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冲方塾 創作講座1 主語を学ぶ①

ようこそおいで下さいました。本記事では、講座の第一回のもようをお届けいたします。
この講座でぜひ学んでいただきたいことは、言葉にはどんな力があるか、そして言葉によって何が得られるかということ。

まず講座の最終目標を、最初に申し上げますと、「自己批評力を身につける」ということにつきます。
自己批評力とは、自分が書いたものを、定められた基準に従って、自分自身で採点し、どれくらいできたか、できなかったか、といったことを推し量る力です。
しばしば、感想やニーズとごっちゃにしている方がいらっしゃいますので、ざっと説明したいと思います。

批評というのは、ある基準に従って採点し、優劣を決めることです。
フィギュアスケートの採点のように、何ができたか、できなかったかで、点数をプラス・マイナスしていくようなものです。
当然、自分が書いた文章を採点するには、「これが今回の課題」と、自分でしっかり決めることが必要です。
たとえば、読みやすい文章を書くぞ、と決めたなら、実際に書いたものがどれくらい読みやすいかを、自分で採点するわけです。
テーマをはっきりさせて書くぞ、と決めたなら、当然、横道に逸れてしまっているカ所はマイナスになります。逆に、でたらめに横道に逸れた文章を書くぞ、という課題を設定してもよいでしょう。学校のテストではないので、自分で何もかも決めてよいのです。
そうして、そのときどきの自分の実力に合わせた採点基準を設け、厳密に自己チェックできるようになっていけば、さらにより奥深い課題へと自分を導いていけるようになります。

これに対し、感想とは何か? そのとき受けた刺激から生じる感覚的な想念です。なんとなく面白い、気持ち悪い、素敵、美しい、という瞬間的な感覚であり、それが持続するかどうかは、わかりません。
何日か経ってもう一度同じものにふれたとき、まったく違う感想を抱くこともあります。そのときの受け手の気分、体調、環境、前提として得た知識などの違いによって、感想はころころ変わります。
ですから感想を採点の基準にすると、そのときどきで変わりゆく感想に振り回されることになります。もちろん誰かから自分が書いたものについての感想を得ることはとても重要で、肯定的な感想は、大いにモチベーションを与えてくれるでしょう。しかしそうなると、採点基準を他人にゆだねることになります。この記事では、あくまで自分が自分を採点できるようにすることを大事にしてゆきたいと思います。

ニーズというのは、そのとき最も不足しているものです。需要のことです。たまたま世の中で数が少なくなり、不足しているという大勢の気持ちが高まることで、一時的に価値を得ることをいいます。
当然、数が増えれば、手に入れる人が増えます。その分だけ必要とする人が減っていくので、価値は減ります。
プロがニーズをチェックするのは、今何が世の中で増えすぎていて、何が足らないかをはかるためです。流行に乗ろうとして、ただでさえ増えすぎたものをさらに書いてしまい、まったく売れない可能性もあるのです。とはいえ流行を無視してはビジネスになりませんので、今どうするか、といった議論の指針になるのがニーズです。
これも、どれだけ長続きをするかわかりません。ニーズを採点基準にすると、社会というより巨大なものに自分を委ねることになります。当然、自己批評力を身につけることにはならなくなります。

最後に、評論とはなんでしょうか? 数限りない批評を、どっさり束ねたもの、といえます。批評は、ある時期に読まれた、ある作品を、ある基準に従って採点することです。そうして積み重ねられてきた、たくさんの批評の歴史を踏まえて、いろいろな観点から、異なる批評を同時に下そうとするのが評論だと考えればいいでしょう。
たくさんの作品を、たくさんの基準をもとに、たくさんの時代にまたがって評価し、可能な限りどんなものにでも当てはまるような、深く優れた視点でもって採点することが、評論です。
自己批評力が十分身についてのち、過去から将来にわたって存在する、あらゆる作品を自分なり批評してみたい、という気分になったら、トライしてもいいかもしれません。もちろん、優れた視点を見出すのは、数年がかりになります。それが数十年がかりになっても、おかしくありませんので、気を長くしてトライして下さい。

ではどのようにして自己批評力を身につけていただくか。
講座では、下記のように進行しました。

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本記事でも、この流れに沿って進めたいと思います。

若干の問題は、「提出された成果物」です。これについては本記事でも掲載したいと思いますが、実際にそれを書いた受講生が、「やっぱり自分が書いたものが、みんなの前で講評されるのは辛い」という気分になった場合、なるべく対応したいと思います。

ただし、講座でもお話したことですが、「講評で誉められなかったからといって人格を否定されるわけではない」ということを承知しておいて下さい。誉められれば嬉しいでしょうが、せっかく学ぼうとしているのに誉められるだけでは、お金や時間の無駄になってしまいます。
ここは自分で批評できるよう学ぶ場であり、ということは、実際に批評されることが学習の早道となります。
講評された人は、まな板の上の鯉になったと思って、大人しく切り刻まれて下さい。こちらもなるべく、優しく楽しくみなさんの文章を切り刻んでいきたいと思います。

長々と前置きをお話ししてきましたが、ご承知いただけましたでしょうか。
ではここで、今回のテーマをお話したいと思います。

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まず、言葉の力というものを実感していただくため、下記の動画を御覧下さい。
https://youtu.be/IGQmdoK_ZfY
The Monkey Business Illusion
ダニエル・シモンズさんの動画です。「白い服を着た人が、何回バスケットボールをパスしたか数えてください」と言われます。実際にそうしてみて下さい。

白い服と黒い服を着た人たちが出てきますね。ややこしいですね。がんばって数えて下さい。
いかがでしたか?
正解は16回。
ところで、

 ゴリラは見ましたか?

こういったたぐいの心理学のビデオを知らない人の大半が、ゴリラを認識しないそうです。逆に、こうしたビデオを知っている人は、ゴリラには気づくけれども、以下のことには気づきにくいようです。

 カーテンの色が変わっている。
 黒い服を着た人が、一人減っている。

ゴリラが来たときに、黒い服の人が出て行って、カーテンの色がどんどん変わっていって、最終的に黄色になってしまう。ゴリラを探している時に、他のことを見落としている。ザ・インビジブル・ゴリラ・ドットコムなどで検索すると、こういう実験をいろいろと見ることができます。ご興味がある方はネットで調べてみてください。

目の前でゴリラが現れ、カーテンの色が変わり、人が減っているのに、気がつかない。というより、別のものに注目して、それ以外の要素を綺麗に消してしまえる。
それが、人間に備わった、選択的注目(セレクティブ・アテンション)と呼ばれる認識の仕方です。
人間は、これに注目すると決めたもの以外のほとんどを意識せず、記憶にもとどめません。現実のほとんどを、見ずに過ごしているといっていい。
人は一日の終わりに、「今日は人を百二十五人見たなあ」とか、「見かけた車は全部で六十二台で、そのうち白い車は十六台だったなあ」などとは、普通、考えません。
あらかじめ、無駄な情報をごっそり削ぎ落とすことが、素早く的確に行動する上で、必要だからでしょう。

そして言葉には、この選択的注目を変えてしまう力があります。
この文章をここまで読んだ今、みなさんには、改めて先ほどの動画を見返していただきたいと思います。いかがですか。「ゴリラもカーテンの色も人が消えたことも認識できない」という方のほうが、明らかに少なくなると断言できます。
完全に無視していた現実の一部が、言葉で説明されることで、にわかに認識できるようになるのです。
誰かの言葉によって、ゴリラが見えたり、カーテンの色が変わっていることを知ることができる。自分の目で見ていたものの意味が、変わるわけです。

言葉によって、認識が変化し、現実のとらえ方が変えり、ものごとの意味が変わる。
これが言葉の一番重要な力です。
どこからきた力か? 原始の時代、人が集団で生活するうえで身につけた力だといえるでしょう。
誰かが、食べ物や安全な場所を発見したり、敵や災害に感づいたとき、ただちに全員がその情報を共有できるようにしておく。
森を歩いていて、がさがさと茂みで音がしたら、それは危険な蛇がいるからかもしれない。岩山の中で、岩の一つが動いているような感じがしたら、それは岩ではなく獲物かも知れない。小さな変化をすぐに仲間に伝え、気づかせる。そうすることで、集団全体で動くことができる。
一人一人が別のものを見ていれば、一人で全てを把握しなければいけない場合に比べて、ずっと労力は減ります。一人が夜も起きて見張りをしていてくれれば、残りはゆっくり眠ることができます。
これは、群をなすほかの動物と変わりません。
ただし、人は、想像力によって言葉の力をものすごく高めたことで、動物とは比べものにならないほどの数の集団を作ったり、まったく異なる集団同士が、協力し合えるようになりました。
言葉が、歴史を作り、理論を生み出し、仮説を唱えることを可能にしました。あらゆる現実を見通そうという意識が高まっていったわけです。

そしてもちろん、人は、現実の見方を変えてしまうこの力を、ただ安全や危険を知らせるだけではなく、芸術的な発見や、哲学的な思索へと、発展させていったのです。
日本における和歌、俳句なども、ふだん気づいていない現実に気づかせてくれるという点で、きわめて優れた言葉の仕組みといえるでしょう。

今の時代は、とりわけ、日々のニュースとか、数多の広告とか、近所の噂とか、株の為替の値動きとか、認識を変化させることを目的として発された言葉を、山ほど浴びているはずです。
それらの言葉の裏には、あなたの視点を変えたい、という意図が存在します。
それが良いか悪いかはさておき、受け取る者の視点を、どう変えるか。
読者が認識している現実を、どのようなものへと新たに導くか。
それが、主題というものを設定する目的となるのです。

そのことを話す前に、もう少しだけ、選択的注目と言葉のありかたをお話しします――。

さて。
ここまでで、2100文字ちょっと。noteは文字数が出るのですね。
どの程度の長さの文章であればちょうどよいか、今後はかっていくとして、記事の第一回は、いったんここで終えたいと思います。

ご興味をいただけた方は、引き続き、第二回をお楽しみ下さい。
だいたい週に1回か2回は、記事を増やせればと思っております。
ただ、作品の〆切に追われると、たちまち冲方の選択的注目からこの記事のことが除外されますので、そういうときは温かい目でお待ちいただけましたら幸いです。
では次回の記事でまた会いしましょう。

みなさまが豊かな執筆ライフを送りますように!

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