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冲方塾 創作講座13 講評④ある言葉をその言葉を使わず説明する

 みなさま本日もよろしくお願いします。さっそく第5回を始めます。
 
 先にテーマを申し上げると、今回は対話をする。対話をするためにはどうしたらいいかという、その準備をしたいと思います。
 さて前回の課題は定義をすることでした。ある言葉を、その言葉を使わずに説明してみる。
 課題を通して、ものごとを定義する力を身につける。
 定義する力とは、それがなんであり、どういう意味や価値があるかということを定め、かつ他人に説明し、納得を促す力です。
 なぜそれを身につけなければならないか。まず第一に、正しく質問し、正しい答えを出すためには、正しく定義する必要があるからです。
 何の話か正しく定義されないと、すれ違いの質疑応答になってしまう。当然、知識の伝達も、議論も、共通了解を培うこともできない。
 またそれより重要なのは、定義をしなければ人間にとって存在しないに等しいということ。価値が曖昧で、名付けられてもいないものを、人間は認識できません。第一回でお話ししたゴリラが見えない状態です。
 認識できなければ、存在しないし、実現もしない、解決もしない。
 定義をする力が、認識する力を与えてくれる。
 そして、世の中は定義されていないものごとのほうが圧倒的に多い。ここに文筆家の存在意義もある。見えざるものを定義し、万人が見ることの出来るものにする。言葉をなりわいとする者の、最大の使命といえるでしょう。
 さらに、無数の定義が寄り集まることによって、社会が成り立つ。
 定義が変化することは、人格や社会すら変えてしまう。
 去年は明治維新戊辰戦争150年記念でしたけれども、明治モノの物語の人気が今も高いのは、価値観が激変し、日本人とはなんであるかが深く問われた時代だからでしょう。
 そんなことを念頭に置いて頂きつつ、さっそく講評にまいります。

■1
 吾輩は一体なんであるのか。
 とんと自分の名前というものが思い出せない。
 何せ物覚えが悪いのである。
 頭が小さいから詰まっている脳味噌も小さいのだとよく言われる。
 余計なお世話である。
 はて、名前を思い出しているのであった。
 少し立ち止まって思い出そう。
 自分の体をまじまじと見つめる。
 歩みを止めた足はささくれだった二本足。
 その指先は四つ又に分かれた爪。一本は後方に三本は前方に向けて分かれている。
 足から上の体の部分は白い体毛に覆われているが、同胞には茶色や黒などの毛色をした種もいる。手は毛で覆われた羽になっているが、これは飛ぶためには使っていない。羽がついているにも関わらず歩いて行動することから、庭を歩く鳥と呼ばれる。
 嗚呼、そうだ思い出した。吾輩の名前は「鶏」だ。

 さぁ、名前を思い出したところで歩みを再び始めよう。
 一歩、二歩、三歩……
 ふむ……?

 突然一人称の疑問が始まりますね。大変わかりやすい。今回の課題の定義をよくわかっていらっしゃいます。しかも小説形式にしているので、さらに読みやすい。
 ある個体についての説明と、その他の全体についての説明がある。
 これは今日の講義の後半で詳しくやります。
 最後には冒頭の伏線を回収していますね。歩くうちにもう忘れている。
 自分を思い出せないという引きを作り、鳥というか、いわゆる我々の知るニワトリとは何かを定義している。
 外見上の定義、飛べないから庭を歩く、だから鶏と呼ばれていると。語源の説明もしている。
 外見の説明、庭を歩く鳥という社会的な説明、環境における説明。これら3つの説明をもって、鶏を定義しており、とても達者です。
 
■2
 それは滑稽な格好、行動、言動などをして他人を楽しませる存在である。
 現在ではサーカスなどで実物を目にすることができるが、ハンバーガー屋のキャラクターやトランプで目にすることの方が多いであろう。
 古来では王の持ち物として奇形や知恵遅れ、田舎者などがその役を担い、笑いを取る見世物であるという稀有な立ち居位置から、唯一至上の王への無礼が許される存在でもあった。
 また、涙を隠して笑いーー嘲笑を甘んじて受けとる健気な存在としても愛され、王に無礼を許される特殊性がトランプではジョーカーという無限の切り札として扱われている。

 さて、「多いであろう」とちゃんと推測していますね。講義の後半でやりますが、推測における命題を提示しております。
 「無限」というのは「無敵」ですかね。数限りないということになるので、ジョーカーという存在が無限に存在することになってしまう。結局ジョーカーって言っちゃっていますけどね。ようは道化師について語っている。
 具体的な描写ではなく、一般的にこうである、という定義の仕方をしています。トランプではジョーカーという切り札として扱われる、という点だけ具体的に書かれていますね。
 抽象的な定義をしていますが、結果としてわかりやすい。
 たとえばハンバーガー屋やトランプで目にすることができる、と。
 この日本においてハンバーガー屋で見られるものとトランプで見られることの共通項はあれしかないだろう、みたいな、万人が知っているものごとで輪郭を作っている。これは先ほどの鶏の羽の色、指の形とは逆の定義の仕方をしています。

■3
それは、故意に人を死に至らせる行為である。手段は拳銃・刃物・爆発物による身体損傷や失血、毒物・毒ガスによる呼吸不全や臓器不全等がある。現在、法律上全ての国で禁止されており、それを行った場合厳しい罰則が科せられる。ただし日本では正当防衛や緊急避難が成立する場合、加害者の故意が認められない場合は該当しない。中絶・虐待・安楽死・死刑・戦争等で死ぬ場合は、該当するか否か様々な国で永年議論されている。文化・宗教上、正当と考える人もいる。ある条件の下、決闘・仇討ち・口減らし等の理由で行う場合、容認された時代もあった。
動機としては強盗・怨恨・口封じ・社会に対する訴え・注目を浴びたい欲望・快楽の為等がある。その行為の被害関係者は、心的社会的に深い傷を負う。加害関係者は制裁を逃れる為、行為を隠蔽する事がある。
他の単語と繋げ、威力や程度が凄まじい様子を表す比喩としても用いられる。
それは「殺人」である。


「人を死にいたらしめる」かな。
これは先ほどの抽象的な説明と違い、全部具体的ですね。
法律、歴史、社会的な定義と歴史的な定義をちゃんと順番に書いている。これらがごっちゃになると何言っているかよくわからない文章になりがちなんですが、これはひじょうに上手く分けていると思います。
「行為を隠蔽する事がある。」というのは、必ずしも制裁を逃れるためとはかぎらないので、こういう書き方をしている。
一方で、この被害者は心的社会的に深い傷を負う、と。必ずしもそうでない場合もあるでしょうが、一般的に負うのとされている。なぜなら心的・社会的に深い傷を負わせるから、前段の容認され得ないということが定義される。なので、ここは「負う」と断言している。
さきほど見た鶏や道化師とか、具体的な対象、つまりオブジェクトではなく、人の行動の結果の一種を定義しているわけですね。
他者の命を奪うというその行為をいかに定義するか。形のないもの、行為の特徴を定義する。
行為自体はただの行為なわけです。その行為自体を具体的に拳銃とか刃物とか薬物でも素手でもできるよ、と具体的に言っているだけでは、その行為にどういう意味があるかわからない。社会的にどういう意味があるか、歴史的にどういう意味合いがもたれてきたか、そして今現在どうであるかということを書いている。社会的な説明というのが横軸で、その行為が存在する状況を説明している。歴史的な状況が縦軸になっています。
 人間の行為というものを定義する際には、たいてい、この二つが必要です。社会的な価値と歴史的な価値です。ひじょうによく書けています。
 

■4
「被告は、本来の使用目的を甚だしく逸脱し、その使用者に多大なる不利益を与えたことにより、ここに告発されるものである。
 被告の製品としての本来の目的は、家庭内において、主に食品調理のための熱源となることである。
 その本体上部に鍋、フライパン、ヤカン等を乗せ、それらの内部にある食品、水等を加熱し、使用者に温かく消化の良い食べ物やお湯等を提供することを目的として作成されたものである。そのために、中央部には食品を直火で加熱するためのグリルも備えられている。
 その製品特性を鑑みて、火事防止のため、本体は丈夫なステンレス、鉄、耐熱ガラスなどの部品から構成されている。さらに、火の消し忘れや過熱を知らせるスピーカー機能も
付いている。
 しかし、被告はこのスピーカー機能を悪用し、使用者の秘密を暴露し、家庭内の人間関係を炎上させるという悪行に及び、使用者を一家離散せしめた。
 よって、○○家家電組合は、ガスコンロを有罪とす!」


 これはまたちょっと形が変わって、結論を読まれるとあの方か、とわかると思います(笑)。
 しかしコレは上手いですね。食品調理のために用いられるのではなく、食品調理をするための熱源となることを目的としている。ここでもう定義としてだいぶ定まっているわけですね。
 「その本体上部に~」
 ここはちょっと長いので、一回文章を割ったほうが良かったかな。あと「作成」ではなく、正しくは製造とか生産かな。
 具体的な形状、用途、目的が描かれていますね。
「さらに、火の消し忘れや過熱を知らせるスピーカー機能も付いている。」
 終盤の伏線のために妙な機能が付きましたね(笑)。
 前回の課題のガスコンロさんが裁かれちゃった。奥さんとだんなさんのその後もわかる。こちらがまったくオーダーしていない期待に応えてくれる文章で、大変サービス精神が旺盛。感心します(笑)。
 家電組合が判決を出すんですね。おもしろい。最終的にそれがなんであるか、本来の使用目的とはなはだしく逸脱し、と、ある。
 定義の仕方には2パターンあって、あるものはあるものである、という定義の仕方と、あるものはあるものではない、という消去法的な定義の仕方があります。これが使い分けられるようになると、定義というものが上手になります。
 ガスコンロはヒーターではないし、たき火でもないし、暖炉でもない。
 消去法的に輪郭を作り上げていますね。
 一方でガスコンロさんがやるべきことをはこれであるんだけれど、してはいけないことがここであると。よってガスコンロ有罪とす、と。ガスコンロ、お前はもはやガスコンロではない、という断定がくだされる。
 ここまでやってくれると読み応えがありますね。
 だからといってガスコンロシリーズを続けろという強制ではありませんよ(笑)。ご自由に書いてくださいね。

■5
削ることが、それを使用するための第一歩だ。
六角形や円、合格祈願の五角形など、様々な断面をした細い棒。その先端をナイフや専用の器具で削ると、木材で覆われていた黒鉛が露出する。その部分を紙に滑らせれば、接触箇所が粒子となって紙の表面に付着し、その軌跡が黒い線として残るだろう。
もし書き間違えても、パン屑や字消しを用いれば線を消すことができる。これは黒鉛が紙に染み込まないせいで、表面から剥がし取ることが可能なためだ。
黒鉛は粘土との混合物で、粘土の含有率が高いほど色が薄く、黒鉛部分が固くなる。また、黒鉛部分を別の色の顔料に置き換えたものも存在し、絵を描くときなどに用いられる。
これを、鉛筆と呼ぶ。

さきほどの定義は「~は~である」というような定義の仕方だったんですが、これは行動、行為が最初の定義の始まりになっていますね。削る。
で、形状が出てきます。
「黒い線として残るだろう」ここ、なぜ推測にしたんでしょう? 残らない物もたまにあるだろうから、そう書いたのかもしれませんが、ここは明白に、接触の摩擦で粒子となって紙の表面に付着するので、それが黒い線として残る、と断言しないと、定義にはならないですね。さもなければ残らないものの定義も同時にしなければいけないので、ここはわざわざ推測にする必要はないかな。
「もし書き間違えても、パン屑や字消しを用いれば線を消すことができる。」
 ここでは断言してますね。
「これは黒鉛が紙に染み込まないせいで、表面から剥がし取ることが可能なためだ。」
 現象の因果関係を説明しています。なぜそうであるかを説明している。
 で、鉛筆の定義をする際に、まず芯を露出させなければいけないというところに気が行ったんでしょうね。削らなければいけない。
 なぜ削らなければいけないかをもうちょっと書かないといけませんね。黒鉛が露出しないかぎり、接触して、手が汚れない。つまり黒鉛の説明はしているんですが、その黒鉛の周辺に「なぜ木がついているか」説明していない。手が汚れないようにとか、黒鉛がポキッと折れないようにとか、鉛筆というものを全体的に説明するときに、本来そのすべてのパーツを説明しなければいけないんですが、黒鉛や顔料の説明に終始している。
 これは鉛筆の芯の定義かな。鉛筆そのものではないのが惜しいですね。

■6
それは、盤上の頭脳戦。
9×9マスの盤面に並んだ、敵味方合わせ全8種40枚の駒を交互に動かしながら、相手の王を追い詰め合う1対1のボードゲーム。
類似のボードゲームであるチェスとの共通点は、駒のそれぞれに異なった動きが設定されていること。そして、条件を満たすことで駒の動きが変化しうること。反対に、チェスとの相違点は、取った相手の駒を自分の駒として使えること。
子供から大人まで、ルールさえ知っていれば、誰もが平等に楽しめる知恵比べ。王を囲う守りの陣形や、攻め駒の配列に至るまで多種多様な戦法があり、奥が深い。
勝つためには、常に相手の思考の一歩先を読む必要があり、考え抜く力が養われる。
それをする時、対局する2人の間には、言葉を介しない濃密なコミュニケーションが生まれる。勝ちたい!という思いで盤を挟んで向き合えば、たとえ言葉は発しなくても、指された一手一手にお互いの心が如実に現れるからだ。
それは、将棋。

わかりやすく、一般的なものを題材にしていますね。
「類似のボードゲームであるチェスとの共通点は、」
チェスかな、将棋かなと思っているところに、チェスではないと示される。
「奥深い」とかは、価値付けですね。
 この説明の特徴は、まずチェスというものを出している点です。みんなチェスについては知っている前提で書いている。将棋というものを説明するため、それとよく似たものを出して、違いを説明する。
 かわりにチェスについてはほとんど説明していないんですね。みんなチェスは知っているでしょう。だから将棋というものをチェスを「たとえ」にして書いている。
 これは、ある物事を定義するときに、よくやることでもあります。たとえを引いて、比較することで、定義するやり方です。
 ただ、チェスというあらかじめ定義された存在にあまり依存せず、将棋というものを浮かび上がらせることができると、より定義する力が増します。
 これ、もし相手がチェスを知らなかった場合、さらにチェスについても説明しなければならない。そうなるとチェスと将棋の共通点、違う点、なぜそれがチェスと呼ばれるのか、将棋と呼ばれるのかと説明しなければいけないものが二つに増えるんです。
 日本人にクリケットを説明するときに、野球みたいなもんだよ、地面をボールが転がるからゲートボールのようなものでもあるよ、戦術的にサッカー的な面白さがあるよ、というようなものですね。それらのスポーツを全て知らない人には、なんだかわからなくなる。
 病院のインフォームドコンセントなんて言葉が流行りましたが、同様の理由による問題です。お医者さんが医療用語をどんどん並べるせいで、わけがわからなくなる。
 君の血栓は狭窄のなんたらによくにていてね。このアレルギー反応はなんとか型とよくにているんだけれども、なんとか型のやつだと思えばいいと思うよ、みたいな。
 何を言っているのかさっぱりわからなくなる。
 すでにある定義をなるべく借りてこない工夫ができると、定義をする力が本当に身につくようになります。
 もちろん、最も効果的な説明の仕方は、誰でもわかる具体的例をどんどん出していくことです。
 しかし、今ここではもっと直接的、抽象的に、定義する力を身につけていただきたいので、あえてこう言っています。
 なるべく抽象的な言葉で、相手に伝わる説明の仕方を学びましょう。

■7
2名以上の集団で勝敗や順番を決める際に行われる簡易な遊戯。
掛け声とともに手で3種類のかたちのいずれかを表す。
3種類はそれぞれ一つの種類に勝ち、一つの種類に負ける、3すくみの構造となっている。
発祥は江戸時代末期の日本と言われており、そこから世界中へ広がった。
海外で近い機能を持つものとしては、コイントスがある。
この遊戯を起点として、さらに手や体や掛け声を使って勝敗を決めるゲームも多く生まれ、道具を使わないで楽しめる遊びとして広く親しまれている。
身近でシンプルな事象であることから、確率や統計などの学問を学ぶ際に例題としてよく使われる。
TV番組やWebサイトなど、動的なエンターテイメントにおいて、不特定多数に向けた運試しや抽選方法としても多用され、人気が高い。
それは、じゃんけんである。

 これは先ほどのチェスと将棋を比較した定義とは対照的に、抽象的な説明をひとつひとつ積み重ねていって、だんだんなんとなくわかるような説明の仕方をしています。
 ただ一カ所、海外で近い機能を持つものがコイントスがある。
 「コイントスってなんだろう」と思われる方もいるかもしれません。コインをフリップして表か裏かでお互いに勝敗が決まる。ただし三すくみであるという。ここが、先ほどの将棋を定義した文章と同じですね。このたとえを出したせいで、コイントスがわからない人にはわからなくなってしまう。
 具体的にどうなったら勝ち、どうなったら負けるのかを説明しつつ、歴史的な説明を少し挟み、他の例も入れ、とこのへんはぜんぶ後ろにもってきたほうがわかりやすかったかな。
 歴史的な説明というのは縦軸になるので、過去・現在・未来において水平に存在したすべてを網羅しなければいけなくなる。情報量がすごく増えてしまう。
 たとえば江戸時代末期と言われている、そこから世界中に広がったと言いますけれども、世界中ってどこ? とかですね、江戸時代末期から明治、大正はどうだったの、現代はどうなの、とかいろんな説明をしなければいけなくなるので、歴史的な説明は最後にどーんと持ってきたほうが、これは親切かな。
 動的なエンタテインメントと言われていますけれども、これは動画のことですかね。テレビ番組やウェブサイトなど、とありますので。決着がついていることが視聴者にわかるエンタテインメントということなんでしょうけれど、ここも他の定義がわからないと、元々の定義がつかみにくくなってしまう。もう少しわかりやすく説明したほうがよかったと思います。

閑話休題。
今のじゃんけんの方ですが、質問がありましたのでお答えしますね。
「前回、例として出されたハリーポッターみたいな文章は苦手です。一方で、苦手な文章も、積極的に学んでいかなくては時代に取り残されてしまうのかなと不安です。好きだからと言って古い本ばかり読んでいるのは表現を勉強するという視点からはよくないのでしょうか? 
今売れている本には何か学べる点があるとして、我慢して目を通すこともあるのですが、これが売れる時代なのかと暗い気持ちになってしまうことがあります。」

よくない、ということはありませんね。クラシック音楽とか古典芸能とか、お笑い、講談、漫才、噺家さんたちなど、古来の芸能を選ぶ人もいます。
噺家さんたちは江戸時代の文章を頑張って読んでいますからね。
で、その古来のリズムを現代にどう翻訳して伝えたらいいか、という点で表現を新しくしているわけです。だから学んだ表現が古かろうが新しかろうが、自分自身の表現の仕方が古ければ古いと見なされるし、新しければ新しいと見なされる。本人の書き方次第です。
 一方でそうして書かれたものが、その時点で商品価値を持つか持たないかは、また別の問題です。売れるかどうかというのはね。
 たとえばハリーポッターがなぜ売れたのか? まず単純におもしろかったからです。そして書評が載った。有名な雑誌に。そこから有名人が読み、これは素晴らしいと拡散していって、世界中に翻訳されていきました。
 名だたる作家、スティーブン・キングとか、有名なミステリー作家とかもハリーポッターがおもしろいと、どんどん火がつけていき、とどめに映画が大ヒットして、本を読んでいない人も本を読むようになりましたね。
 どうしたらそうなれるの? と世の中の書き手やプロデューサーはみんな思っていますけれど、確実な答えはありません。
 なぜかというと、前に少し話したかもしれませんが、人間はある物事に感動すると、感動した経験値がたまって感動しなくなるんです。人間というのは常に変化していくものです。社会もそうですね。
 ある瞬間、なにかがとてももてはやされた、愛された。その瞬間、社会も変わるわけです。
 ハリーポッターが売れる前と売れた後では出版業界も変わっていますし、読者の意識も変わっている。僕たちの意識も全部変わってしまっている。
 常に何がどうなるかわからない状況下で、新しい表現を提出していくわけです。
 ただし、だいたいこうすれば売れるだろうとか、これは外さないだろうというものがどんどん積み重なった結果、ジャンルというものが生まれます。
 もし商品価値というものにこだわるのであれば、最も積み重なって変化がなく、最も足りていないものを書けばいい。
 いっぱいあるものはみんな満足してしまうので、もういらなくなってしばらくしたもの、ちょうど足らないやつをやると売れるわけです。すると読者は集中的にそれを読む。しばらくすると飽きる。別の足らないものを読む。その繰り返しです。
 とはいえ、そうすることで執筆活動が充実するかどうかは別問題ですよ。
 たいてい書き手は、自分と社会の中間地点を見定めることでバランスを取ります。あまりにも自分のニーズばかりだと社会が消えてしまうし、社会に合わせてばかりだと自分が消えてしまう。
 もちろん、自分のニーズを追及した結果、国や歴史を越えて愛されるものもあります。
 ラブクラフトとか、宮澤賢治とかね。宮沢賢治は名家の出でしたから、お父さんからお金を借りて本を出したけれども、お父さんからお前の本は本当に売れないなぁ、読者のことを少しは考えているのか、と文句を言われちゃう。お金があるからできたことですね。
 逆に商品価値というものを徹底的に追求している人もいます。
 たとえば、『ラブライブ!』って知ってます? アイドルもののアニメです。あの企画が立ち上がる前って、アイドルものの作品が二つぐらいあったらしいんですよ。一個が確か『アイドルマスター』という作品で、あともう一個あったのかな。
 その二つの制作が一段落して、半年間ぐらい、アイドルものがまったくなくなる時期が来る。そう見抜いたプロデューサーが、「いまだ!」と作った。空白に、ぼーんと現れたのが、ラブライブ! というわけです。
 「ここだ」と見抜いたところに製作の人的パワーと資金を徹底投入し、成功させる。
 株の投機とまったく一緒です。投資は企業の価値を見ますが、投機は金の動きだけを見ます。
 商品価値にこだわるなら、そういう投機的な感性が必要になる。ちなみにその方はアイドルに詳しくないので、アイドルが大好きなスタッフをプロジェクトに参加させる。自分が作りたくて作るのではなく、成功させたいと思っている。
 売るプロの感性というやつで、それはそれでおそろしく鋭くてびっくりしますよ。それをご自身でやりたいかどうかは、ご自身次第です。
 なんであれ、自分自身のニーズを満たす、他人のニーズを満たす。両方同時にできるポイントを見いだしていくのがプロのクリエイターです。さもないと自分も飽き、他人からも飽きられ、やめてしまいます。
 では先に進みますね。

■8
生きていくのに必要なもの
人を笑顔にしたり、泣き顔にしたりする
必要以上に少ないと苦労をし、人を老けさせる一番の原因となる
それの重さは全て決まっているが
使う人によってすごく重くなったり、すごく軽くなったりする
それは表と裏でゲームの先攻後攻を決めたり、勝負を決めたりするのに使われる
大昔、自給自足の生活から物と物を直接交換する生活に変わった
しかし、自分が欲しいものと相手が欲するものが一致しない場合があり直接交換から間接交換へと変貌した
そして、間接交換の媒介手段として紀元前7世紀にリディア王国(現在のトルコ西部)で初めてこれが登場した
現在の日本では、日本銀行が発行している四角い紙が4種類、政府が発行している丸い金属が6種類ある
そう、これはお金です

 今しがた投機のお話をしたところで、お金の定義です(笑)。
 「それの重さは全て決まっているが、使う人によってすごく重くなったり、すごく軽くなったりする」
 これは物理的な重さなのか精神的な重さなのか、はっきりさせるべきですね。笑顔にしたり、泣き顔にしたり、老けさせるって、どうも精神的な重さのことを語っているらしい。ただ、いきなり「重さ」と言われると、物理的な重さなんじゃないのと誤解されてしまう。
「それは表と裏でゲームの先攻後攻を決めたり、勝負を決めたりするのに使われる。」
 さっきもこういうのがありましたね。 
 社会構成員である人間に影響を及ぼすものとしての価値を語っているわけですけれども、本来の用途とは違う使われ方もしていますよ、と。
 そこから歴史的な背景を語っていますが、もうちょっと具体的に……、抽象的に説明しろと言っておきながら具体的にってどういうことだと言われそうなんですが、たとえばこの重さって何? というね。
 すべて決まっているとはどういうことなのか、それっていうのは複数なのか単数なのか、必要以上に少ないと苦労とありますが、これはちょっと文章的におかしいですね。
 必要「以上」に「少ない」、以上に少ないというのはおかしいのがわかりますか? あまりに少ないと言うことを表現したかったんだと思いますが、これでは「少なさが必要とされている」ことになりますね。
 で、すごく重くなったり、すごく軽くなったりする。気持ちはわかるんですけれども。それから歴史的な経緯を話している。ちょっとね、これだと、本来はゲームで先攻後攻を決めるものが発展していって、いつのまにか物々交換の道具になりました、という説明に見える。
 ここは順番をもっと考えて、誤解を招かないよう定義できると良かったと思います。
 さて、次はちょっとおもしろい定義です。

■9
ちりーん、とベランダから居間へと、夏を運んできた風が、わたしの手元で鈴の音を、鳴らしました。
空っぽの穴があいた首輪にくくりつけられた、銀色の鈴を。
夏風に揺られて、ちりーん、ちりんと、軽やかに鈴が音を響かせる度に。
わたしはあの、ちいさな、いとおしい生き物のことを、思い出します。
お腹を空かせては必死にわたしのすねをひっかいていた、あのちいさな生き物のことを。
あのいとおしい生き物が、お腹いっぱいになって、満足気に鳴らした喉と一緒に、揺れていた銀色の鈴の音を。
ちりん、ちりん、ちりん、と銀の鈴は、元気いっぱいで鳴り響きます。
この銀色の鈴は、いつまでも、いつまでもわたしの『愛猫』でいてくれるのです。

ものすごい叙情的な始まりをしておりますね。
で、ものすごく具体的なんですが、空っぽの穴が空いた首輪って、普通、首輪は空っぽの穴じゃないかしら、みたいな疑問がわく(笑)。
これはもうちょっと具体的な形状を説明したらよかったでしょうね。
夏風に揺られて、ちりーん、ちりんと、軽やかに鈴が音を響かせる度に。
度に、で「。」と。
叙情を意識した書き方をされていますね。このあと、だいたいどういう生き物かわかりますね。もしかして、空っぽの穴というのは首輪をはめていた対象が消えてしまったことを言っているのかな、とここで想像できる。
これは、今回の課題とまったく違うことをやっているというですね、なかなか講評に困る課題提出文です。
ちりーんとゆっくり鳴らしているのは、確かめているわけですね。すごく叙情的に上手い。
さみしげに、ちりーん、ちりんと鳴るのは、風が鳴らしている。自然に鳴っている。だからあたかもそこに猫がいるような気がすると。
 この短い、ちりん、ちりん、ちりんは自分で鳴らしているんですね。その音が聞きたくて。でもかえって、相手がいないことが実感されてしまう。そこがまたね、さみしさという叙情を刺激しているんですけれども、今回の課題でこれをやる必要はまったくありません(笑)。
ただ、文章として大変すぐれていると言わざるを得ない。
小説の新人賞でまったくジャンル外の原稿が送られてきて、大変上手いけれどこれはどうしよう、みたいな悩み方をするパターンに似ていますね。
だってこれ、首輪を定義していないですしね。鈴の音も定義していない、夏も定義していない、愛猫って何だというのも定義していない。
まったく定義していないんですが、私の気持ちだけは明確に定義されている(教室・笑)。
これが私です、みたいな定義になるわけですかね。こういうのは嫌いじゃないので、ついみなさんにお見せしてしまいました。
 さて、本来の課題に戻りまして。

■10
それは、体の働きの一つであり、ウィルスやたんなどを、強制的に気道や肺かから排出するために起こる。
その為、本人が意識せずとも反射として、それが起こるが、社会生活の中では本人が意識的にそれを行う場面も多々見られる。
例えば、意志を伝達する方法のひとつとして使われる事があり、相手に自分の存在を認識してもらう手段として行われる。
それを題材とした代表的な自由律俳句が、尾崎放哉によって詠まれている。
冬の季語とされており、一年の中でも、冬場に人々がこの動作を繰り返すことが一番多い。
風邪の症状の一つとされ、それによって排出された、たんの色によって、身体の健康状態を図ることが出来る。
それを行った場合、周囲に自分以外の人間が存在する場合は、マスクをしたり、手を口元に当てて行うのがマナーとされている。
それは、「咳」である。

先ほどの「殺人」とはまた違う行動についてです。特定の身体的反応としての行動を表現し、定義している。これも、動作としては目に見えるけれども、それ自体は目に見えない概念を説明しているわけです。
これは説明が入れ子になっていて、ばらばらになってますね。肺から排出するためにおこる。風邪の症状の一つとされると。風邪の症状の一つであるからマナーとされるんだよ、と。本人が意図せずやる場合もあれば、意図せずやらない場合もあるよと。その意図的にやった場合とも異なり、詞の題材にもなるよ、と。冬の季語にもなるよ、と。
定義をするときに一番重要なのは、なるべく入り乱れないことです。もっと順番を整理しましょう。
さて次はまた別の概念の説明です。

■11
それに侵されると、心が落ち着かなくなり、何をしていてもそのことに思いが行ってしまう。
熱に浮かされた時と同じように現実の世界がぼうっとしてきて、夢を見ているかのように、さまざまな妄想が頭をよぎりだす。
相手が言ってくれるだろう、また相手がしてくれるだろうことが映画のように目の前に見え、それが妄想でありながらうれしくなってしまい、ついニタニタしてしまう。
その瞬間のすぐ後に、相手が自分を軽蔑することを言ったり、相手が自分を嫌う行動を想像して絶望にかられる。
つい相手の名前をつぶやいてみたり、そのあたりに走り書きしてしまう。
まさに病気である。
それは「恋」である。

なんか森見登美彦さんの作品を連想してしまいました(教室・笑)。
これは二段階で定義しているんですね。これは病気である、その病気は恋という病名である。これは、その人の観念の中に存在するんだけれども、証明をすることが不可能なものなわけですね。
恋をしていることを物理的に証明するために、たとえばいろんなプレゼントをあげたり、記念日を守ったりとかいろいろありますが、外的な現象を根拠とすることができない。ただ重要なのは、自分だけでなく、万人にもおこりうるということ。万人が共感可能なので、こうした定義が可能になる。
上手なのが、妄想が頭をよぎります、と。妄想という言葉にあまり振り回されていないんですね。妄想を恋の定義にしてしまうのではなく、妄想でありながら嬉しくなってしまい、ついニタニタしてしまうようなものと、恋の特徴を表現している。
で、別の想像で、絶望に駆られる。
いろいろな感情を持ち出して、恋という目に見えないものの輪郭を作っています。
こういうとき嬉しい、こういうときに思いが止まらない、こういうとき絶望してしまう。で、ついついこんなこともしてしまう。輪郭を作り、中央にあるものを浮かび上がらせていく。
お上手ですね。順番も整っていて読みやすく、わかりやすいと思います。

以上、講評でした。では今回の講座を始めたいと思います。

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