見出し画像

冲方塾 創作講座18 解決する

 解決は、四つの論点に収束していきます。前回、前々回でお話ししたことと同じです。
 感情的な論点、論理的な論点、律法的な論点、そして諧謔的な論点。

 感情的な論点は、許せない、腹が立つ、悲しい、など感情の解決が論点になります。
 論理的な論点は、客観的で科学的な事実による解決。
 律法的な論点は、過去の決めごとを活用した解決。
 諧謔的な論点は、過去の決めごと、律法を逆手に取ったユーモアやジョークによる解決が論点になる。

 これが概ね解決と言われているものですね。中には命題が分解して解決するという考え方もありますが、そういうことを言い始めると命題や反論のところでみなさんに課題を出していただいたときのように、命題がぐちゃぐちゃになっていってしまいます。そもそもなんの命題か、なんの反論なのかよくわからなくなってしまう。うやむやを解決の一つとすることは、ここではしません。
 もちろん、抽象的なアートとか宗教、哲学では命題そのものが消えてなくなって意味をなさなくなるものが解決であるという考え方もありますが、これらは解決というより、解消です。
 命題が消滅してしまう一番わかりやすい例が禅問答ですね。最初の質問が無意味であることを感じ取って納得する。命題は入り口に過ぎない。反論も入り口に過ぎない。解決した瞬間、反論も命題も消えてなくなってしまう。
 そんな高度で抽象的な論点というものも存在します。ただ、学習するものというより自分の才能を発揮していくものになりますので、そうではなく基礎的な論点と解決というものにこだわってお話したいと思います。
 では一個ずつ見て参りましょう。

 感情の解決例。人質交渉人の共感原則
「ゴジラ対ラドン効果」 …相手を説得するために大声で説明し続けることで、かえって問題が根深くなり、解決から遠のくこと。

「1980年代以降の人質交渉人の原則」 …共感を示し、友人のように振る舞うことで、論争を避ける。解決すべき問題と、解決しようとする自分を区別する。

そのための四原則
1寛容 相手の感情に合わせず、穏やかに話す。「話して下さい」
2傾聴 相手の言うことを聞く。「うんうん」「そうだね」
3理解 相手に理解を示す。「それは辛いね」
4質問 相手に考えさせる。「私にどうしてほしい?」

「ゴジラ対ラドン効果」って知ってます? アメリカの心理カウンセラーが作った言葉なんですが、相手を説得するために大声で説明し続けることで、かえって解決から遠のくことをいいます。ゴジラが叫べばラドンも叫ぶ、ゴジラが叫べばラドンも叫ぶ、2匹が争うことによって東京が壊滅すると。
 このゴジラ対ラドン効果に着眼した有名な解決例が、1980年代以降のアメリカの人質交渉人の原則です。もっぱらニューヨーク市警によって開発された交渉術だそうで、共感を示し、友人のように振る舞うことで、論争そのものを避ける。解決すべき問題と解決しようとする自分を区別する。
 論争を避けるということは、そこに解決すべき問題があるんですけれども、自分はそれに参加しないということです。解決すべき自分とその問題を区別する。なぜそんな考え方が必要になるかというと、犯人が感情的になればなるほど、まわりもどんどん感情的になってしまって、警官たちもどんどん感情的になるし、まわりにいる関係ない第三者も感情的になる。アメリカは銃社会ですから、みんなが銃を抜いて撃ち合った結果、ものすごく悲惨なことになってしまう。それが80年代以降、大問題になった。
 大都市化が進んで人口密度が高まったせいもあるんでしょう。事件を解決しようとするたび銃撃戦が起こって警官がバタバタ死んでいく。これはどうにかしなければいけない、と。警官になりたがるひともどんどん少なくなってしまう。じゃあどうすればいい、ということで生み出されたのが、人質交渉人の原則です。
 まず、寛容です。相手の感情に合わせず、穏やかに話す。
 つまり合わせないんです。
 寛容というと相手と同じ状態になると思いがちですが、そうではないんですね。相手がどれだけ激高しようとも、穏やかに話す。「もっと話して下さい」「私は聞いていますよ」と。
 次は傾聴。相手の言うことを聞く。「うんうん」「そうだね」。人質公証人は基本的に、うんそうだね、で相手の話を促す。
 で、理解。これは感情にタグを貼ると言われていますね。「それは辛いことだね」「それは怒るね」「それは我慢できないよね」と、相手の感情を理解した証拠として、その感情に名前をつけてあげる。
 最後に質問する。なぜ質問するかというと、解決を相手自身に考えさせるんですね。最後に「私にどうしてほしい?」「じゃあ私たちにどうしてほしい?」「あなたが何を手に入れたら、あなたのゴールデンサークルが完成するんですか?」と。相手自身にゴールデン・サークルを作らせることが、共感の原則と呼ばれているものです。
 これがいま現在もっともミニマムな論争を収束解決させる手段とされています。
 さらに詳細にご説明すると、1970年代までは犯罪は強盗やテロなど、目的がはっきりしたものばかりだったんですね。ゴールデンサークルでいうWHATが中心にあった。WHATを基準にして考えればよかった。
 それなのに1980年代になると、「むしゃくしゃして」とか、目的のない犯罪が急増した。つらい、陰鬱である。たとえば高校生が機関銃を持って学校に行って、乱射して友達を殺してしまったあと自殺をする。自殺をするんだったら、そもそもなんのために闘ったのか、従来のWHATからすると目的がなさすぎて解決のしようがないわけです。
 あるいはバスに乗っていたら、突然銃を抜いて、たまたま隣にいた女性を人質にとってしまったバスジャック事件とかあります。そもそもなんのためにバスジャックしたのかわからなかったので、当時は交渉のしようがなかったんですね。
 で、交渉の余地がないため、警察は武力で対抗してきたけれども、先ほど申し上げたようにバタバタ人が死んでしまって、無関係の人々まで死傷するなど、被害が激増した。
 ここで、命題が建てられました。「犯罪者を、被害を出さずに逮捕したい」。どうしたらそれができるか?
 「相手は激昂しているので武力で取り押さえるしかない」というのがそれまでのやりかたでした。
 新たな解決として出されたのが、「激昂した犯人を鎮めるため、共感してやることで、被害を最小限に抑えることができる」という考え方。
 これはありとあらゆる文芸作品においても成り立つことです。
 ネット上でのラドン対ゴジラ効果になってしまっている文章というのは世の中多々あると思うんですが、作品の中でそうした状況と解決を書くことはドラマを作る上で重要です。
 また、小説の登場人物が激高し、ものすごく苦しんだり、恨んでいたりする場合の解決もこれと同じです。その人自身にゴールデン・サークルを自覚させる。
 恋人同士の諍い、ビジネス上のトラブル、法律的な物事、隣人同士のもめごと、たまたま会ってしまった人物とぶつかったとか。そうしたシーンを小説で描写する際、大上段に振りかぶって説得する言葉を並べたところで、読者には解決されている感じがしなかったりする。
 ちなみにこれを利用したエンタテインメントが、お互いの見栄を張る行為ですね。
 歌舞伎でも、お互いに見栄を張って、私はこうである、私はこうである、片方が私はこうである、そうすると対抗してこうである、と盛り上がっていきます。相互にゴールデン・サークルを完成させていく。エンタテインメントとしては常套手段であるといえます。
 これをさらにエンタテインメントとして成り立たせていった例が、少年少女漫画ですね。少年漫画では、互いの主張をどんどん叫び合う。結果、互いに解決の筋道が見え、おまえもなかなかやるなと和解にいたる。
 実は相手の話をとにかく聞いてるんですね。聞いた上で、おまえはこうか!? と問いかける。最初、俺はこうだと言っていたのに、だんだんおまえはこうなんじゃないかと互いに感情をタグづけし始める。昔の、ドラゴンボールとか聖闘士星矢とか北斗の拳とか読み返すと、そういう文脈で成り立っていることがわかります。
 最終的に、お前は友だった、つええやつが好きだ! 俺の船に乗りなよ、などとなる。
 少女漫画などはもっとモノローグ的で、状況の変化に対して自問自答を繰り返すことで、ゴールデン・サークルが完成していく。もしくは、主人公と感情をタグづけし合う存在が現れる。
 人間の心の働きというのは原理的には誰もが似ています。結果的にこのような流れの中で人間の感情は沈静化し、理性が働き、お互いの共通了解が成り立っていく。
 ニューヨーク市警がしっかり言語化してくれた公証人の共感原則というのは、エンタテインメントにおいてはひじょうに有用なものでして、とにかくいろんな作り手がこれを活用して書いています。
 大ヒットした映画のアベンジャーズは、あれだけキャラクターがうじゃうじゃ出てくるため、一人一人明白に動機を語らせねばならない。その際、お互いの主張が少しずつ矛盾するようにわざと作っているんですね。世界を平和にするには悪人を殺さなきゃいけない、ちょっとまって悪人にも善人もいるんじゃないのかとか、いや悪人は善人にはならない、俺も一度は悪を犯したことがあるみたいなですね、そういった主張をお互いにぶつけていく。
 アイアンマンやキャプテンアメリカの台詞はこれをひじょうに意識していて、お互いにだんだん近寄っていく、歩み寄っていく書き方になっているわけです。
 そういった小説や脚本が成り立つには、登場人物全員分のゴールデンサークルを作らないといけない。
 もっというと、ある登場人物が心の変化を来したとき、その都度新しいゴールデンサークルをちゃんと見いだして書いていかなければいけない。倍々で増えていきますし、それについていけなくなると、何を書いていいかわからなくなる。
 また当然これは、みなさん自身との交渉と解決にも有用です。
 「私なにがしたいの?」「私こんなことがしたいの?」「俺はどうしたらこれができるんだろう?」みたいな話から、「その気持ちはよくわかった」となり、「じゃあ何をすればいいの?」と自分に聞いてあげる。
 これが個人のゴールデンサークルです。なんで小説書きたいの? という問いから、いろんな気持ちをくみ上げ、その気持ちはよくわかった。よくわかったから、じゃあどうすればいい、と。痩せていることは嫌だ! その気持ちはわかった。じゃあどうすればいいのか。
 感情のタグ付けがある種の反論になる場合もあれば、解決に通じる場合もある。感情をすっかり消すこと自体は解決ではなく解消であって、いずれまた同じ感情が現れるだけ、という場合が多い。
 ちなみに最近、これとまったく同じ解決をみまして。
 取材を受けたとき、ライターさんが建物の所有者に許可をとらず、カメラマンに撮影を指示してしまった。すると所有者さんが出てきて、これはうちのだ、ギャースってわめき始めたんですが、ライターさん、すごくなれていてですね。ごもっともです、はい、はい、っていうのを40分ぐらい続けたあげく、所有者さんから「今後ともよろしくお願いします」って名刺を渡されて帰ってくるっていうですね(教室・笑)。できる人ですよ。
 このように人間の感情的論点というのは、割と解決可能なんですね。
 解決の可能性があまりない場合、我慢させる代わりにお金を上げる、我慢させるために拘束する、とか、下手をすると別の感情的な論点が増えかねない。政治や外交、裁判などで、しばしば見られる状況ですね。
 感情的な論点は、その人自身に解決させるしかない。誰も、直接的に他人の心を解決できるわけではないからです。
 ただしこれからネットが発達したり、バイオテクノロジーが発達したり、AIが発達したりすると、そもそも全然違う解決法が新たに生まれるかもしれませんけれども。
 余談ですが、こういう実験もあります。
 通信相手はAIですと言われてチャットをするんですけれども、実はAIじゃなくて本物の人間。
 で、このAIどうでしたか? と聞く。そうすると、AIだと思っているから、何かひどいことを言われても感情的にならないんですね。なにこのAI、頭いいな、みたいに思う。
 逆に、向こう側にいる相手は人間です、といってAIにまったく同じ悪口などをチャットで伝えさせると、どうなるか。
 人間だと信じ込んでいるので、AI相手に激昂して悪口を返し始めるんです。
 感情を抱くに値する相手だと思わないと、人間というものはそもそも感情を発揮しない、ということを明らかにした実験です。相手がAIだと受け流せますが、相手が人間だと思うと、たちまち反応を始めるわけです。
 人間のふりをする道具というのはきわめて新しい発明品で、将来、人質交渉人やカウンセラーをAIが補佐することで、問題が解決しやすくなるかもしれませんね。まあ余談です。

 さて長くなりましたが、次。
 論理の解決例。科学的、数学的な法則に基づいた解決です。
 ある物事は、法則に基づいて絶対にこうなる、という事実による解決をみてみましょう。

「ある物事は必ずこうなる」という法則に基づいた事実による解決。
命題 「カジノで勝ち続けたい」
反論 「カジノのギャンブルはそもそも客が絶対に勝てないよう勝率を計算して行われているのだから、勝ち続けるのは不可能である」
解決 「ではカジノにルールを少しずつ変えるよう交渉し、自分が必ず勝つ勝率に変更させれば勝てる」
2011年アメリカのギャンブラー、ドン・ジョンソンが実行し、半年間で1500万ドル(約17億円)を得たが、以後、カジノ界で出入禁止になった。

 この命題、数学的には不可能なことなんです。
 反論でそれを指摘している。カジノのギャンブルはそもそも客が絶対に勝てないよう勝率を計算して行われているのだから、絶対勝ち続けられない。
 2011年、アメリカのドン・ギャンブラーのジョンソンさんという人がいた。競馬の確率計算をする会社を経営していた人なんですが、この人が数学的にカジノのルールを研究してですね、カジノにルールを少しずつ変えるよう交渉し、自分が必ず勝つ勝率に変更させれば勝てる、と考えた。
ブラックジャックで毎回俺は10万ドル賭けてやった。カジノは儲かるはずだ。そのかわり、負けが200万ドルになったら、そのうち15万ドルを返してくれないか、とか一見相手が得をするように見えながら、実は数学的にはそのほうが勝率が上がるという条件をカジノにどんどん容認させていったんです。
 結果、半年間で1500万ドル(約17億円)をせしめたんですが、以後カジノ界に出入禁止になった。ドンジョンソンのやり方をまねする人が増えたので、今のカジノはルールを変更しないのが鉄則になってます。
ここで重要なのは、論理的に不可能なことを、別の論理によって可能にするということ。数学的な確率計算。これが、この命題、反論、解決の全ての根底にあります。
 たとえば、野球が上手くなりたい、バットが上手くふれるようになりたいう場合、そのための多くの理論がある。
 とはいえ、みんな天才になって、勝負が成り立たなくなる、とはならないのは、また別の論理があるからです。年齢で衰えていくという要素だったり、たとえばアウェイの試合に行くと圧がかかってうまく動けないだったり、夏バテをする選手と、夏に強い選手で差が出たりとね。一つの理論で全て解決されるとは限らない。
 たとえば、投資で勝つ法則とか、文章が上手くなる講座とか、ノウハウ本というのは基本的に論理の解決例というものをみなさんに示しているわけです。
 ただし、論理というのは限定された状況において成り立つものです。どんな論理も、一定の状況が整ったときにしか成り立ちません。
ですので、論理というのは万能ではないという理解が必要です。
 ちなみにドン・ジョンソンが大儲けした2011年、アメリカは大不況のまっただ中で、カジノはとにかく収益が下がる一方だったんですね。そこへドン・ジョンソンさんがあたかもカジノが得をするかのような大口のかけ方を延々としたことによってカジノも利益になると判断してしまった。普段カジノは、儲かると客に思わせてお金を落とさせるわけですが、それを完全に逆転させたわけです。カジノのほうがこれは儲かると思ってうっかり手を出して大損した。
 その状況が成り立ったのも、大前提として大不況があり、カジノに対する締め付けが厳しくなり、お客さんも減り、大口のかけ方がカジノにとってありがたいことだったという状況があったわけです。その大前提に則って、カジノにルールをかえるように交渉すれば必ず勝てるという論理的な解決が成り立った。
 じゃあこれが10年だったら、20年だったら、2019年ならどうかというと、この理論は成り立たないわけですね。このドンジョンソンさんはものすごく有名になってテレビのコメンテーターもやっていますが、その手口を知っても、そのまま使うことはできません。
 これが論理の限界です。繰り返しますが、論理は万能ではない。そのときの状況を解決するけれども、必ずしもすべての状況を解決するわけではない。
 これを勘違いすると、論理的な解決は万事上手くいくはずだ、という主張により、ラドン対ゴジラ効果に陥ります。
 論理についての議論だったはずなのに、感情の問題に変貌してしまう。
 科学や医療の現場でしばしば見られることですね。もちろん小説などでも、このせめぎ合いは重要なドラマの一つです。

 では次。律法の解決例。風習や習慣を活用する。すでに存在する様々なルールを盾にして、問答無用で解決してしまう。
 たとえば、日本人の生活の根底には「WHEN」があるという話をしましたね。何月何日に何をする、何歳になったら何を買う、正月になったら神社に行く、大晦日は寺に行く。WHENを活用する。
 これを活用した解決の具体例がこちらです。

 ラジオ体操
命題 「運動は健康にいい」
反論 「毎日忙しいので運動をする気力も体力もない」
解決 「毎朝決まった時間にラジオ体操が始まる公園の隣に引っ越したことで、何も考えずに毎朝起きて体操をするようになった」

 会社の会議室とか、工事現場の安全な場所とかに集まって、「定時運動」を取り入れて習慣化している企業もあります。
 こうやって習慣化すると考える必要も悩む必要もないし、それにどんな意味があるのかとか、嬉しいとか悲しいともなんとも思わない。皿を洗うときに俺はなんで皿を洗うことに感動しないんだろう、とかそういうことはまったく思わない。律法化してしまう、習慣化してしまう。この特徴は問答無用であること。つまり大前提として議論は成り立っている、完成されている、議論の余地がない。だからそうするのが当然になるわけですね。
 日本人というのはこの力を発揮するのが上手なので、基本的にWHENがいっぱいで、いざというときにWHY、HOWの扱いに困るというデメリットがありますが、これも紛れもない問題の解決例です。風習や習慣を活用する。
 とある作家さんは、毎朝決まった時間に起きて、決まった時間ゲームをして、そして仕事をするというのを習慣化されていたとか。ちなみに宮部みゆき先生で、僕も頑張って真似しようとした時期がありました。
 あるいは毎日何時何分に犬を連れて散歩に行って、所定のベンチに座ってまず最初に心に思いついたことを書き込んで、できあがったら次のことに向かう、とか。
 毎日必ずそこで何かを思いつく、という習慣を作ったことで、アイデアを絞り出す苦痛を軽減させる。そうやって生まれたものの一つが、みなさんご存じピーター・パンですね。
 そんな感じで、律法によって自分の行動を解決することもできる。
 あるいは習慣化されることが、解決の象徴になったりもする。
 たとえば昔話。花咲かじいさんのおうちでは、毎年同じ時期になると太郞の花が咲くようになりました、ハッピーエンド。こういう書き方は、現代の小説でもしばしば見受けられます。
 もう一つ、このラジオ体操の話題が出たので余談を。
 ラジオ体操の制作はいまNHKがやっていて、毎週別のものを撮っているそうです。一つでいいじゃないかと思うんですが、常に新しいものを作り続けているんですね。
 で、そもそもの発案は旧郵政省、現総務省郵政グループだとか。なぜか。当時の郵便保険では、定年前に死ぬと高額の保険料を支払う保険が存在したそうです。大変加入者にやさしく、桁違いの保険だったらしい。
 そして高度経済成長期の不健全な生活でですね、定年前に死ぬ人が増加して、保険料の支払いがめちゃくちゃ増えてしまい、制度危機に陥りそうだった。
 これはいかん、このままでは郵政省の郵便保険は破綻してしまうということで、保険料の支払いを抑えるため国民を健康にせねばならない、という課題が生じたわけです。
 健康には適度な運動が必要である。だが、面倒くさいので誰もやらない。
 じゃあどうしたらいいか。ラジオ体操を開発してテレビで流して広め、全国規模で習慣化させることで、国民自身に健康を維持させ、ひいては保険料の支払い額を抑える。それがラジオ体操の成り立ちだそうです。
 これ、海外で日本大使館の方から聞いた話で、本当かどうかいまいちわからないんですが、ひじょうに筋の通ったおもしろい話です。
 命題がはっきりしている、反論もはっきりしている、そしてその解決も大変はっきりしている。そして効果もはっきりしている。
 ラジオ体操といえばみなさんメロディとリズムは頭の中に思い浮かぶぐらい、子供の頃から習慣化させられてきたと思います。そういう意味では大変素晴らしい解決策だと思います。
 
 もう一つ、律法の解決例をみましょう。
 ゴールデンウィークが、どうやって作られたかみなさんご存じですか? もともと映画業界の広告から始まったんです。

ゴールデンウィークはもともと映画業界が発明して広めたもの。
命題 「可能な限り多くの客に映画を見てほしい」
反論 「みな忙しいので映画を見る暇がない」
解決 「五月の連休を「ゴールデンウィーク」と名付け、問答無用で映画を見る習慣を作ろう」

以後、多くの企業がゴールデンウィーク中の「習慣(旅行・飲食・こどもの日の祝い事など)」を活用したことで、長期休暇が定着。

 五月に連休がある。この連休を勝手にゴールデンウィークと名付け、期間中に割引などの施策をしたことで、人々は「今年のゴールデンウィークの映画はなんだろう」と自動的に考えるようになった。
 毎回五月の連休ってずれるんですが、それを映画業界が今年のゴールデンウィークはここです、と毎年やっていくうちに、むしろ政府の方が気を遣うようになってゴールデンウィークを固定化するようになったそうです。
 その後、多くの企業がこのゴールデンウィーク商法にのっかったわけですね。旅行代理店、飲食店、こどもの日の祝い事やお寺、神社などが乗っかり、長期休暇が定着したんです。
 最近のゴールデンウィークはほとんど夏休み状態ですよね。12か13日でしたっけ。
 ちなみに作家はゴールデンウィーク中に印刷所が停止してしまうので、ゴールデンウィーク前は一週間か二週間締め切りが早くなります。こんな制度は崩壊してしまえとずっと思っているんですが、なかなかそうもいかない。習慣の力というのは恐ろしい。
 ちなみにゴールデンウィーク休めたことはほとんどないですね。たいがい仕事させられているので、そういう意味でも早くなくなればいいのに(教室・笑)。
 というのは冗談ですが。
 さて、ここでは何が解決されたでしょう。「忙しいお客さん」がいろんな商品を手に取る期間ができたことですね。忙しさを忘れさせる時期を成立させた。これが解決になった。
 これに味をしめて今度はシルバーウィークというのを作ろうとしたんですが、9月は本当にみんな忙しいのか、あまり定着していないですね。みなさんもシルバーウィークという言葉を聞いたことがあると思うんですが、どんなに工夫してもゴールデンウィークなみの習慣化は難しいそうです。
 あとシルバーっていう言葉のせいで老人をいたわるものなんじゃないかと。日本人はそのへんが天邪鬼なので、シルバーウィークって言われると、私はまだ老人じゃない! だから行かない! みたいなね(笑)。そういう反論をされてしまうという話も聞きました。
 さておき、これらが、律法的解決、習慣化の解決です。

 最後です。諧謔による解決。

 道化師と王国の土。
 ある王に気に入られていた道化がいました。道化は、あるとき冗談が過ぎて王の逆鱗に触れてしまい、「二度と王国の土を踏むな」と言われ、追放されてしまった。道化には養わねばならない家族がいたので、どうしてもまた王のもとに戻らねばならない。
命題 「王のもとでまた道化として稼がねばならない」
反論 「だが王国の土を踏めば、処刑されてしまう」
解決 「靴の中に隣の国の土を詰め込んで王の前に戻ってきたことで、王がその諧謔を喜び、再び王に仕えることが許された」

ヨーロッパの小話の一つで、ユーモア、ジョークにおける解決です。
「二度と王国の土を踏むな」というのは本来、暗喩なわけです。二度と戻ってくるな、というのを別の言い方に置き換えたにすぎない。なのにそれをそのまま明喩として受け取って、「じゃあ土さえ踏まなきゃいいじゃないか」と、返した。隣の国の土を自分のブーツの中に入れて「戻ってきました王様!土は踏んでません!」と主張した。 
 王様はそのユーモアをおもしろがって喜んで、お前はやっぱりいい道化だと許してあげたとか。
 ギャグ漫画であったり、ギャグドラマであったり、日常会話であったり、ちょっとギスっとしたときに軽い冗談を言って和ませたりするときの解決方法です。これ、命題もあって、反論もはっきりしていて、最後にメタファーを最大活用するんですね。
 これを現実に応用した例があります。
 みなさん、映画の『運命を分けたザイル』(原作『死のクレバス』)って知っていますか? 実話を元にした映画です。ジョー・シンプソンという登山家が、ザイルパートナーのサイモンとともに下山している最中に、ジョーのほうが落下してしまう。
 奇跡的に助かったものの、気を失って動かないジョーをひっぱりあげられないサイモンは、このままでは自分も一緒に落ちてしまうと思って、ザイルを切っちゃうんですね。それによってジョーは冬の険しい山脈の中で孤立してしまうんです。
 ザイルパートナーという言葉が世界的に有名になった作品でもあります。ザイルをナイフで切るというドラマチックな出来事が人気を博して映画にもなったんですが、なんとこのジョー、生きて帰ってきたんです。

 映画『運命を分けたザイル』(原作『死のクレバス』)に登場するジョー・シンプソンは、ザイルパートナーのサイモンとともに下山している最中に、落下してしまう。奇跡的に助かったものの、ジョーが死んだと思ったサイモンは、ザイルを切ってしまう。
命題 「生きて帰りたい」
反論 「足が片方折れた状態で、クレバスから脱出し、数日かけて十キロ離れたベースキャンプまで戻るのは普通は無理だ」
解決 「オーケイ、これはゲームだ。楽しもう」
ジョーは二十分ごとに目標を定めて足を引きずって歩き、成功すると次のゲームを考え、四日間かけて生還した。


 命題、生きて帰りたい。足が片方折れている。クレバスから脱出しなければならず、そのあとも十キロ以上歩かねばならない。食料もない、荷物もふっとんでしまった、落ちたせいで体中が痛い。
 という反論に対して、ジョーは「これはゲームだ。楽しもう」と自分に言い聞かせたそうです。目標を定めて足を引きずって歩く。あの目標まで二十分で辿り着いたらワンポイント、ゲット! みたいな感じで、現実をゲームに置き換えた。
 そしてなんと四日間かけて、死んで当然の状況から生還した。
 ご興味がある方は死のクレバスとか、ジョー・シンプソンで検索すると、この人の一段かけ離れた気違いぶりが読めると思います(教室・笑)。
 まず、彼は現実というものを全部受け入れておきながら、その現実の受け取り方を変えたんです。これが超楽しい出来事だという風に置き換えたわけです。全くつらくない。これが諧謔的な態度のあり方です。そして彼は食料もなく、水は氷を口に含んでなんとかし、生還した。パートナーとも再会し、脚も治癒し、さっそく体が治ったら山に登りにいったらしいんですね。世の中にはこういう人がいる。
 これを参考にしてアメリカ海兵隊では、極限状況下になったときこそ「楽しめ」と教えているそうです。
 あともう一つが、「まぁたまにはこんなこともあるさ」と思えと。
 アフリカのある地域でアメリカ大使館が武装した集団に包囲されてしまって、援軍もなく、四人ぐらいの海兵隊員で二週間ぐらいかけて大使館員を守って奮闘したそうなんですが、その人たちは毎日「まぁたまにはこんなこともあるさ」といいながら死力を尽くして闘っていたらしいです。
 ですので、そういう諧謔的な解決というのも、実はとてつもない効果を発揮する。
 現実を拒否するのではなく、真っ向から受け入れ、命題と反論をはっきりさせたうえで、ひっくり返す。あるいは、ずらす。
 これはエンタテインメントでよくやる手法ですね。ミステリーとか、その手があったのか、と。意外なミスリードをみせる、あるいは素っ頓狂なことを言って解決してしまうキャラクターを出すとか、いろんな解決法があると思います。

 以上、四つの論点における解決をみて参りました。
 さて、今回の課題です。
 みなさんが発案するのではなく、こうした「命題」「反論」「解決」の現実における具体例を探してきてください。
 もちろんみなさんが創作してくれてもいいんですが、学ぶに如くはなしという孔子の言葉がありますように、自分でいろいろ考えるより、いったんいろんな解決の歴史を学びましょう。世界の驚くべき解決のありようが見えてくると思います。
 それを、今回の講義の具体例でご覧になったように、命題・反論・解決と三段階に分けて書いてみましょう。
友達の話でも良いですし、ビジネスの話題でも良いですし、国家規模の何かでもいいです。人類はいろんな問題に直面し、いろんな解決を実現してきたわけです。その解決の歴史を学び、自分の創作に生かせるようにしましょう。
 ポイントは命題を明確にする。何度も言ってきましたが、命題がぶれてはいけません。
 そして、命題を阻む反論と、反論を覆す解決を、端的に書けるようになりましょう。
 どうしたら文章を短くできますかという質問がありましたね。なるべく同じ言葉を繰り返さずに、端的に書いてみましょう。

 どんな解決をみなさんが発見するか、楽しみにしています。
 以上で、本日の講義を終わります。お疲れ様でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?