冲方塾 創作講座12 定義する
さて、みなさんいかがでしたでしょうか?
Q&Aを通して、よりよい文章を書ける実感がわきましたでしょうか。
さっそくですが、次回の課題についてお話しします。
課題は「定義すること」
【例文】
それは、大気中の水蒸気が冷えて結晶化し、無数に地上へ降り注ぐ、白いものである。
寒冷地域では周期的に発生する。一つ一つは小さな結晶の塊だが、長時間にわたって降り積もることにより、大地を覆い尽くすことがある。
日光などで温まると溶け出すが、夜間や曇天時に再び冷えると、滑りやすい氷の層を作る。そのため交通事故の原因になるなど、人々の生活に多大な影響を与える。
滑りやすいことを利用し、それが降り積もったものの上を、様々な道具を使って滑る遊びやスポーツが盛んな地域もある。
見た目は真っ白で美しいことから、風物詩としても好まれ、その言葉はときに人名としても用いられる。
それは「雪」である。
御覧の通り、雪という言葉を使わずに雪について書いています。
雪を定義しているわけですね。それはなんであるか、どんな影響があるか、人間にとってどんな価値があるのかということを書いている。
時代や場所によって、定義は様々に変わりますが、大事なのは、雪を見たことがない人にも、どうしたらわかってもらえるのか、何を説明すれば雪について説明したことになるのか、と考えることです。
時代によって変わるといえば、このプロジェクターのテキスト、写メっていいですよと僕が言うとするじゃないですか。
もう若い子には通じないんですね。「写メって何?」って言われて(教室ざわつく)。
「撮るってこと?」なんて聞き返されてしまって。年がばれるというやつですね。子供には通じないんですよ。びっくりしました。
それはさておき、これまでの課題からさらに難易度を高めて参りますよ。
「ある言葉を、その言葉を使わずに説明してみよう」
これが今回の課題です。
たとえばいま申し上げた写メるを説明する。携帯電話で撮影すること、撮影された画像、ないし撮影された画像をメールに添付して送る行為、みたいな。
「普通に共有すれば?」
なんて言われたんですが、昔はそういうのなかったんだと(教室・笑)。
今までは、主語を大事にしよう、主題を大事にしよう、でした。
すでに定義されている物事を正確に記述しようということだったんですね。一人称も三人称も。一人称とはなんであるか、自己、自分自身である。二人称は目の前にいて、自身と相対している存在である。三人称は、個人とは関係ない場所にいる、より広い意味の他者である、とか。定義がはっきりしている物事について今まで語ってもらいました。
でも言葉を使う上で最も重要なのは定義する力なんですね。
誰も知らない、いままで気づかれていなかった物事について、それがなんであり、どういう意味や価値があるのかといったことを定める。自分勝手に定めるだけでなく、知らない人にも説明できる。これが言葉の力です。
なぜ、定義することが必要か。
定義がなければ、「正しく質問し、正しく答える」ことはできないからです。定義が難しいものは、正しく質問することも、正しく答えることも難しい。
一時期コンピュータ用語がものすごく混乱していた時期がありましたね。エンジニア同士でも話が通じなかったとか。定義が曖昧だからです。そうなると、あれとかそれとか指示語で表現することもできない。文化が異なる人同士が衝突しやすい理由の一つですね。お互いの定義がよくわからない。
実は世の中、定義が難しいものごとのほうが圧倒的に多いんです。
今日ちょっと申し上げた、暗黙の了解に支配されやすくなっていることの弊害です。みんなだいたいわかっているという前提で社会が成り立っているような気がしますが、よくよく考えてみると、ちゃんと定義されうるもののほうが少ない。
例を見てみましょう。
定義が難しいものごとの例。
1)目に見えないもの …夢、悩み、信念。科学技術、契約。
2)実現していないもの …将来の展望、環境破壊、今後の社会制度。
3)自分と関係がないもの …外国の文化や宗教。
4)人によって定義が異なるもの …正義や悪、経済観念、教育方針。
……などなど。
目に見えないもの。これは定義が難しいんです。たとえば今日見た夢とか、あるいは将来抱いている夢とか、悩みとか。
自分の悩みを上手に説明できる人は、ほとんど悩まない。定義されますから、ただしく質問することが可能になる。正しく質問すると、解消する方法がはっきりする。だから悩みが定義できる人は悩みつつ解消してしまう。
信念もそう。かたくなになって他の信念を受け入れられなくなったりしますが、これも定義が難しい。自分の信念と動機と行動原理を厳密に区別できるようになるには、相当、自問自答を繰り返さないといけません。そうしたところで翌日には変わりかねませんが。
こうしたことは、主張するだけなら簡単です。でも人に理解してもらうのが難しい。よくドラマで、この企業の信念は! 私の信念は! といった台詞がありますが、たいてい、もめますね。あれはドラマ上わざともめるために言わせているんですね。
一方、科学技術。これもひじょうに定義が難しい。たとえば水素分子と酸素分子が結合すると水になるよ、みたいな簡単に再現可能なものは定義しやすいんですが、高度なものになると長大な論文が必要になる。
深く突き詰めていこうとすると、これまた科学者同士で定義が違うのでしょっちゅう喧嘩する。「ブラックホール戦争」とかね。世界中の物理学者がお互いのブラックホール論をけなしあったりした。頭脳明晰な人たちであるせいで、余計に論争が激しくなったりする。
そして、契約。
たとえば、この講座の内容をどのようにしてより多くの人に伝えるか。全部無料で見せてしまったら、コミュニティカレッジとの契約に抵触するし、お金を払った受講生が困惑する。
あるものごとの代価を定義しつつ、どんな場合にどうするかということを、いちいち確認する必要がある。プロジェクターのテキストを配布しようとするだけで、受講生からさらに何千円も徴収しないといけなくなる。だったら写メってもらうほうがいい。また写メるって言ってしまった(笑)。
これらが、定義の難しい、目に見えないけれども人の行動を左右するものです。
ほかにも、まだどこにも存在していないもの、というのもあります。
たとえば将来の展望。
株主総会などで、企業側は将来このようになりますと語りますが、絶対にそうなるとは限らない。これも定義が難しいし、理解を求めるとなると、様々な努力を要する。
昨今、最も定義せねばならないにもかかわらず、困難なことの一つが、環境破壊でしょう。
このままだと海をただようプラスチックの量のほうが魚より多くなるという試算が出たり。2050年頃のことになるようですが。
で、日本がドヤ顔で発信したことが、かえって炎上を招いたりする。「サーモ処理のリサイクル」をしてると。つまり燃やしてるんだとね。
プラスチックを焼却処理して熱エネルギーを利用するわけですが、それを果たして「リサイクル」と定義していいのか。個人的には、海に捨てるくらいなら燃料にしていいんじゃないかと思うんですが、やはり賛否両論ある。
あとプラスチックに関しては「他国と協力し合ってる」なんていう国が多いですが、これ、外国にぶん投げるってことですからね。お金を払って人んちをゴミ捨て場にしてしまうようなもので、それを協力関係と定義すべきか、という疑問もある。
これが定義の難しいところです。
あとは今後の社会について、とか。
選挙では、いろんな立候補者が今後の社会についてマニフェストを語りますが、かならずしも定義がはっきりしているわけではない。
先日、マック赤坂さんが港区区議議員になって、僕はあの方の政策がまったく理解できなかったんですが、議員になると真面目なことを言い始めたので、ああ人間は環境の存在なんだなと変に感心しました。
ちなみに渋谷区では仮面女子が選挙で選ばれてましたが、何をどうするんでしょう。
昨今、社会の再定義が必要なのはわかるけど、どうしたらいいかわからないという声が日増しに大きくなっている気がしますね。このままではまずいことになる、社会システムにがたが来る、でもどうしたらいいか、と。
そもそも今の社会をどう定義すべきか、ひじょうに難しい。
ちょうどNHKの受信料の値上げ問題が話題ですが、なんで値上げするんだ! という問いに対し、コンテンツ力を高めるために局外に発注するから、と回答があったとかで、ちょっとぽかんとしました(笑)。
作らないんかい! みたいなね(教室・笑)。
忙しくてニュースを追えていないんで詳しいことはわかりませんが、これは質疑応答の両サイドで、互いに前提となる定義がずれている例ですね。
さらにそれが物理的に遠く離れると、ますます定義しづらくなる。
外国の文化や宗教などですね。海外に行くと、逆に日本人の行動を不審がられたり。
正月にアフリカの砂漠を歩いてきたんですが、そのときにマスクをしていったんですよ。空気が乾燥していると言われていたので。そうしたら現地の人から日本人はなんでマスクなんてするんだ、と不審がられたんです。
あちらでは、口元がコミュニケーション上、重要なパーツなんですね。口元を隠されると表情が読めない。すごく気持ち悪いと。
我々からすると、サングラスがそうですね。この教室にいる全員が、サングラスをしていたら、みなさんどう感じるでしょう。『メン・イン・ブラック』かと思うでしょうね。何の講座なんだと。
でもヨーロッパの方々からすると、本当に紫外線がキツくて辛いわけです。で、目を隠す代わりに、口元の表現が重要になる。
「目は口ほどにものを言う」日本人に対し、彼らは「口は目ほどにものを言う」わけです。
こうなると、礼儀の定義も変わってくる。口元を隠すことが無礼な印象になりかねない。
こんな風に、異なる文化が接触すると、とっさに定義しなおさなければならなくなる。
なのに、文化とか宗教とか、膨大な歴史が背景にあるものというのはとっさに理解できないものが多い。しかも定義に定義が積み重なっていったものなので、最終的な定義だけ聞かれても、首を傾げてしまう。そもそもなぜ日曜日は休まなきゃいけないんだっけ、とか。
その昔、イスラエルでは日曜日に働くと咎めを受けたりしたそうです。罪だったんですね。その日は経済活動を停止する。なぜそうかは、歴史を学ばないとわからない。いや、下手をすると学んでも理解に苦しんだりする。砂漠での生活が日本人には理解しづらいからです。
イスラムの人は、逆に日本の「八百万の神」がさっぱりわからない。
日本人は、「木にも水にも山にも湖にも神はいる」と言い張る。
イスラムの人は、「うち、そもそも砂漠と太陽しかないんだけどね」となる。
定義の大前提が異なると、共通の定義を見出すのがとても難しくなるわけです。
で、最後がこれ。
最も難しい、人によってあきらかに定義が異なるもの。
正義や悪とか、経済観念とか、教育方針とか。たとえば経済観念ですが、500円を高いと思うか安いと思うかで、そのほかの常識が全て異なってくる。
教育方針。これもゆとり教育だなんだと言われてましたが、いまだに最善の教育の定義が定まらない。日本はだんだん教育の現場が迷走している印象です。将来AIでもできるようになることを大学で教えるのはいかがなものか、なんてツッコミがありますが、そう簡単に定義できません。しかし早く定義しないと、どんどん教育された人たちが輩出されて、社会に出てきちゃう。そうなると一人一人が個別に答えを探すしかない。まあ、それでいいんだという議論もありますがね。
このように、定義というのは本当に難しいことなんです。
定義を巧みにできる人が、エッセイストとして人気を博したり、すごくわかりやすい解説で有名になったりする。あるいは、宗教家とか、経済家とか、斬新な定義を旧来の定義にまぜあわせて、受け入れられやすい定義を示したりする。
第一回でやった、ゴリラです。着眼されず定義もされないものというのは、人間にとって存在しないものなんですね。言葉にならない限り認識されないと言い換えてもいい。
これは繰り返しになりますが、容易に認識できないものを、なんとか言葉にすることで、人間は様々なものごとを実現してきました。社会というのは、建築物をいっぱい作れば社会が生まれるわけではない。法律があり、常識があり、習慣があり、歴史がありと、定義が膨大に積み重なって、社会というものが定義され、存在するものとして扱われる。
テクノロジーなんかも、仮説と証明という、目に見えないという点ではひじょうに高度な定義の力で成り立っている。それをなんとかやったことで科学が発展した。
小説もエッセイも、みなさんそれぞれ頭の中に何かあって書きたくなるんだと思いますが、誰にでも読めるよう定義するのは並大抵のことではない。定義する力が足らなければ、形にはなりません。
どうすれば定義をする力が養われるか?
すでに課題をお見せしましたが、身近なものをその言葉を使わずに改めて説明してみましょう。そもそもなぜそれは説明できるのか。誰が最初に説明したのか。それがそれである条件は何か。雪はどこまで雪か。夏はなぜ夏と呼べるか。恋と愛の違いは何か(笑)。
辞書などで説明されている事柄を参考に自分なりの言葉で説明してみてください。
昔海外に住んでいた頃によくやった遊びに、21の質問というのがあります。
誰かが何かを想像する。周りにいる人が質問し、それがなんであるか明らかにしていく。この手より大きいか? これより温かいか? 床より固いか? とかね。ぎゅうぎゅうやっていくと、だいたいわかるんですよ。簡単なものだと5~6ぐらいの質問で判明したりする。
人間というのは輪郭を固めていくことで物事を理解しているんだなというのがわかると思います。それそのものではなく、たいがい輪郭を見ている。何かで囲まれているからこそ、その意味の中心点がわかる。
これはこれではない、こうかもしれないけれど今はこうだ、みたいないろんな条件が積み重なったことによって、あ、これなんだとわかるわけです。こういう定義の仕方も一つ、しっかり学んでみてください。
もし例文が手元にほしい方は写メ……じゃなくて、撮影してください(教室・笑)。
では本日の講義は以上になります。質問がある方は挙手してください。
Q:先生が文章を添削される際に、ここはもう少し具体的に書いた方がいいとか、講評されているんですけれど、さっきお話しされたように日本語はぼかす表現が多いですよね。うまい小説とか文章を考えるとそのバランスが綺麗だなと思うんですけれども、文章のバランスについて、出し過ぎず、引きすぎずというか、どういったところに気をつけて書いたらいいでしょうか?
A:それは対象によって変わります。たとえば何かの映画の感想を語るときと、その映画が公開されている状況を語るときで語るものは変わるわけです。上映館は何館ありますとか客観的な事実はたやすく述べることができるけど、その映画にどんな価値があるかとなると、一概に言えない。自分なりの答えを定義するしかない。そのとき、相手に何を伝えたいかを、はっきりさせられるかどうか。これができるようになることが文章家の道なわけですけれど、まずは確実なことから学んでいきましょう。主語をはっきりさせると読みやすくなる。質疑応答を一対一にすると視点や段落がはっきりする。そういう基本を身につけ、応用しながら、自分ならではの文章を見出しましょう。
Q:課題について、何かを定義すると課題を出していただきましたが、文字数とかありますか?
A:これまでと同じ200字~400字ぐらいで課題を考えてみてください。あまりにも長いと書くのも大変だと思いますし、僕も読むのが大変なので。読んでいて楽しんですけど(笑)。ただあんまり短いとどうかな。短く定義するのは技術的に難易度が高いので。あとできればみんなが知っているもののほうがいいかもしれませんね。万人が知っているもののほうが定義する文章は書きやすいのは当たり前なんです、みんな答えを知っているから。まずはそこから練習したほうがいいと思います。
あと、あまり抽象的なものになりすぎないほうがいいですね。たとえば「勇気」とか。それこそ万人がいろんな定義をしているものに挑戦できると思った方はぜひやっていただきたいですが。重要なのは人にわかってもらうことです。意味不明なほど斬新な定義というのは、実は簡単です。日本語にうまくやってくれる力があるんですよ。それは後回しにし、まずは誰もがわかる文章を心がけてください。
Q:前回の課題についての質問なんですが、前回の課題を改めて定義するということでしょうか?
A:いえ、今回の課題は、前回の課題とはまた違うものを選んで下さい。辞書ではどう書いているかなとか、いろんな人に、これってなんて説明している? って聞いてみるとか。あるいは実際にしゃべってまわりの人にこういうふうにしゃべってなんだかわかる? とかやってみてください。そうすることによって、定義するってこういうことなんだなとわかると思います。
Q:たとえばシャープペンシルについて説明して、これはカメラですというのはNG?
A:そうですね。NGです。この課題でなぜそうするのか、よくわからなかったんですが(笑)。自分以外の第三者が理解し、共感しうる定義をして下さい。再定義ではないですよ。
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