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冲方塾 創作講座7 質疑応答②

質問:本を写してきたんですが、いつ提出したらよいでしょうか?

回答:終わり間際、残り五分になったらこの授業を終えますので。花丸タイムを始めます。書かれた方は持ってきてください。

質問:弔辞ですが、その訓練が実際に発揮されるところでは私小説とか、いろいろな分野があると思うんですが、エッセイなんかもある意味一人称である自分の体験を文章化するということだと思うんですが、ジャンルとしてはどういうものがあげられるのかというのをちょっと確認したいです。いま自分が思っていたのは私小説とエッセイぐらいしか思いつかないところなんですけれど。
 
答え:ここでの理想は、なんでも書けるようになることです。で、特にこの一人称三人称というものの違いを身につけることが、そのスタートになると思います。エッセイでも、一人称的に私の視点を提供する場合もあれば、新聞記事のように自分の主観を排除して現実の出来事のみを書く場合もあります。日記を書くとき、自分の日記を客観視できるように書くこともできる。会社で報告書やプレゼンを書くとき、誰の意見なのか、世間一般でいわれているであろう常識と、ちゃんと区別して書けるようになる、という感じですかね。
重要なのは、切り離すということ。
書く主体である自分と、書かれた主語を切り離して考える。これが客観的に自分の文章を見るということです。自己批評の第一歩です。
自分の意見を文章に反映したけれども、それがはたして他の人の視点ではわかりやすいだろうか、伝わるだろうか、あるいはこれは自分の意見のように見えるけれども、他人の意見なんじゃないかとか。あるいは癖で書いてしまっているなとか。そういうことは、かなり頑張って切り離さないと見えてこないんですね。
 人間は自分が書いた文章と自分とを、たやすく一体化してしまいます。プロでもそうです。繰り返し、そのつどそのつど、自分を切り離さないといけません。
 ですので、今自分が書いたこの文章はエッセイ向きだなとか、これは一人称の小説で書いたほうがよく書けるなとか、そろそろ自分は三人称の小説に挑戦してみようかな、とか、論文をまとめるときに、こっちの視点を取り入れてみようかな、とかいった、「自分がこれから何を書くか」という選択肢を増やすためにも、まず遠ざかってみるということを覚えましょう。
 対象に没頭し、書く行為と一体化してしまうと、自分が何をやっているかという価値判断がひじょうにしづらい。
 他にもいろんなやり方があるはずだという選択肢を、常に増やして下さい。そのためにも、自分がしている作業から自分自身を切り離す、という作業を、繰り返しやって下さい。
 ずっと、人称が大事ですよ、主語が大事ですよっていうお話をしてきましたけれど、僕のほうでぜひ皆さんに持ち帰っていただきたいのは、そういうことです。
 一人称二人称三人称、自分、書いているもの、書かれている事柄。そういったものを可能な限り、正しく切り離し、客観視する。そうすることで、より正しく文章と向き合えるようになります。
 今は、発表されたものに対して、見も知らぬ他人が気軽に反応できる世の中です。
 昔だと、たとえば文庫の奥付にある住所に手紙を書かなければいけなかったわけですが、今ではその場でネットに投稿できる。投稿するほうもあまり考えずにそうする。
 そうした反応が錯綜したとき、書かれたものと、書いた自分を切り分けて客観視できないと、本来発表した文章の意図がどうであったのかもわからなくなりがちです。結果、まったく無駄な言い合いが生じたりする。
 そもそもなにを言わんとしていたのか誰もわからないうちに気分だけこじれるとかね。最近あちこちで起こるでしょう、そういうこと。
 そういったことを防ぐ、脈絡のない状態から自分を切り離す、というのは文章を学ぶ上で、大事なことです。むしろ言葉を使う上で、一番重要なことかもしれません。
 基本的に、誤解されやすいものなんです。言語というのは。みなさんが思うよりも、ずっと。ちょっと地域の習慣が違ったり、その人の気分次第で、すぐに誤解されてしまう。むしろ誤解が新たな解釈を生む場合もある。そういう言葉の力に振り回されず、正しく使えるよう、書き手の主体である自分を切り離す。重要なのは、これです。切り離す。
 一人称二人称三人称を全部切り離して考える。まったく別のものを一体化して文章にしてしまえる。けれども、ひとつひとつ見ていくと全部違う視点だったり全部違う目的だったりする。
 そういった細やかな見方ができると、おのずと文章というものを一つ上の視点から見ることができようになる。そのためにいろいろやっていきましょうということが狙いになりますね。
 補足で説明すると、たとえば売れる小説の書き方とかですね、人に感銘を与えられる論文の書き方とか、いろいろなノウハウが世にはありますけど、それを教えたところで、まあ、みなさん身につかないな、というのが僕の経験上の課題です。
 評価されたい、売れたい。これは書く主体である自分の話なんですね。また、書かれたものが売れる、評価される、どうこうされるというのは、ただのマーケットに過ぎないというか、そのときのニーズに過ぎないんです。株の売買と一緒です。つまるところ書かれたものが評価されたところでそれは今の世の中での話ですし、十年後はわからない。またどれほど書かれたものが評価されたところで、書いた人が評価されたわけではない。それが現実です。また別の話なんです。そしてこの評価というのは世間の変化によってどんどん変わります。
 ある言葉が正しく使われているかどうかというのでさえ、特定の権威者が決めるのではなく、無数の人間がいま日本語をもっとも新しく、どのように使っているかによって決められるわけです。
 そうやって日本語が変化していけば変化していくほど、売れるものも、評価されるものも変わる。もてはやされるものは、どんどん変わっていく。
 その変化を活用して稼ごう、といったノウハウは、ここでは教えません。なぜなら教えたところで、しばらくすれば世の中が変わって使い物にならなくなるからです。特に今の世の中の変化の速度からして、確実なことは何もありません。なのにそういうのを教えるのをノウハウ・ポルノといってですね、無限にみなさんから講座料をもらう手口でもあるわけです。
 一番大事なのは、どれほど社会が変わろうとも、絶対に変わらない言語の本質的な力をちゃんと捉えることです。
 ちなみに、五十年前は正しい作文だったものは、現代ではさして通用しません。そこにとらわれると、先に進めないというか、齟齬が起きてしまう。どんな齟齬が起きるかというと、新しいものが理解できなくなる。自分が使っている言語と周囲が使っている言語がずれると、それだけで理解は遮断されます。これも先ほどお話ししましたけれど、言語の違いというのは理解を妨げるんですね。
 隔世の感とか、世代間の話が合わないのも、使っている言語が変わっちゃったからです。お互い外国語をしゃべっているのと一緒になってしまう。そうではなく、昔自分が大事にしていた言葉遣いももちろん使えるし、いまの新しい言葉遣いも使えるし、という、この両方ができるようになるのが、日本語を学ぶ上で重要なんです。
 日本語というのは世界でもまれに見るほどすぐに変化してしまう言語です。社会の変化に敏感な言語ともいえます。時代ごとに新しい日本語が生まれるんです。
 ですので、とにかく本質的な言葉の力をしっかり実感していただきたいと思います。それが身につけばたいがいのものは書けるし、もっといえばみなさん一人一人が、これからの新しい日本語を作り出していける。
 言語というのは、誰かが作ったものをなんとなくみんなが、あ、それ素敵! と思いながら使うことで、成立していくわけです。
 我々は「おもしろいね」っていいますけれども、江戸時代では「おもくろい」と言っていたらしい。それを誰かが「おもしろい」って言ったら、そっちのほうがおもしろい! となった(笑)。
 そんな感じで、学ぶべきことを学びながら、新しい日本語の使い方を自分も発明できるんじゃないか、なんて気持ちを持って書かれると、これからの執筆も楽しくなるのではないでしょうか。


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