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冲方塾 創作講座10 視点を学ぶ② 明喩と隠喩

みなさんご存じの方が多いとは思いますが、改めてここで、明喩と隠喩について説明しますね。

 明喩とは、修辞法の一つで、「~のようだ」といった喩えを引いていることを示して表現すること。
 たとえば、
 体のすぐそばで何かが燃えている「かのような」暑さだった。
 彼は嬉し「そう」に笑った。
 という書き方です。
 彼は、客観的な事実として笑ったけれども、本当は嬉しくないかも知れない。それは彼本人にしかわからない。そういう正しい書き方をするとこうなるわけです。
人の言動だけ描写し、内面描写を排除するハードボイルドものの小説は、地の文で隠喩を避けて正確な記述にこだわりつつ、代わりに白文(セリフ)で隠喩を多用しますね。

これに対し、隠喩は「~だ」と断定する。
たとえば、何かが燃えているように熱いなら、
「炎暑だ」
と言ってしまう。本当に燃えたら大火災です。とにかく暑いということを表現するためにそう言っている。
「子どもは風の子、元気な子」
とか。風の子って何だ? ということは説明しない。
「彼も嬉しがっています」「彼も喜んでましたよ」「彼女は怒った」
正確に書くと、彼女は怒ったとみなせる態度をとった、となります。それが第三者に知りうる情報の限界です。でも彼女は怒った、と断定してしまう。
そのほうが伝わりやすいからですし、因果関係が描写できるからです。
「彼女は怒った」が、「相手が謝ったので矛をおさめた」と書くことができる。
これを客観的な事実だけで述べようとすると、どこまでいっても断言できません。
「彼女は怒ったような仕草や表情をみせたが、相手が謝罪といえる言葉を口にしたところ、彼女はそれを耳にしたとみなせ、また理解したともみなせ、彼女の中で怒りをなだめる何かが生じたらしく、どうやら怒りがおさまったようであった……」
こうしたことが第三者の知りうる情報の限界で、かえって何が何やらわからなくなるわけですね。こんな感じでコミュニケーションを取ろうとすると、何も話せなくなります。それより推測を事実として置き換えて判断した方が、よほど素早く適切に対応出来る。
その適切な対応のために発達したのが、隠喩です。
今では、我々が普段使う言葉の大半が、この隠喩によって成り立っています。
 そのほうが情報がスピーディに伝わるとか、わかりやすいとか、心情に訴えることができるといった、様々な効用があるわけです。
日本語で「完璧に客観的な事実」を書くことは、至難のわざです。不可能といっていい。
代わりに、なんとなく相手の心情を察したり、ひじょうに観念的な話をしたり、端的で奥深い表現をする上では、すごく向いている。
「雪のように白い肌」を「雪の肌」と言う。
「白魚のような柔らかい手」を「白魚の手」と言う。
 こうした詩的といっていい短い言葉の中に、様々なニュアンスがふくめられ、メタファーとなっている。
 ただしこれに慣れきってしまうと、主観と客観を切り分けることが苦手になる。
 今回、10個講評しましたけれども、主観的印象でものを語ろうとする文章が多くあったと思います。なぜそうなってしまうか。
視点が狭く、一つしかないからです。自分という主観から出てこず、対象の中に潜り込めていない。
もっと主観と客観を自由自在に行き来することで、さまざまな視点で書くことができます。
 こちらの例を御覧下さい。

隠喩の多用の例① 同時多視点『栄花物語』
(中宮定子が産んだのは女子であった。)皇女が産まれたので、産湯を使う「御湯殿の儀」をしなければならない。そのため帝の命令で右近内侍が参上した。中宮定子にまつわる世間の風評が恐ろしく憚られたが、畏れ多くも帝の命令なのでその通りにした。
儀式はつつがなく執り行われた。それにしてもこれが定子の父であった関白存命の華々しいときであれば、どんなにめでたかったか。関白家を失墜させた一連の事件が、中宮定子の脳裏をよぎった。
母の喪中ゆえ、出産祝いなのにみなが喪服だ。しかし産まれた子の産着だけは喪の色ではない。(※主語なし。その場にいる者全員の主観として描写)
色白の可愛い笑顔を見て、右近内侍は思わず言った。「ああ、早くこの子のお顔を帝にお見せしとうございます」


こちら、現代語訳にしております。
この『栄花物語』について簡単に説明しますと、まず「歴史物語」と呼ばれています。「歴史書」ではない理由は、視点が変幻自在だからで、書き手が登場人物の中に潜り込んで、心情をすらすら述べるからです。供述書に似てますね。
 朝廷の権力の移り変わりを詳述したものとして資料的価値はあるものの、主観的な印象を事実として書きすぎており、研究者の間では「うっかり信じてはいけない」、扱いが難しい資料として有名です。
 で、中宮定子は后の一人ですけれど、この女性が産んだのは女子であった、という事実がある。それで、産湯を使う「御湯殿の儀」をしなければならず、帝の命令で、右近内侍が参上した。中宮定子にまつわる世間の風評が恐ろしく憚られたが、畏れ多くも帝の命令なのでその通りにした。
 当時の中宮定子は、政治的に追い落とされた不遇な后なんです。本当は近づきたくないけど、帝に命令されたので、やむなく右近内侍が参上した。
 この時点で右近内侍の内面を書いてしまっている。本当に右近内侍が畏れ多くもやってきたのかどうかは、本人にしかわかりません。
なのに、相手の心の中まで見たように書く。
 儀式はつつがなく執り行われた。これが定子の父であった関白存命の華々しいときであれば、どんなにめでたかったか。関白家を失墜させた一連の事件が、中宮定子の脳裏をよぎった。
はい、ここ。いきなり視点が変わっています。ここはもう中宮定子の心の中です。
右近内侍も皇女も帝も中宮定子も、全員テレパシーができるかのように書いている。
そうすることによって、人々の心を描き、平安時代の人たちにとって重要な、神道的な観念や、仏教的な信仰をあらわしたりする。
 この母というのは中宮定子の母のことですね。喪中ゆえ、出産祝いなのにみなが喪服だ。これは異様な状況ですね。みんな出産祝いのさなかに、墨色の服を着ている。
産まれた子の産着だけは喪の色ではない。これが言いたいんですね。みんなが喪服を着ているのに、生まれた子だけは罪とか汚れから遠ざけられている。この子には罪が無いんだといいたいわけです。そしてまた、喪われた命に代わって、この世に産まれたのだと。
この子だけは無垢だ。ここの主語はもはや空気というしかない。みんなそう思うでしょ、という書き方です。
厳密には、この喪服を着ている誰かが主語、次に生まれた子にかぶせられた産着が主語なんですけれど、この文章で伝えたいのはそういう客観的事実ではないんですね。
なんて悲しいことなんだ、けど生まれた子は愛しいじゃないか、と言いたい。喪服という死を象徴する出で立ちに対し、新しい命が生まれたという対比に着目してほしい。
 このように視点を自由自在に行き渡らせ、メタファーを多用することで、生き生きとした人の営みを描写することが出来る。
それが同時多視点です。
この例でも、主語・右近内侍、主語・中宮定子、主語・みな、主語・産着、主語・右近内侍と、主語が入り乱れます。
実はこうした「物語形式」は、当時それほど一般的ではありませんでした。
特に、平安時代の宮廷貴族の日記は客観的な出来事の羅列が多かった。10年後も50年後も同じような儀式が受け継がれることが大事だったからです。
同じ行動を繰り返すことで伝統となる。でもそれではそこに生きていた人たちの気持ちが伝わらないじゃないかということで物語が生まれた。そしてこの物語のほうが、客観的事実をずらずら並べた日記よりも広まり、そして生き残った。
 理由は二つあって、一つは儀式の内容が変わっていらなくなった。もう一つは、特定の一族にしか受け継がせないのでコピーが少なかった。門外不出にして、仲の悪いやつにはあえて省略版を渡したりする。当然、後世に残る確率が低くなる。
一方で物語というのは権力の継承を目的とせず、そこに生きた人たちを描写することを目的としていたので、誰が読んでも罪にならないし文句を言われない。その自由さによって物語は生き延びてきたといっていい。
何より、客観的な事実を連ねた日記だけだと、なぜそうしたかがわかりません。事実だけだと「why」が消えるんですね。一方で物語は「why」を明らかにする。主観的な印象と客観的な事実のミックスによって、回答としてのメタファーを生み出すわけです。
 このように、同時多視点とメタファーの多用により、自由で豊かな表現が可能となっているのが日本語の特徴です。

 ただしこの書き方というか、日本文化全般の傾向として、もう一つ特徴があります。それがわかっていないと自分の文章に欠点を抱えることになりますので注意して下さい。
 それは、きわめて「内向き」だということです。

 右近内侍が参上して儀式を執り行ったんですけれど、下手をすると中宮定子と右近内侍の二人だけが喪服なのかも知れない。具体的に誰がどうしているかは省いている。
 これが、さきほどみなさんの講評でも見受けられた、なんとなくわかって、わかるでしょ? という曖昧な推測を促す書き方です。
 この書き方が許されるのは、どういった人間がそれを読むか、厳密にわかっている場合です。細かいことは書かなくてもわかる人に向けて書いている。つまり、コミュニティの内部へ向けて書かれているんですね。
推測がしっかり働く人は、コミュニティの一員。
できなければ、そいつは場違いな人間、外人、異人、よそ者だ、となる。
これが日本語の特徴だったわけです。「みんながわかるべき空気」というメタファーのほうが圧倒的に多く、わからない人を排除しがちです。
しかし現代のように、日本人の多くが、行動範囲や視野を広げれば、当然、「わかってよ」だけでは文章は成り立たなくなります。日本人同士でさえ同じ空気を読むとは限らない。
これが西洋ではどうか見てみましょう。

隠喩の多用例②メタファー 聖書 マタイによる福音書
イエスは言われた。「確かに、あなたがたは私の杯を飲むことになる。しかし、私の右と左に誰が座るかは、私の決めることではない。それは、私の父によって定められた人々に許されるのだ」

「杯を飲む」…運命の暗喩。「苦境」「運命」「祝福」など。
「右と左に座る」…玉座の左右に座る、即ち栄光を授かること。
「父によって定められた人々」…神に選ばれた人々

 福音書とは「イエスキリストはこのようなことを言ったりやったりしました」ということを伝える書です。だからイエスキリストが主語なんですが、書いている人はイエスではない。目的はイエスの行動の意味、思い、背負っていた信仰的な問題や課題、そういったことがらを伝えることです。これは先ほど例に出した判決文に似ていますね。
 読んでわかると思うんですが、主語を省きません。
 直訳すると、かなり日本語的ではなくなります。一個も主語を抜いていないからです。
日本語の文章だと、
「確かにあなたがたは杯を飲むことになる。しかし右と左に誰が座るかは父によって定められる」
なんて省略される。
英語を筆頭に、西洋の言語はたいていそうした書き方をしない。メタファーを客観的な主語とセットで用います。
確かにあなたがたは私の杯を飲むことになる。十二使徒を前にして、イエスはこれからしばらくすると私は十字架に貼り付けにされるよという話をして、そのあとヤコブと息子たちが、あなたが栄光の道を、死を覚悟して進まれるんだったら、どうか私たちを側近にしてくださいと言う。だったら私の杯を飲むか? 飲みます、だから私をあなたの右と左に座らせてください、と、そういう会話がその前にあるんですけれど、この「杯を飲む」がメタファーとして生きているんですね。
杯というのは、香油をいれたり、ワインを入れたりするもので、運命を意味します。
杯の中身を飲むというのは、運命を受け入れるメタファーなんです。
たいていの人間は杯が何か知っていますから、「キリストのことをよく知らなくてもなんとなくわかる」ようにするための、外向きのメタファーなんですね。
「右と左に座る」というのもメタファーです。
玉座の左右に座る、即ち栄光を授かるという意味があります。席順を決めてるわけじゃないんですね。私たちを優遇してください、私たちに特に幸福を与えてくださいと言っているわけです。
これも、誰でもわかるよう工夫されたメタファーです。玉座のすぐ隣に座れるんだから、素晴らしいことだと誰もが思う。
私の右と左に誰が座るか、私が特に誰かを優遇するか、それは私の決めることではない。私は誰も優遇しない。それは私の父によって定められた人々に許される。
父は神、父によって定められた人々というのは神に選ばれた民のことです。
お父さんという言葉を知らない人はいないでしょう。この上なくわかりやすいメタファーです。神が父、つまりイエスは神の子であり、すごい存在だ、ということが即座に伝わるわけです。
で、そのイエスが言います。
全ては、私というものを超越した神の意志に基づくものであり、神の意志の前では、みんな平等だと。誰かを優遇するなんてことはありえない。
もしこれをすぱっと要約するとこうなります。
「イエスは言われた。私は誰も優遇しない。全ては神が決める」
 これだけだと、イエスの思想も何もわかりません。
福音書の目的というのはイエスの行動記録ではなく、当時の信仰の最先端を記すことです。マタイたち十二使徒は、このくだりのあとイエスを裏切っちゃうわけですけれども、反省して、イエスの教えを伝えるべく福音書を書きつづる。ただ客観的な事実を述べるのではなく、「杯を飲む」などのメタファーを駆使し、自分たち以外の、ローマ市民とか、未開の地の人々とか、文字を知らない人にすら、通じるようにする。
おわかりでしょうか。
日本語が内向きで「わかる人にわかる」言語であるのに対し、英語などの西洋の言語は外向きで「わかってないやつにわからせる」ことを主眼としているわけです。そのためにメタファーを多用し、「ああなんかすごいんだ、理解しなきゃいけないやつなんだ」と思わせる。
この西洋のメタファーには、異民族にもわからせるためのツール化という言葉の技術が蓄積されているわけですね。

さて、こうしたメタファーが発達すると、今度はそれを意図的にひっくり返すことも発達します。現代では、ユーモアやジョークに特にその傾向が見られます。
たとえばこちら。

隠喩の多用例③ 矛盾の描写

「消防署の募金」
おかみさんが言った。「あなた、消防署の方が募金に来てるわ」
だんなさんが言った。「そうか。水を1リットルほどあげなさい」

「飲酒運転」
酔っ払いが倒れそうになりながら駐車場で車に乗ろうとするのを警官が呼び止めた。
「おい君、もう立てないほど酔ってるじゃないか」
「ええ、だから運転して帰ろうと思ってます」


 募金といえばお金だという共通了解がある。なのに、消防署なら水だろう、とひっくり返す。別の隠喩をでっち上げている。
 飲酒運転のほうも、酔っ払っている状態で車に乗ると確実に事故を起こすから、警官が止める。なのに立てないなら運転しなきゃ、という別の隠喩を出す。「常識のすり替え」といっていい。誰もが短い言葉で理解し合えるはずの社会通念を、ひっくり返す。
 我々は常識を根拠として、不要と思われる言葉をどんどん省きます。
 最も便利で、誰にでも通じる暗喩だけが残る。
 それを、「ちゃんと言わないとわかんないよ、それだけだとオレはこう解釈するよ」とひっくり返すのがジョークやユーモアです。

 さて。今回も多くについてお話ししました。
 万能の仮想された主語。同時多視点。メタファー。
 これらを軽く整理して今回の講座を終わらせましょう。
 本来、私(一人称)が知り得ることは、きわめて制限されています。
 みなさんがうんうん頷いていても、本当にわかっているのか僕にはわかりません。
 また、自分の周囲にある道具の構造や機能を全て説明するには、かなりの手間が必要です。このパソコン、OSがウィンドウズ7ですが、なぜいまだにこの教室で使われているかわかりません。これサポート終わってませんでしたっけ。
このように個人の知識量というのはものすごく少ない。でも人間同士のつながりが増え、世界が広がり、常になんでも誰かが知っていることが普通になった。
 そうなると知識量というのは事実上増える。僕がマイクの構造を知らなかろうが、トイレの構造を知らなかろうが、それらの恩恵を受ける。知らなくても知っているのと同じ状態でいる。
「マイク」という一言で、それが実際なんであるかもわからないのに、僕もみなさんも、なんとなくどのような道具であるか理解できる。
 言葉の力が、そのようにしてくれているのです。主語である私がほぼ何も知りえなくとも、広汎に語り、認識することができる。それほど言葉というものは進化したんです。
 言葉は、万能な仮想された主語とメタファーによって、因果関係を容易に説明する。
言葉は、多視点を可能とし、あらゆる人間の心の中に潜り込んで書くことができる。
人の心という「WHY」への回答を記し、いきいきと物語を描写できる。
言葉を簡潔にすることも、表現を詩的に、豊かにすることもできる。
コミュニティ内部へ向けて書くことも、外へ向けて書くこともできる。
複雑なこと、未知なこと、本来伝えづらいことも、隠喩によって簡便に伝えられる。
ツイッターとかインスタグラムとかSNSでは、この隠喩が花盛りです。

「ハワイは天国だった」
これがもしメタファーでなく客観的事実なら、死んだの? となる(教室・笑)
「すごい痛車を見た」
轢かれたのか? みたいな。
「悪魔的にうまいラーメンだった」
何と契約したんだ? みたいな。

 これだけでなんとなく伝わるんですね。言葉の力、隠喩の効能です。言葉の力が優れているのであって、書いている人間の能力ではありません。
さて。こうした言葉の力をより実感して頂くための課題が、こちらです。


前回の課題を「Q&A(質疑応答)形式」で書き直しましょう。
 別の「モノ」を登場させても良い。
 一方は無知な質疑者で、他方が万能主語であることを意識する。
 可能な限り簡潔に説明することを意識する。


別の「モノ」でもいいです。消しゴムの次は鉛筆でも、タオルの次は石鹸でもいい。
重要なのは、一方は無知な質問者で、片方はなんでも知る回答者であるということ。
みなさんには一人称と三人称を往復してもらいました。
それを踏まえて、二つの存在の間を行き来してもらいます。質問者と回答者です。
正しく質問し、正しく答える。この両方を訓練します。
グーグル検索でも、正しく言葉を選ばねば回答には辿り着けません。まあ最近のグーグルは勝手に補正しますが。なんとなく伝わるという言葉の力がネットにも広まっているわけです。AIという最強の万能主語の使い手が、日々進化してくれている。そのAIに負けないよう、正確な質問と回答という言葉のラリーを頭の中でやって頂きたい。

 
 実例として、いくつかQ&Aを見てみましょう。

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ペルソナ77という商品があって、なんだろうと思ったら、サイトに説明がありました。簡潔に機能を説明し、それが画期的で、特許があり、みんなに買ってほしい優れものです、といっている。
 この回答が成り立つには、この質問が必要なんですね。
「どんな機能を持った製品ですか?」
この物体を見ただけでは、いろんな疑問を抱きかねません。風呂? とか。冷蔵庫? とか。見当違いな問いをあらかじめ一掃するのが、「どんな機能を持つか」という質問です。
Qが下手なサイトはAも意味不明です。たとえば「よくある質問」とか、本当によくある質問をずらーーっと並べるサイトがありますね。「これはなんのサイトですか?」というQまであったりする(教室・笑)。そういうのは必要なQを探すのにも苦労します。


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 また別のQ&Aを見てみましょう。
 こちらは違いの対比です。
二つの異なるあり方を説明する。これは報道機関によって内閣支持率がなぜ違ってくるかということを説明しています。オペレーターがランダムに選んだ方に、○○内閣を支持しますか? 支持しませんか? と質問する場合がある。
支持するとも支持しないとも答えない人に「どちらかというと支持しますか、支持しませんか」ともう一回聞く場合もある。そうすると、うーん、でもどっちかっていうとこっちかな、みたいな回答が生じる。
当然、支持率も不支持率も増える。データの信憑性を高めるためにあえてやる。
我々はそうしませんよ、きっちり一回だけ聞いて、そのあと聞き直しません、ということを明言するために対比しているんです。
きっちり対比になっているのがわかりますか? AとA'、BとB’、CとC’というふうに、ちゃんと対になっていなければ対比ではない。
課題提出でもありましたね。「古いミシンと新しいミシン」とか、こうして対比することができていたらよかったですね。
で、最後に、説明すべきことがいくつもある場合。

東京都水道局 サイト内Q&A
 質問;たくさん使うと料金単価が高くなるって本当ですか。
 回答;水道料金は、水をたくさん使うほど料金単価が高くなる仕組みになっています。生活に必要な水を安価に供給し、また、お客さまに節水を心がけていただくことを目的としているためです。
 東京都の水道料金は、口径別に従量料金を定めています。従量料金は、7段階の水量ランクに区分され、それぞれのランクごとに1立方メートル当たりの料金単価が設定されています。

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東京都の水道局サイトからです。
よろしくない例として御覧頂いています。真似したらいけません。お役所がやる典型的な文章です。何が問題かわかりますか?
正しく答えず、専門用語を多用する、とにかく「不親切な回答」です。
すごいですよ。これ、「口径別」「従量料金」でいちいち別のリンクに飛べます。別の表に飛びますからね。何の質問を読んでいたのすらかわからなくなります。
質問を見て下さい。「本当ですか」と聞いています。
答えは「イエス」か「ノー」かしかありません。
にもかかわらず、自分が伝えたいことを一方的に語り始めている。こういう会話の仕方をする人間は嫌われがちです。会話になりませんからね。
ちなみに口径別に従量料金を定めるという言葉の意味ですが、蛇口が大きければ大きいほど、どばーっと水が出るので、無駄遣いさせないよう、口径が大きい場合は料金が高くなると決まっている。それが嫌なら、小さい蛇口を使えと。
1リットル使ったら100円で、15リットル使ったら1800円。普通、1リットルずつ足していったら1500円だけど、割増にする。これが従量料金です。
で、蛇口が小さい場合は100円から150円になるけど、蛇口が大きい場合は100円から200円になりますよ、といった場合分けが細々とされている。
複雑でめんどうくさいことを一方的に説明し、さらに別表をばーーっと出す。
一つずつ丁寧に説明すればいいだけなんですけどね。別に水道局に何か思うところがあるわけではないのですが、わかりにくい説明の典型なので使わせて頂きました。

 というわけで、今回の課題は「物が回答するQ&A」です。
白文だけ、つまりセリフだけで書ける自信がある人はそうしてもかまいません。だいたい200字で書いて下さい。長くても400字ぐらいかな。あんまり長いとポイントが分散してしまって、この文章のこの部分を直しましょうという指示がしづらくなってしまうんです。みなさんもわかりにくくなってしまうので短くまとめてみてください。

 さて、今回の質疑応答です。みなさんのQ&Aに参りましょう。

Q:万能な主語というのは、どう書けばいいでしょうか?

A:「万能な主語」という主語があるわけではありません。万能であるかのように書いているんです。本来、「私」には語れないことを、語れるようにしてしまう言葉の力のことです。
みなさんが書く主語はほとんど万能です。本来、みなさんには書けないことを、自由にいています。
 「自分は無知だと彼は思った」とかね。彼の内心がわかる時点で主語を万能に使っている。彼という三人称をつかっておきながら、私のことのように語っているわけです。なんにでも入り込める神の視点であり、現実にはありえず、言葉の上でしか成り立ちません。
言葉が優れた道具として進化すればするほど、我々は考えもせず、自覚もせぬまま、それを使うことができる。そこをあえて考えることで、言葉の奥深さを実感して下さい。

Q:課題のQ&Aについて教えていただきたいんですが、一つの質問と一つの答えで構成するのか、やりとりなのかわからなかったんですが……

A:ワンツーで完結に説明できるならそれでもいいですし、ワンツーワンツーで何回か往復してもいいです。ガスコンロと何も知らない子どもの会話とかね。ガスコンロ「おまえら、おれの仕組みしっとるか?」こどもたち「しらーん! 教えてー」という書き方をしてみるとか。

Q:描写とか説明をするときに読者に向けて書く視点が大事だのはわかるんですけれども、説明とかそういったものを詳しくまわりくどくしすぎて、おまえは読者を信頼していないって言われたことがあるんですけれど、うまい省き方があったら教えてください。

A:質問者をきちんと設定し、正しい順番で答えれば、省くべきものは自明です。
水道料金のQ&Aをもう一度見てみましょうかね。水道料金の料金単価がどんどん高くなるのは本当ですか、という問いに対して答えるべきことは何か。
第一に「はい本当です」。
第二に「たくさん使うほど料金が高くなる仕組みは、口径別と従量料金といいます」
第三に「口径別とは、蛇口がでかければでかいほど料金が高くなることをいいます」
第四に「従量料金とは、一度にいっぱい使えば使うほど料金が高くなることをいいます」
第五に「具体的にどんな蛇口で一度に何リットル使うと料金が高くなるかは、7段階に分けて設定されています。詳しくはこちらの表を見てください」
第六に「なお、こうした仕組みは、都民のみなさまに節水を心がけて頂き、ひいては水の安定的な供給を確保するためのものです」
こんな感じですかね。
質問者の意図を無視して、あれもこれも同時に入れようとして順番がめちゃくちゃになるのが一番よくない。

 以上ですかね。では、本日もお疲れ様でした。





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