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いわゆる「アイヌ民族渡来説」について

 この記事はユーチューブでも動画版を公開しています。元々は【増補版】縄文人はアイヌ語を話していた!?という動画に収録する内容の原稿として書いた記事ですが、動画の方では後半の内容を若干延長しています。また、本文中に「動画の方でも~」という記述がしばしばありますが、それは前述の動画のことを指しています。少し長い内容ですが、興味のある人は視聴してみて下さい。下記のリンクからも参照できます。

 よくインターネット上では、アイヌ民族が鎌倉時代に樺太から南下して北海道を侵略したなどの俗説が流布されていますが、これには全く根拠がありません。まずは、この書籍の内容を参考にして「アイヌ民族渡来説」の問題点を明らかにしていきます。

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 "漆文化"はアイヌ民族の起源を考察する時、重要なヒントとなります。アイヌは漆文化とは無縁です。そればかりか、縄文土器、貝文化、農耕とも無縁、言語も日本語と別系統であり、彼らは縄文人の子孫や日本民族の先住民ではありません。

(長浜 2021)

 北海道の漆文化は縄文時代後期に隆盛しますが、漆製品や漆液は東北地方から供給されていて、一部の漆製品を北海道でも自家生産していたと考えられています。晩期になると、東北地方での漆製品の生産増加の影響で北海道の漆製品は減少するようになり、続縄文時代には急速に衰退して、それ以降は完全に本州との交易に依存するようになります(三浦 2002・2003)。漆文化の衰退は北海道に限らず東日本でも弥生時代になると、漆製品の出土量が激減して相対的には西日本での出土量が増加しますが、全体的に見ると縄文時代の比ではないとされています(青森県教育委員会 1997)。

北海道の縄文時代後期の遺跡から出土した漆塗赤彩注口土器(玉田 2007)

 このように、縄文時代に隆盛した北海道の漆文化は東北地方との密接な繋がりによって成り立っていましたが、その趨勢は東北地方の漆文化の動態に左右され、最終的には消滅していくことになります。その為、アイヌ民族が漆製品を自家生産していなかったからといって、縄文人とは無関係だったということにはなりません。
 次の縄文土器については、動画の方で北海道の土器文化が消滅していく過程を説明しているので、そちらを参照して下さい。貝文化とは恐らく装身具のことだと思いますが、これも北海道で出土するのは続縄文時代までになります(国立歴史民俗博物館 2000)。また、アイヌ民族が近世以前から北海道で農耕を行っていたことも考古学的に明らかにされています(田村 2004,手塚 2005・2015,横山 2015)。
 最後の「言語も日本語と別系統であり」というのは、この本としては縄文人が日本語系統の言語を話していたという前提がある訳ですが(長浜 2021)、これについても動画の方で取り扱ってきたテーマなので、興味がある人はそちらを参照して下さい。

 その彼らが大陸で元に服属した民族を襲ったため、その民族が元に救援を求め、元が北からアイヌを攻撃したのです。元には勝てず、故地であるアムール川河口部から樺太を通って今度は北海道へ逃げ込んできました。

(長浜 2021)

 鎌倉時代直前の北海道の状況を見てみると、10世紀以降に擦文人と呼ばれる古代アイヌの人々が石狩低地帯から北海道北東部に拡散していったことで、擦文時代後期の北海道では擦文文化の遺跡が北海道北東部に集中するようになります(澤井 2007a・2023)。

石狩低地帯から周辺地域に拡散する古代アイヌ(瀬川 2013)

 それどころか、古代アイヌの人々は樺太南部にも生活の痕跡を残しています。彼らは、本州との交易で交換財になっていた毛皮や鷲の羽などを入手する目的で石狩低地帯から北上していきました(瀬川 2005・2009・2012・2013)。その結果、13世紀後半にはアムール川下流域のキジ湖付近にも進出して、モンゴル軍と軍事衝突を繰り返すようになります(北原・谷本 2020)。

13世紀後半から14世紀初頭にかけてのアイヌ民族とモンゴル軍の関係図(北原・谷本 2020)

 その一方、石狩低地帯の太平洋側では12世紀から13世紀頃になると、擦文土器を伴わない中世アイヌ文化の集落が出現するようになります。厚真町の遺跡だと、カマドを伴わない2つの囲炉裏を設置した住居様式が確認されていて、この住居様式は擦文文化の段階から存在していました。時系列的には擦文文化の次が中世アイヌ文化になりますが、最近の研究では中世アイヌ文化の色々な要素が10世紀以降の擦文文化にルーツを求められることが分かっています(厚真町教育委員会 2009・2013・2014・2017,北海道埋蔵文化財センター 2019,瀬川 2015,田才 2015,乾 2015,大塚 2020,大塚・他 2021)。

2つの炉跡がある擦文時代の住居跡(厚真町教育委員会 2009,北海道埋蔵文化財センター 2019)

 擦文時代の終焉は擦文土器の消滅によって規定されていて(関根 2016)、北海道では道東地方の擦文土器が最も新しい時期まで作られていたとされています。終末期の擦文土器を伴う遺跡の竪穴住居跡の放射性炭素年代測定によると、11世紀から12世紀頃という年代値が得られていて、遅くとも13世紀前半までには擦文土器が消滅したと考えられていますが、道東地方を除けば12世紀が終わるまでに擦文土器が消滅していても不思議ではありません(澤井 2007b・2007c,小野 2023)。
 先程の「アイヌ民族渡来説」だと、アイヌ民族がモンゴル軍に敗走して北海道に渡来したとしていますが、アイヌ民族とモンゴル軍の軍事衝突は13世紀後半から14世紀初頭にかけての出来事であり(北原・谷本 2020)、この歴史事象によってアイヌ民族のルーツを説明しようとするのは、時間的・空間的に矛盾していることになります。
 つまり、擦文文化の終点と中世アイヌ文化の始点というタイムラインの絶対年代が分かるようになってきたので、アイヌ民族がモンゴル軍と軍事衝突していた頃には、北海道では既に中世アイヌ文化の段階になっていたという訳です。アイヌ民族とモンゴル軍の軍事衝突は、単純にこの頃のアイヌ民族の活動領域が北海道から樺太以北の地域にまで及んでいたことを意味しているに過ぎません。

 北海道の先住民にとって、瞳の青いアイヌを含む彼らの侵入は異民族の侵略そのものでした。狩猟民族の彼らは、トリカブトの根から採った猛毒を鏃に塗った毒矢を使ったため恐れられ、まず、樺太や北海道のオホーツク海沿岸で暮らしていた漁撈民、オホーツク文化人を滅ぼしたと考えられます。彼らの女性のmtDNAがアイヌの中に混入して来たことからの推測です。

(長浜 2021)
毒矢を構えるアシㇼパ(MMDにより制作)

 動画の方でも取り上げているように、アイヌ民族が使っていた毒矢の中柄と呼ばれる部品は擦文時代から使われていました(奥尻町教育委員会 2003,北海道埋蔵文化財センター 2003,高橋 2015)。12世紀中頃の和歌には蝦夷が毒矢を作っていることを詠んだ歌もありますが(海保 1987,児島 2009)、擦文時代は少なくとも12世紀末まで継続していました(澤井 2007b,小野 2023)。アイヌ文化の中柄が毒矢を構成する部品であることを踏まえれば、毒矢の使用が擦文文化の段階に遡ることを示唆していますが、最近の研究では縄文人の毒矢の使用も指摘されています(北区飛鳥山博物館 2017・2022)。これらのことから擦文文化では既に毒矢が使われていて、その伝統がアイヌ文化に受け継がれたと考えるべきでしょう。

アイヌ民族が使用していた中柄(関根 2015)

 アイヌ民族に滅ぼされたとされるオホーツク文化人については、北海道で彼らがどうなっていったのかを動画の方でも取り上げているので、そちらを参照して下さい。
 また、北海道縄文人とアイヌ民族のミトコンドリアDNAハプログループの集団内頻度の違いが(下図)、北海道の人間集団に置き換わりがあったことの証拠であるかのように扱われている場合もありますが(長浜 2021,中川 2022)、これも大きな誤りです。

逆に現代アイヌのY染色体ハプログループはDとCの2系統しか確認されていない(篠田 2019)

 動画の方でも取り上げましたが、ミトコンドリアDNAは母系に遺伝するので、特定の人間集団のミトコンドリアDNAが様々なハプログループに分類できるのであれば、それは様々な地域から女性の移住があったことを示唆しています(太田 2018)。ニヴフ(ギリヤーク)やウリチ(ウルチ)などの北方先住民の核DNAにも縄文人由来の祖先系統がある程度は含まれていることが分かっているので、アイヌ民族との間で婚姻などの交流を通じた双方向的な女性の移住があったと考えられます(Sato et al. 2021,神澤 2022)。
 しかし、ミトコンドリアDNAとY染色体は、1人の人間が持っている膨大な祖先の中のたった1人のものをたどっているに過ぎないので、核DNAと比べて情報量は非常に限られています(斎藤 2020)。かつて、ミトコンドリアDNAの解析からはホモ・サピエンス(現生人類)とネアンデルタール人(旧人類)の交雑が否定されていましたが、それが核DNAの解析によって覆ったように、ミトコンドリアDNAを調べても分かることは限られています(近藤 2012,篠田 2012,ライク 2018)。
 つまり、ミトコンドリアDNAハプログループの集団内頻度の違いを表しているこのようなデータは(上図)、北海道で人間集団の置き換わりがあったことを示すような性格のものではなく、決してそのような事実を読み取ることはできません。アイヌ民族の人類学的な考察も動画の方で取り上げているので、ここで深くは触れませんが、核DNAの解析ではアイヌ民族と縄文人が最も近い関係にあることが分かります(下図)。

青丸の船泊縄文人と北東アジア人のSNPデータの主成分分析(Sato et al. 2021)

 このように「アイヌ民族渡来説」は、歴史的な北海道の在来集団とアイヌ民族の文化的・人類学的な繋がりを全く考慮していない暴論であることが分かると思います。擦文文化とアイヌ文化は基本的に連続した社会の中で営まれていた文化であり、歴史的に北海道で暮らしてきた人々が通時的に変化しながらアイヌ文化・アイヌ民族を形成していったと考えるのが最も自然な仮説になるでしょう。

参考文献

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厚真町教育委員会『ニタップナイ遺跡(1)』2009
厚真町教育委員会『ヲチャラセナイチャシ跡・ヲチャラセナイ遺跡』2013
厚真町教育委員会『オニキシベ4遺跡』2014
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乾哲也「擦文からアイヌへ:厚真町の事例から」『季刊考古学』133,雄山閣,2015
太田博樹『遺伝人類学入門:チンギス・ハンのDNAは何を語るか』筑摩書房,2018
大塚宜明「置戸産黒耀石の利用からみた人類活動の変遷:北海道を対象に」『札幌学院大学人文学会紀要』107,札幌学院大学人文学会,2020
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北区飛鳥山博物館『縄文人の一生:西ヶ原貝塚に生きた人々』東京都北区教育委員会,2017
北区飛鳥山博物館『縄文料理と弥生ごはん』東京都北区教育委員会,2022
北原モコットゥナシ,谷本晃久『アイヌの真実』KKベストセラーズ,2020
国立歴史民俗博物館『北の島の縄文人:海を越えた文化交流』企画展示図録,2000
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澤井玄「擦文社会の動態:遺跡立地の変化からみる擦文文化の生業」『北海道考古学の最前線:今世紀における進展』雄山閣,2023
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中川八洋『侵入異民族アイヌの本当の歴史』ヒカルランド,2022
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北海道埋蔵文化財センター『厚真町オコッコ1遺跡(2)』2019
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T. Sato et al. Whole Genome Sequencing of a 900-year-old Human Skeleton Supports Two Past Migration Events from the Russian Far East to Northern Japan. Genome Biology and Evolution. 2021. DOI: 10.1093/gbe/evab192.

※太字の書籍はアイヌヘイト本です。

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