ネタバレ創作考 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観て

大変素晴らしくべしょべしょに泣けたので文句一つなく、各話から劇場版へのつなげ方も見事であれば、劇場版終盤の怒濤の展開は、異なる場所、異なる時間を密接につなげながらの傑作脚本であり、大満足である。

そんな満足感にひたる冲方であったが、あるとき「一点だけ不満がある」という強い意見を耳にし、改めて全体のプロットに考えをはせてみた次第。
さてその不満とは。

「劇場版のギルベルト少佐がむかつく」

とのことである。
ひたすらに頑張り続けてきたヴァイオレットちゃんを豪雨のなか門前払いにした挙げ句、最後自分はちょっと走っただけで(だいぶ走ったと思うし隻腕で走るのは体幹のバランス上とても大変なはずだ)、自分は海に飛び込まず(あの断崖では死んでしまう)、ヴァイオレットちゃんをまたずぶ濡れにさせて(あの義手でよく沈まないなとは思った)、しかもその上、「泣かないでくれ」とはどこまで甘えるんだ(育ちがいいのだよ)、少佐を殴ってくれホッジンズ(そこは同意だ)。
詳しく述べるとこういうことらしい。もちろん小説版のことは勘案せず、純粋にアニメーション作品としての意見であろう。

個人的には、ギルベルトの悄然としきった感じが、いっそうヴァイオレットの無垢な高潔さを引き立たせるわけで、素晴らしいほどのダメぶりを遠慮なく思い切って描いたことを評価したい気分である。
それよりも私は、「お兄ちゃんであるディートフリートのリボン好きについて、お願いだから作中で誰か言及してくれ」と、ディー氏が出てくるたびに身悶えてしまった。
本当はファッション業に進みたかったのかと思わされるほど常に髪とリボンを胸元に垂らし(体の前面に出して人々の注目を促し)、他人のリボンですらわざわざ手ずから届ける。「リボン=貴重品=持ち主の分身」といった思いが染みついているとしか思われない。
きっと父親に反抗し続けたのも、少年期にうっかり(うっとり)リボンをしているところを父親に見つかり、「お前は男だ、目を覚ませ」と激しい鉄拳制裁を浴びたからであろうと推察される。
そんなディー氏の件は、ギル氏よりよほど気になるが、ひとまず脇に置く。

問題は、劇場版において、ギル氏が最後までドアを開けず、ヴァイオレットを招き入れなかったことである。(といって拒んだとも言えないのだが)
ここに強い説得力を持たせねば、「ギルむかつく」という声を一掃することはできないだろう。(一掃しなくていいと私自身は思っている)

純粋に、創作の課題として、この点についてどのような解決策があるか、考えてみたい。
まず要素を逆転させて考えよう。
すなわち、ギル氏がドアを開かなかったからこそ、ヴァイオレットに利益がもたされる流れを考えねばならない。ギル氏の主張である「このほうがいい」の裏づけをはっきりさせるわけである。

ギル氏がヴァイオレットとの接触を回避したことで良いことがあるとすれば、二人の関係上、また取り巻かれていた状況を考えると、軍事にまつわることがふさわしいだろう。
となると、わりと漠然と描かれていた、ギル氏とヴァイオレットの戦時中の行動をよりはっきりさせる必要がある。「任務として以上に、一人の人間として罪悪感を抱くことになった」何かしらの行動である。
さらに、これも漠然と描かれていた、戦争行為についての社会的・倫理的解決はどうなったのかということにも言及する必要がある。

要は、この世界で将兵がどのような存在であるか、戦闘時の善悪の線引きが戦前と戦後で変わったのか、といった、「人物の状況」という輪郭をはっきりさせねば、ギル氏の側から見たヴァイオレットの存在が、曖昧なままなので、そこに不満が集中したのかもしれない。

何度も言うが、私はその曖昧さもふくめ、良いと思っている。
というのも、ここまで書いてきたようなことを、いよいよくっきりはっきり描くとなると、相当陰惨な要素を作品に加えることになるからだ。
それを避け、純粋な善意に焦点を当てた物語作りを私は素晴らしいと思うが、『ジョジョ・ラビット』のような必ずしも陰惨にならない描き方もあるので、ここではあえて踏み込んでみよう。

まず、ギル氏もヴァイオレットも、戦時中の行動の一部が、戦後に問題視されることが望ましい。(あくまで展開上のことで、もちろん二人にとっては望ましくない)
戦争ののち、とりわけ問題になるのは下記である。
・非武装の民間人の虐待・虐殺。
・捕虜の虐待・虐殺。
・農地など生活資源の汚染。
・水道や橋や都市住宅街などライフラインの汚染。
・停戦に従わず戦闘や破壊工作を続ける。

平和になったあとの倫理観としては、「これ以上、必要不可欠な殺害も爆撃も存在せず、全ては犯罪である」という状態になる。平和になったときは戦闘が正当化される根拠が厳しく見つめ直されるのが普通だ。
戦争の最中は、しげみでガサガサ物音がしたら取りあえず撃っても仕方なかろうが、戦後に同じことをするのは犯罪である、ということだ。

国家的な事情から乖離して、個人的な感情で戦闘を継続することは当然ながら犯罪行為であり、その点については、第十一話から第十三話にかけて言及されている。
ヴァイオレットは世界の変化に従っており、問題はない。
ギル氏もどうやら同様で、問題はない。
こうなると戦後に問題を設定するのは辻褄が合わなくなる。
やはり戦時中のギル氏とヴァイオレットの行動に、のちに問題となる何かを用意することが善策である。

上記の「問題になる」ことからピックアップするなら、捕虜ないし民間人の虐殺の罪だろう。
作中で、その後も人が住めないほど汚染された地域は設定として見られない。
また、地域汚染は言い訳がきかない分、命令系統がはっきりしていることが大半で、純粋に軍事的な行為である限り、戦後の賠償や補償の対象になることはあるが、犯罪とみなされることはあまりない(後年は犯罪視されるとしても、初めて使った場合は予見できない被害が多く、犯罪としにくいからだ)。「枯れ葉剤」「原子爆弾」「化学兵器」などがそうである。
この設定の良いところは、汚染された湖など、一見して「ひどさ」がわかることだが、さすがに解決不能すぎて、ことの重大さから赦免が難しくなる。
それにヴァイオレットちゃんが広域汚染兵器になってしまいかねないので、これはやめましょう。ヴァイオレットちゃんじゃなくなる。私は嫌だ。

というわけで、やはり捕虜か民間人である。これは線引きが非常に難しい場合があるからだ。
たとえば戦場となった都市で、親を失った子どもが兵士ともゲリラとも浮浪児ともつかぬ曖昧な立場で、貧弱な武器を手に襲ってきたら?
たとえば捕虜が脱走し、丸腰で襲いかかってきたら? 
いずれも襲われたのがギル氏なら、ヴァイオレットは無思考で敵対者を脅威とみなし、無力化するだろう。結果、殺してしまうこともあり得る。
これが一人や二人ではなく、相手が何十人規模であれば、強力な火器で制圧する必要が生じるかもしれない。
そして平和になってのち、丸腰の人間を殺傷した罪を問われた場合、誰がどのような命令を下したかが問題の焦点となる。

戦中に下された「ギルベルトの命令」が、戦後のヴァイオレットが本当に平和な世界にふさわしい人物であるかどうか判断する材料になってしまうわけである。もちろんギル氏とて、望んで下した命令ではないにしてもだ。

明らかにヴァイオレットの立場を瓦解させるような(ドールとして培ってきたキャリアが無に帰すような)、過去の「命令」の存在が問題化し、ディー氏までをも巻き込んだ裁判沙汰に発展したなら?
また、そもそもギル氏がいた陸軍内部で、戦後にギル氏が証人として立つことがないよう隠棲させるといった合意がなされ、それをディー氏がいる海軍側が知らされていなかったとしたら?
さらに和平条約調印に関わることでもあるとしたら?

これだけくそみそに重たければ、ヴァイオレットを窮地に陥れることを何が何でも避けるため、ギルが死んだふりを続けたことに納得感が出るかもしれない。
もう少し具体的に詰めるなら、以下のような感じになるだろうか。

・戦中、撤退前に総本部が攻撃されてヴァイオレットが両腕を失うちょっと前に、ある「命令」が上層部からギルベルトに下される。

・「もう嫌だ」となったギルベルトがその命令撤回を求める。

・だが命令実行が避けられず、ヴァイオレットの「命令を下さい」がギルベルトの免罪符になり、つい命令内容を口にしてしまうが、「やれ」とは言えない。

・「やれ」と言ってほしいヴァイオレットと、言えないギルベルトを、劇場版ラストの涙で喋れないヴァイオレットとギルベルトの対比にすることを一考。

・だが捕虜が一斉に脱走するなど危険な状況になったため、ギルベルトはヴァイオレット自身の身を守れという意味で「やれ」と命じてしまう。

・ヴァイオレットのほうは当然、ギルベルトの安全と命令を守るために行動し、非武装の捕虜を多数殺傷することに加担してしまう。(ヴァイオレットだけでなく、その場にいる兵士が慌てて対応した)

・ヴァイオレットも相手を殲滅はせず、ギルベルトに制止される。攻撃しない者は逃がすなどする。そのときの逃走者が、のちギルベルトの擁護者になる。

・この出来事のすぐあとで、逃げた捕虜の一人から総本部の正確な位置を知った敵が、撤退とともに攻撃を行い、ヴァイオレットが負傷し、ギルベルトが行方不明となる。

・戦後、ヴァイオレットがドールとして活躍することで、逆に「戦中のヴァイオレットを知る人間」が現れ、その証言が、政治的な色が強い「抗戦派をなだめるための戦後軍事裁判」へとつながる。

・平和条約が推進される水面下で、「抗戦派を宥めるための戦後軍事裁判」が進められ、ディートリッヒは、憲兵が「陸軍の捕虜殺害事件」の調査を行っていることを知り、ヴァイオレットのせいでギルベルトが行方不明のまま戦犯になりかねない、と考えて腹を立てる。

・第八話のギルベルトの墓のくだり、第九話のヴァイオレットが部屋に閉じこもるくだりで、こうした情報を小出しにしていく。

・ヴァイオレットは、捕虜脱走後、果たしてギルベルトの命令に従っただけと言っていいのかわからなくなる。ただわかるのは、ギルベルトは最終的に自分を止めたということである。「命令」とはなんであるか、どうして自分はギルベルトの「命令」をほっしたのか考える。そして、悩み惑う自分の証言がギルベルトを戦犯にしてしまいかねないことを恐れる。

・自身も軍事裁判の対象となりかねないヴァイオレットであるが、第十一話の内戦が続くメナスへ赴き、手紙を書く。これは戦後の今も「命令」を求め、従い続けている人々への共感があるのかもしれない。
この話数で、結果的に、依頼主であるエイダンとその家族によって、「捕虜殺害事件」が偶発的なものであり、決して残虐な処刑ではなく、むしろ双方に深い傷をもたらしたことが証言される。エイダンが当時を知り、ギルベルトに逃がしてもらったという認識でいるほうがわかりやすいだろう。

・またディートフリートも「捕虜殺害事件」を巡る状況を調べ、陸軍上層部が下した命令に、ギルベルトが最後まで抵抗した証拠を見つける。とともに、ヴァイオレットもあくまでギルベルトを守るため戦ったことを知る。

・何よりメナスでのヴァイオレットの働きが、「抗戦派をなだめる」という目的に貢献したため、捕虜殺害についても、やむをえざる自衛的戦闘であったと合意がなされ、以後は不問となる。

・軍事裁判が開かれる可能性があることから、ギルベルトは名を変えて隠棲していたが、この時点でもうその必要はなくなる。

・だが、ギルベルトとしては「やれ」と言ってしまった事実が深く心に残っており、その後悔から、ヴァイオレットと会うことができない。

・蛇足を一つ。
劇場版の終盤、ヴァイオレットの手紙が駕籠に乗ってギルベルトのもとに降りてくるが、少年にとって手紙は貴重な品であるはずだ。
手紙を託されたあと気軽に用事を片づけた印象があったので、たとえば駕籠にギルベルトが必ず手に取るパンとか御礼の食事があり、そこに手紙が添えられているのはどうか。
ギルベルトからすると食事であることがわかっているので、すぐには目を向けないが、ディートフリートのほうは「なんだ?」となって見るわけで、手紙の存在にいち早く気づく理屈づけになるだろう。

さておき、劇場版においては、こうした政治的な障害はあらかじめ片付いているべきである。
なぜならギルベルトを「全ての罪を負って凜々しく我慢している男」として描くより、とにかく後悔で立ち上がることができない人物として描いたほうが、先述のようにヴァイオレットの気高さが映えるのである。

さて。
「ギルベルトむかつく派」諸氏へのエクスキューズをプロットに盛り込むなら、こういう手もあるだろう、という試案をしてみた。
最後に重ねて言うが、私個人は、これらを無用だと思っている。
自分で考えておいてなんだが、ヴァイオレットが政治に巻き込まれるより、アンと一緒にいるほうがずっと泣ける。
とはいえ、素晴らしい作品についてあれこれ考えるのは楽しいもので、ついつい長々と書いてしまった。
ご容赦を。




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