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冲方塾 創作講座15 講評⑤反論する

ではよろしくお願い致します。
六回目、今回のテーマは、和解する。論点を把握し、和解を定義する……だったんですけれど、みなさんの提出物を拝見してですね、ちょっとまだ和解は遠いなあ、という印象です。
 まず、反論とはなんであるか。命題に対し、NOということです。
 単純に「反対する」のではないことに注意して下さい。賛成か反対かではありません。
 真か偽かを判断できる文章を命題と言います。主語があって断定文がある。~である、~べきである、と。
 この命題に対し、逆の断定文を提示することが反論です。
 命題と同じ主語に対し、「主語」+「逆の断定文(~ではない、~べきではない)」になる。これが反論の定義です。
 そしてみなさん、本当に反論が苦手ですね。
 日本語が反論に向いていないということも大きいのですが。
 これまでの講義を思い返すとおわかりいただけると思いますが、主語を省く癖のある言語は、断定文の応酬がしづらいんですね。
 何が主語か、しっかり定義するところから始めないといけない。
 で、今回のみなさんの提出物ですが、全て反論になっていません。
 反論する理由、これを論点といいます。なぜ命題にNOというか。
 論点には種類があります。
 まず感情的な論点。許せないとか、腹が立つとか、悲しいとか。ようは感情、主観的な意見をもとにした論点です。
 次が論理的な論点。客観的で科学的な事実などです。いわゆる論点というと、これだけだと思われがちですけれど、そうとは限らないんですね。
 さらにあるのが、律法的な論点。過去の決めごとを盾にする。こうなっているんだから、こうだ、みたいな。最近「正論おじさん」というのをニュース記事で読んだんですけど、あんな感じです(笑)。
 律法というのは、キリスト教とユダヤ教の関係上、特に重要な言葉でして。まあキリストが反論したんですね。ユダヤ教はなんでもかんでも律法的に、過去の決めごとばかりじゃないかと。日曜日に医者が患者を診察したら逮捕されるのはおかしい、とかね。律法に反論したわけですが、逆に律法で反論することもできます。お前は全体の意志に従っていない、と。
 さて四つ目が、諧謔的な論点。ユーモアやジョークみたいなものですね。
 メタファーのお話をしたときにユーモアとかジョークについて言及しましたが、一方は律法が存在する前提で話し、他方はその律法を知らないという前提で話す。まあ、わざとやっているわけですね。
 過去の決めごとというものをぐるっと逆手にとるものがユーモアやジョークで、基本的に反論で成り立っています。命令文だけのジョークというのはあまり無いんです。ある物事の逆を見せる。
 ではこうした4つの論点を念頭に置きながらみなさんの提出物を講評させていただきたいたいと思います。

■1
 人間社会の営みは男女がペアになって子孫を設け、未来へ連綿と続いている。
だが子孫を設ける手段として、男女がペアである必要はないかもしれない。
現に最近の潮流として同性同士のペア、すなわち、男―男または女―女のペアで結婚し、家庭を作るケースが見られる。
それでは子孫が設けられず、人間社会が途絶えてしまうのではないか?
その心配はない。現代の科学では、そのような場合でも二人の子孫を設けることが可能になった。二人以外の遺伝子を混入されることなしに。
今後は通常の男女のペアが子孫を設ける時でさえも、科学的な器具と方法が一般的になる可能性もある。

 人間社会というものはこういうものだと。冒頭の一文が命題ですね。
 だが~と続くわけですが、はい、ここです。日本人はつい「かもしれない」と言ってしまう。この時点でもう反論ではありません。可能性を提示する書き方で、自分から態度をぼかす。そうすると命題自体もぼやけます。
 ここは「必要ない」と断言しましょう。さもないと、「現に~」という断定的ないいかたを頭に持ってきた文章の意味がありません。
 それでは子孫が設けられず、人間社会が途絶えてしまうのではないか? 命題を強化するための質問ですね。
 で、その心配はない、と。ここは、「なぜなら」という文章にするといいですね。
 命題があり、反論があり、その理由を述べ、結論に辿り着く。同性同士でも子孫を作ることができる根拠を示し、命題への反論を完成させる。
 しかし、またしても結論で「可能性もある」とぼかしてしまっている。
最初に言っていることとずれちゃっているわけです。これでは各論に過ぎず、結論ではない。
 日本人が反論しようとするとこうなる、という見本みたいな文章です。
 では次に参りましょう。

■2
A「角が生えていて目が二つある人型のロボットがガンダムです」
B「角がないのにガンダムと呼ばれているものを見たことがあるので、それは違うと思います」
A「では、目が二つある人型のロボットがガンダムです」
C「目がないのにガンダムと呼ばれているものを見たことがあります」
A「では、人型のロボットがガンダムです」
D「獣のように四足で動くものや、飛行機のような形のロボットがガンダムと呼ばれているのを見たことがあります」
A「では、ロボットがガンダムです」
E「ガンダムと呼ばれないロボットを見たことがあります」
A「では、あなたがたはどんなものがガンダムだと思うんですか」
BCDE「角が生えていて目が二つある人型のロボットがガンダムを名乗っていると違和感があるので、角が生えていて目が二つある人型のロボットがガンダムだと思います」

 さて、まずAさんが命題を示します。
 Bさんは、事実を述べているわけですね。
 それに対してAさんは早くも命題を変更します。角を外す。
 CさんDさんがまた別のこと言い出すや、Aさんは彼らに従って命題をどんどん変えていってしまう。
 挙げ句の果てに、Eさんで定義自体が変わってしまった。
 かと思うとAさんのほうから、お前たちが定義しろと命題を放棄する。
 まあ、日本人らしいですね。
 これがいわゆる、ぐだぐだというやつです。
 こういう会議を経験した方、多いんじゃないでしょうか。
 議論において重要なのは、最初の命題です。角が生えていて、目が二つある人型のロボットがガンダムである。
 なのに命題を変えてしまう。これは反論ではないことに注意して下さい。ただひたすら命題がぶれているだけで、反論も反論として成り立っていない。ただの意見の出し合いになって、最後は定義不可能な状態になる。
 実に日本人的な、反論とも議論とも、なんとも呼べない文章です。
 では次です。

■3
「人という字は支えあって出来ている」という。
左払いを右だけが支えているだけではないだろうか。楷書体で見ると、長い左払いを、右側がつっかえ棒のように支えているようにしか見えてこない「人」。これを文字の太さが均一な、視認性の高いゴシック体にすることで、均等に支え合っているように、辛うじてだが見た目を誤魔化すことができる「人」。
だがやはり対等な力同士で支え合ってはいない。払われた長い左払いの一画目を、短い方が懸命に支えている。よく見て欲しい。一画目の先のか細さを見ると、自力で立てるような姿であるとはとても思えない。言い訳の様に明朝体にしてみると「人」。さも細い右側を左がしっかり支えているように見えるが、一画目のか細さは変わっていないので、このバランスが保たれているのは一瞬のことだということがわかる。人というのものは支え合っては生きていない。ほんの僅かな時間、寄り添うだけなのだ。

 「~という」が命題ですね。命題なのに伝聞という、もう初っぱなから日本人感が溢れる文章です。
 で、ややこしいですけど、同じことを繰り返していますね。命題を強化するために繰り返しその定義を強調している。
 これも残念なことに、命題がずれてますので、最初の命題はなんだったっけ? となりそうですね。これも各論にまたがっているわけです。こういう可能性もある、ああいう可能性もある。なんとなくこう思う。
「人という字は支え合って出来ている」これが命題なわけです。これに対する反論をすみやかに述べるべきなのですが、よくわからない。
「だがやはり対等な力同士で支え合ってはいない。【なぜならとここで本来入れる】払われた長い左払いの一画目を、短い方が懸命に支えている。」
 対等かどうかはさておき、やはり支え合っているのですから、最初の定義に戻ってしまっているんですね。
 かぼそさ、変わっていない、バランスが保たれている、一瞬のこと……すべて主観です。何も定義されていない。一瞬というのもここでは主観的です。
 命題がずれてしまい、さらにその反論もずれてしまっている。結局これも可能性の提示に終始し、何も言っていない。
 では次。これは割と反論がなされています。

■4
玉ねぎを食べると、血液をサラサラにするので体に良いと言われる。血液をサラサラにする、とは血流を良くすることである。玉ねぎに含まれる成分である硫化アリルには血液の凝固作用を遅らせる働きがあり、血栓の生成を予防するので血流が良くなる。
しかし、必ずしも玉ねぎを食べることが体に良いとは限らない。なぜなら、玉ねぎに含まれる硫化アリルは、硫化アリルを分解する消化酵素の少ない人、硫化アリルに耐性を持っていても過剰に摂取した場合、アレルギー症状を起こす可能性があるからだ。

冒頭は命題としてひじょうにわかりやすい。
また、命題を強化するため、根拠となっている事柄を述べている。玉ねぎに含まれる成分である硫化アリルには~と。
しかし、で明確に反論が始まるわけですね。ちゃんと対になっています。
構造は正しい。しかしね。やはり可能性の話になってしまっている。~とは限らない、と。例外を提示しているだけで、やっぱり大多数の人間にとっては血液がサラサラになって体に良いんじゃない? となる。
各論はいくらでも出せます。玉ねぎが体にいい。これに対する反論は? 玉ねぎは体に悪い。これしかありません。
 そういう場合もあるんだ、という各論を、反論であるかのように見せている。
 文章の構成は、命題・反論になっているんですが、やはりこれも反論ではないんです。
 次に参りましょう。

■5
世間では「いじめをなくそう」とよく言われる。これは「いじめはなくせる」という前提に立つものである。しかし、人間は本当にいじめをなくすことができるのだろうか?
人間は集団を作って生きる動物である。家族、学校、会社、国家など。ある集団を作るということは、とりもなおさず、その集団に属さない者を排除するということである。いじめが「集団からの排除」であるとするならば、その本性は元来、人間に備わっているものである。
人間は他の動物と違い、他者への思いやりを持つことができる。だから、いじめを減らすことは可能かもしれない。しかし、集団を作って生きるというのが人間の本性である以上、いじめを根絶することは不可能ではないかと思う。

 ある種の命題ですね。しかし、人間は本当にいじめをなくすことができるのだろうか? と問いかける。
 疑問であって、反論ではありません。
 どこまでが命題で、どこからが反論なのか、曖昧になってしまっている。
 そのあと、やっといじめの定義が出てきますね。これはひじょうに断定的で根拠を明確に述べています。この根拠が正しいかはさておき、明確に述べること重要です。
 「人間は他の動物と違い、他者への思いやりを持つことができる。」
 これは反論と逆のことを言っている。命題の補強でしょうが、おかげで読み手はまだ議論が始まるのを待っている状態です。
 なのに最後はやはり「不可能ではないかと思う。」と、根拠がないまま気分で言ってしまっている。
 これは、いじめをなくしたいと思う人は正しい、という命題なのか、いじめはなくせる、という命題なのか、それともいじめはなくせない、という命題なのか、何もはっきりしない。だから反論も、ふわっとしている。
 はっきり言いますが、こういうのを議論と呼んでしまうことが間違いなんです。命題も反論も曖昧で、議論そのものが存在するようでしていません。いわばただの世間話です。
 では次です。

■6
「自由主義経済」とは、経済活動の形態の一種で、自由競争を原則とし、経済に関する行為を個人の意思決定にゆだねるものだ。これは、人々の暮らしを豊かにし、発展させるものである。
だが、必ずしも「自由主義経済」は、人々の暮らしを豊かにし、発展させるものではないかもしれない。
なぜなら、「自由主義経済」は競争を前提としており、そこには勝者だけでなく敗者も生まれるからだ。ゆえに、推し進めた先にあるのは経済の二極化である。いわゆる格差社会だ。
また、自由な経済活動の名のもと、アルコールやギャンブルに金銭をつぎ込み、借金を重ね、その生活を破綻させる者も出てくる。
自由主義経済下で、ひとたび敗者となれば、生活を立て直し勝者への階段を上るのは困難だ。敗者としての金銭的困窮、ストレスは、心身を蝕み、幸福な生活を奪う。よって、「自由主義経済」は、人々の暮らしを豊かにし、発展させるものとは言えない。

最初に定義がありますね。さらに命題がある。「人々の暮らしを豊かにし、発展させる」と。ここが命題ですよ。経済活動の形態の一種であるというくだりではない。
で、「かもしれない」と。
 この時点で反論ではありません。各論の提示です。
 反論は「自由主義経済は人々の暮らしを貧しくし、後退させる」です。その根拠を示さねば反論ではありません。しかし、「者も出てくる」となると、全体ではなくなってしまう。
 経済の二極化。格差社会。これらも、全体の貧しさと後退を意味しない。反論になっていません。
 たとえば、完全な自由主義なら、麻薬は自由に売れるし、人身売買も肯定される。独裁者が国民を虐殺する武器を買うことで、諸外国が儲かるならそれも正しい。環境破壊も、儲かる限り問題ではない。
 先日メルカリで問題になった、朝通勤するときに席を譲ってあげる権利をメルカリで売った人がいるらしいんですけど、苦情申し立てをしたのはJRですね。JRはその座席の価値を自分たちが定めて、その席を売っているわけですから、お前が勝手に売るなと言うわけです。でもいいじゃないか、この席を一瞬だけ売買が成り立つならいいじゃないか、っていうね。アメリカでは、オペラのチケットを買うために浮浪者に金を払って並ばせるのが問題になった。
 ただ、そうした各論による問題提起を通して、自由主義経済そのものへの反論をしなければいけない。
 「必ずしもそうとは言えない」は可能性であり、恣意的な意見です。
 次に参りましょう。


■7
レックスは全身が羽毛に覆われており、もふもふである。
現在、羽毛の生えたTレックスの化石は発見されていないが、同じティラノサウルス種であり獣脚類のディロングやユウティラヌスに羽毛の化石が確認された。この発見以降、多くの獣脚類には羽毛が生えている可能性が高いとされ、Tレックスもこれに属するとされたため、近年もふもふ説が有力となってきた。図鑑などで描かれるTレックスも程度の差はあれど、もふ味ある姿に変化している。
・だが、必ずしもTレックスはもふもふではなかったかもしれない。
・なぜなら、うろこのあるTレックスの外皮の化石が2017年に発見されたからである。
アメリカ・モンタナ州のカーターで発見された標本名ワイレックスという名の化石――その首・腰・尾の外皮の一部にうろこの化石が確認されたのだ。これはTレックスの外皮がうろこに覆われていた可能性を示す発見であり、もふもふ説の優勢を覆すにたる証拠となった。

 冒頭が命題。
 で、半ばで「かもしれない」とくる。これまで見てきたものと同じです。反論になるかもしれないけれど、ならないかもしれないと断っている。
 化石についての議論なので断定は難しい。そもそも反論することが課題なのに、なぜ断定しづらいものを命題に持って来るのか。つまるところ反論するということが、どういうことかわかっていない。
 なんというか、自分が反論されるんじゃないか、自分はここまで断定できないんじゃないか、自分にはそんな権利なんかないんじゃないか、という気持ちがちょっとでもあると、命題も反論も何もかもぶれる印象です。
 この議論で言えば、レックスはもふもふであるとされている。しかし外皮にうろこがある化石が発見された。もふもふではない。以上。これが反論です。命題と反論のアウフヘーベンはそのあとのことです。
 反論しようとして曖昧になる癖というのをみなさん自覚しながら次へ参りましょう。

■8
締め切りに追われる人間が口走る、「精神と時の部屋が欲しい」という言葉。しかし、果たしてあの部屋に入るだけで課題が達し成できるのだろうか?
精神と時の部屋とは、とある作品に登場する架空の異空間のことで、内部の時間の経過速度が現実世界の365倍という特徴を持つ。その代わり、その内部の環境は過酷を極める。
空気の濃度は平地の4分のⅠ、重力は地球の10倍。気温も摂氏50度からマイナス40度と乱高下する。エベレスト山頂で戦闘機内部以上のGを体に受けながら作業はできまい。気温差で電子機器がまともに動くかも怪しいものだ。
そもそもの問題は時間の多寡ではなく、スケジュール管理の失敗である。まずはそこから見直していくべきだろう。

ちなみに、例の夏の祭典までもう二ヶ月を切っている。各々方、スケジュール管理はできているだろうか?
自分は諦めた。

 最初に疑問を提示してしまっている。命題に対する疑義であって反論ではない。これだと命題が正しい可能性があり、議論が後退することになる。
 本来この命題は精神と時の部屋がほしい、ではなく、精神と時の部屋というものが存在していて、そこに入れば課題が達成できる、ということが命題ですね。「いや、達成できない」が反論です。
 そのあと詳細な解説がある。
 まあ、個人の生活の反省としては正しいんですけれど(教室・笑)。
 命題にも反論にもなっていないんですね。最終的にこの文章の命題はなにかというと、なにもない。精神と時の部屋とは、架空の異空間で、そこでは時間がゆっくりになる、そこに行きたくなる気持ちがある、行きたくなる気持ちがあるけれども、行ったところでまともなことはできない。じゃあ結局はスケジュール管理を見直そう。ほぼ独り言ですね(教室・笑)。
 曖昧な自問自答ではなく、もっと命題からはっきりさせましょう。
締め切りに追われたとき、はたして精神と時の部屋を求めるべきだろうか、が命題なら、いや、求めるべきではない、というのが反論。求めたところで意味が無い根拠を示し、それよりもスケジュール管理をしっかりしようと結論するとか。そういうふうに命題と反論をきちんと対にしないと、結局こうなってしまう。
次です。

■9
蛙の子は蛙である
これは必ずしも事実とは言えない。
まず、蛙の子はおたまじゃくしである。
蛙の幼生とも言われ、「四肢で陸を飛び跳ね、横に裂けた口でケロケロと鳴く」親とは姿や生態が全く異なる。
丸い本体に四肢はなく尾が生えていて水中のみをゆらゆらと移動し、口はおちょぼ口、肺の代わりにえらで呼吸しており声は出ない。
また、暗喩表現としても、以下の2点で事実と異なる。
まず第一に、前提として蛙を凡庸な生物とみなし、比喩として用いているが、これは誤りである。
蛙は2億年前から存在し、環境に合わせて進化し続けた結果6700種が現存している。生存戦略に特に秀でた生物と言うことができ、平凡なものの例えとしては不適切である。
第二に、暗喩が示している「凡庸な親からは凡庸な子しか生まれない」という命題についても、当てはまらないケースをいくつも挙げることができる。
例えば、史上最年少プロ棋士となった藤井聡太氏の両親は、将棋を指さない。
カズオイシグロ氏は英文学でノーベル賞を受賞したが、氏の父は、電子回路を使った高潮予測シミュレーターの開発をしていた海洋学者であり、両親ともに日本語を母国語としている。どちらも、親の代では観測されなかった、とある分野での非凡な能力を、子が有していた例である。
よって、必ずしも「蛙の子は蛙である」と言う事はできない。

真であるとは言えない、と。
命題を変えてしまっている。まあ、蛙の子は卵なんじゃないかと思いますけど(教室・笑)。それは置いておいて。
 「蛙の子は蛙」というフレーズへの反論として実際の生態を持ち出している。ある種の、諧謔ですね。諧謔的な論点を持ち出しており、書き手も意識してやっている。メタファーであることはわかっていると。メタファーそのものが誤っていると言いたい。
 で、命題に文句をつけていますね。反論ではなく。そんな命題はよくない、蛙じゃなくてもっとありんこみたいになものにしろよと。蛙じゃないならなんと言うべきなのかを提示しないと、命題が命題として成り立たなくなります。
 で、そのまま各論に入る。
 両親は将棋を指さないとか、父親は電子回路を使った高潮予測シミュレーターの開発をしていた海洋学者であるとか。
 ちなみに観測というのは数値を出すことですので、父親の天才度が5なのにカズオイシグロの天才度が10に変わったとかそういう意味になってしまいますよ。高潮予測シミュレーターの開発をするぐらいなんだから非凡な能力を持っていると思うんですが、ここでは、そうではないと言っている。親が持っていない能力を子が発揮した、有した、と。
 よって、必ずしも「蛙の子は蛙である」と言う事はできない。
 やはり、「必ずしも」という言葉が出てくる。この時点で、もう反論ではない。可能性の提示です。命題もぼやけてしまった。
 
 というわけで、一つとして、これぞ反論と呼べるものがありませんでした。
 なぜこうなるか、このあと詳しくお話ししたいと思います。

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