冲方塾 創作講座3 課題1と2
文章の書き方を、どうしたら効果的に学ぶことができるでしょうか?
第1回の講義では、二つの課題を出しました。
まず、自由課題。これは筆写です。書き写す。
ご自分が感銘を受けた、何かに気づかされた本が一冊ぐらいあると思います。その一冊をとにかく書き写してください。手書きでも、キーボードでも、お好きなものをお使い下さい。
書き写しながら、一文ごとに、主題や主語を意識する。誰の話か、何の話か、と考えることによって、なぜどこで何に、自分が感銘を受けたのかはっきりするでしょう。
書き写すペースは、みなさんにお任せします。次回の講義までに一冊書き写してきました! でもいいですし、十二回までに間に合わせよう、でも構いません。
そして、書き写したものを持ってきて下さい。
どんないいことがあるかというと、僕が赤ペンで花丸を書いてあげます(笑)。
花丸が増えるほど、述語的表現が身についていくはずです。
ある主題を成り立たせるために、たくさんの言葉が並べられている。すべて意図的に並べられているはずです。ある主題、主語をみなさんの心の中にイメージさせるために、言葉がどのように形作られているのかを身をもって追体験することで、一段深く、客観視することができます。
僕も一〇代のころからとにかく書き写してきました。好きな小説や論文が多かったかな。個人的に地獄のように苦痛だったのが、キルケゴールの『死に至る病』という難読書で、大学一年生の夏の多くの時間を奪い去られました。でもやっぱり、そのころの経験が生きている。キルケゴールさんはドイツ地方の哲学者ですが、死に至る病というのはキリスト教的な絶望を意味する。その絶望がなんであるか、そもそも絶望するってどういうことか、絶望には何種類もあるじゃないか、というのを全部厳密に定義していくんです。
ドイツ語というのは、とことん主語を大事にする国なんですね。ヨーロッパの言語を学んだことがある方はおわかりでしょうが、すべての言葉が女性名詞なのか男性名詞なのか中性名詞なのか厳密に規定されている。
そんなドイツ語の文章を、主語をさっぴいても通じてしまう日本語に翻訳したわけですから、まあすごいことになっているわけですね。
死に至る病とは、絶望である。
これが日本語のざっくり表現。
私が思うこの社会におけるドイツ国民の一般的なキリスト教的観念における絶望というものは死に至る病と表現することが可能である。
こういうのがドイツ語風味の厳密表現だな、なんてこともわかってくる。
こんな風に、言葉を様々に味わうための筆写です。
もう一つ余談ですが、苦しかったのはスティーブン・キングの『IT』。映画で大ヒットしましたけど、あれをうっかり書き写しはじめてしまった。
文庫で分厚いのが四巻ですよ。途中でぶん投げようかと思いましたけれど、一応最後までやりました。スティーブン・キングの小説を読んだことがある方はわかると思うんですが、あの方はいわゆる大衆的なホラー作家と言われていますけれど、その背景にはけっこうな文学的素養があるわけです。
一方でロック文化の背景がある。ロックの文化の背景と、文学的な背景が合体した結果、どんな文章が生まれているかというと、すべてが動詞的なんですね。常に何かが動いている。何かしている。何か能動的になっている。
だから逆に、いろんなものを具体的に描写していくことで、ものすごい閉塞感を生み出すことができる。どこにも逃げられない、動けない恐怖が、言葉のつらなりから喚起される。
たとえば、商品棚に並んでいるお菓子の名前を一個ずつ全部列挙していきながら、自分はそれを食べちゃいけない、食べちゃいけない、糖尿病を患っているんだから、なんて書き方をする。人がお菓子に誘惑される破滅への感覚が、まるでお菓子が少しずつ自分に近づいてきて取り囲むように。
ものすごく動的な表現だなあ、なんて感心したりしたもので、主語が動作をしないと、ダイナミズムに欠けた文章になってしまうことを学びました。
こうしたことを実感するために、筆写しましょう。
エッセイや詩でもいいです。新聞記事でもいい。新聞記事とエッセイを書き写すことで、両者の違いがわかると思います。
記事というのは情報を提供し、推測をなくそうとする、日本語が苦手とする文章です。その分、かちかちして、日本語ならではの表現がごっそり消えてしまう。
エッセイは試しに書いているものです。私の気分、私の体験が多い。日本語はこちらのほうがずっと得意です。
こういうのがわかってくると、今日は記事っぽく書こうとか、エッセイっぽく書いてみよう、といった工夫ができるようになってきます。
こうしたことを修得するにはもちろん時間がかかります。できれば一生をかけてやってほしいことでもありますので、これは特段締め切りを設けません。
締め切りを設けるのはこちらです。次回までに提出していただき、講評をします。
一人称を三人称にする。ご自分の弔辞を書く。
みなさんは死にました。
みなさんはもう、生きておらず、一切変化しません。そのことを意識し、ご自分の葬儀の弔辞を書く。
生前の○○様は、とても優しく、私たちをいつも楽しませ~みたいなやつですね。
なぜこれをするか?
単に、一人称と三人称わけて書いてみましょう、という課題を出しただけでは、どうせ一人称と三人称がごちゃまぜになった文章が返ってくるだけなんです。そうではなく、一人称の主体である自分を完全に客観視する文章を書いていただきたい。もう生きてないのですから、客観視せざるを得ない。
これをやっていただくことで、自分の中でこれは本来、一人称なんだけれども、いまは三人称として書いているぞ、という意識がどんなものかわかるようになるはずです。
日本語はこんなことでもしないと一人称と三人称が区別しにくいんですね。これをぜひやっていただきたい。
ちなみにですね、これはモチベーション維持にもつながる、なんて言われています。ご自分が最終的にどのような人間として他人から認められたいかということを自己分析できるからです。自分というものがそれ以上変化できなくなってしまった、それでおしまいになってしまった、完結してしまった。だからこれ以上何もできない。
その自己自身の最終形態において、他人からこんな言葉をかけられる自分でありたい、こんな言葉だけはかけられたくない、ということを意識すると、自分という人間はいまこのような段階なんだな、とか、こういう目標を心の底で実は抱いていたんだな、といったことがわかる。で、頑張ろうという気分になれる。そういうセッションにもなります。
講評しますので、ご自分の名前が皆さんの前でさらされてしまうのがいやな場合は偽名にしておいてください。重要なのは、何度も繰り返しますけれども、日本人の頭の中でとっても切り分けにくい一人称と三人称を明確に切り分ける。これが今回の課題で一番重要な点です。
それでは、ぜひ楽しみながら、頑張って下さい。
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