」の独立命題を否定する中で、なにやら、「言語」は「世界」から切り離された非対称な存在らしいことがわかりました。

では、「言語」が世界から切り離されても、有意味に私たちが使えるのはなぜでしょう?お分かりの通り、「言語」には独自のルール・秩序として「文法」があるからです。

先ほどの例に照らすと、認識的にはどう見えているのかわからないのに、私たちが「この花は赤い」と一致できるのは、言語において「文法」というルールがあるからです。そこでは「世界の秩序」とは異なる「言語独自の秩序」に従っているのです。つまり、言語ゲームです。

世界から切り離されると、写像理論的な主体のあり方も怪しくなります。伝統的な「主/客 図式」から、「文法にのっとって言語を使用する間主観的な主体」へ。これが俗に言う、「言語論的転回」です。

「痛い」という体験も私的体験ではなく、言語ゲームが与える効果に過ぎないとヴィトゲンシュタインは言うのです。


言語ゲームについて詳しく見ていきます。
これも前期の思想の延長線上でとらえるとわかりやすいです。

前期の写像理論は論理実証主義でもあります。

論理実証主義とは、ある命題が真ならば、そこから演繹される命題は証明を待たずして、必ず真である、ということ。つまり論理学がすべての思考の土台になっていると考えたわけです。

具体的には、数学は論理学に基づいていると考えました。
しかし、歴史的には、論理学が存在する前から数学は存在していました。

そこで後期の思想では、考え方を全く転換します。
数学を規定するように思われる論理学も、事後的な観察による記述に過ぎないというのです。数学を一次ゲームとすると、論理学は後からできた二次ゲームなのです。

だから、彼は言語ゲームを説明するとき、アポリアの様式をとります。
なぜなら、言語ゲームを論理的に説明しようとすることは、二次ゲームの営みなので、「言語ゲーム論」になってしまいます。必ず後手に回るので、言語ゲームそのものは、論理的に展開できないのです。
純粋な一次ゲームとしての「言語ゲーム」を伝えるためにも、ヴィトゲンシュタインは自分の記述が言語ゲーム「論」になってしまうことなってしまうことを嫌がりました。あくまで「言語ゲーム」にこだわるのです。


 具体的に見ていきます。宇宙人が日本に来て、野球を見ていると想定してください。宇宙人は日本人がボールを投げたり、バットを振ったりするのを見ています。宇宙人が野球を理解しようとするとき、宇宙人に理解できるのは、投手がボールを投げたら、バットを持つ人が、バットをスイングするとか、ボールを打ったら、白い四角いベースに向かって走るとか、外から見て観察できる物理的様子までです。


なんで、ボールを投げるのか、バットをふるのかまでは理解できません。
それは宇宙人が私たちの間で行われる「野球」という言語ゲームを知らないからです。宇宙人が真に野球を理解するには、私たちと一緒に野球を実際にプレーして、学習しなければならないのです。

観察できる物理的な状況(=WHAT、HOW)は分かるけれど、
なんでそうするのか=(WHY)までは実践しないとわからないという感じ。



ここから言えるのは、論理はあるゲームの正当性を支える根拠ではないということです。論理はあくまで二次的ゲームで事後的にわかることだから。

人間社会のあらゆることは、あるがままの世界をプライマリーとするとすべて二次、三次・・・のゲームに過ぎない。すべては、人間のゲームの中の内部表現に過ぎないのです。当然、僕がここで「あるがままの世界」と表現しているものも内部表現にすぎないのですが。

だとすると、人間の文化は根拠のない宙づりなものになってしまいます。

こんなことを言われるとニヒリズムに陥ってしまうかもしれません。
でも、僕らは、根拠がなくても、実際に生きています。

ヴィトゲンシュタインはそこをちゃんと示してくれました。

 ゲームの根底は実践だということです。
根拠は示せないけれど、われわれのふるまいが言語ゲームの前提としてゲームを支えている。

つまり、現に生きているということは、疑うというゲームを免れた事実である、その事実性は言語ゲームの要素ではなく、ゲームを支える前提であるのです。

生きられているという事実性が、言語ゲームが崩壊しない理由といえます。
それは、論理的でもなんでもなく、現にあるのですから。

参考「言語ゲームと社会理論」橋爪大三郎 第一章





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