見出し画像

NTムック 蒼穹のファフナー短編

 こちらはニュータイプ誌の副読本『Newtype Library』が刊行された際に書き下ろしたものです。
 当時は、劇場『蒼穹のファフナー HEAVEN&EARTH』の公開前後であったため、作品世界や、人物の紹介を主とする意図のもと書かれています。
 また、物語上の大きな起伏をあるのではなく、主人公がある状態から別の状態へ移り変わろうとしつつも、そうはならない、というブーメラン構造にすることで、作中で主題が完結する構造になっていることが特徴といえるでしょう。

画像1

 『Preface of 蒼穹のファフナー〝HEAVEN AND EARTH〟』


   十七才、夏――戦争の再来。
   俺たちはみな、そこにいた。
   いなくなったはずの者まで。
   そうすることを選び続けた。
   その命を使ってまでも――


「なんでそれを選ぶ!」
 一騎の口から迸る烈しい叫びが、機体のクロッシングを通して相手に叩きつけられる。
 途端に、一騎の喉から右側の胸の奥にかけて、痛みが湧いた。
 沢山のガラスの破片を呑み込んで、内側から肉を裂かれるような、幾つもの鋭い痛みだ。
 喉の奥が――右側の肺が、結晶化しつつあった。
 痛みはすぐに消え、また別の場所に同様の痛みが生じる。いったん痛みを覚えた部分は、二度と痛まない。それどころか何も感じなくなってしまうのだ。
 敵との戦いで最も怖れねばならない症状が――肉体的な同化現象が――急速に進行しつつある証拠だった。
 だが構わず、一騎はなおも機体との一体化に集中しながら、あらん限りの怒りを込めて叫んだ。
「痛みばかり増やす神様に、なんで逆らわない! ――くるす来主!」
 同時に、地を蹴って飛んだ。
 跳んだのではない。飛翔した。暗い空をもたらす分厚い黒雲に向かって。竜宮島の空を覆い、全環境を枯死へと導く、文字通りの暗雲――敵が構築したフィールドへ。
 その暗雲の下で漂い、こちらを睥睨する、巨大な敵へと真っ直ぐに突っ込んでいった。
 宙へ躍り出たとき、体の中で、めりっ、と何かが裂ける音がした。
 一騎の脇腹から、肉を貫いて、結晶化した内臓の一部が飛び出したのだ。
 結晶は腕からも脚からも生えてきている。体を内側から引き裂かれる、目もくらむような激痛に襲われながらも、一騎の口から発されるのは戦意に満ちた叫びだけだ。
 無事に帰れるとは思わなかった。
 これほど同化現象が進行した状態で、無事でいようなどと思うこと自体、馬鹿げている。
 今、目の前に迫る敵が、その致命的な症状をもたらしたのではない。
 決して乗ってはいけない機体に、一騎が乗ったからだ。
 ザルヴァートル・モデルに。
 竜宮島の守護神として配置された十二機のノートゥング・モデルの、重要な設計思想を継承していながら、完全に異質で、今なお未知の現象をもたらす空前絶後の機体だ。
 かつて、一騎が自分専用の機体として執着した、あのマークエルフ十一番機が解体されて製造されたもので、当時の機体色であった漆黒のボディは、今や銀に近い純白の輝きを放っている。だがよく近づいて見ると、白い輝きの中に、うっすらと美しい黄金色や虹色を帯びているのがわかる。敵の色――フェストゥムの輝きを。
 もともとノートゥング・モデルは、機体の中枢に、敵と同種のコア核を――〝ミールのかけら〟と呼ばれるものを――内蔵している。その得体の知れないしろものを心臓部にやどすお陰で、敵の超物理現象に耐える力を、機体の性能として発揮することができるのだ。
 ただし、生命を無に帰す力が充満する機体に乗って、人体が影響を受けないわけがない。多くのパイロットが、敵ではなく、他ならぬファフナーがもたらす同化現象の犠牲となった。実際に一騎は見たことはないが、末期症状においては、もはや何も残らないらしい。
 パイロットの結晶化した肉体が、内側から破裂し、粉々になるのだ。
 残るのは、僅かな結晶物と、そいつがいたという記憶だけ。
 今では、機体とパイロットの両面から、そういう事態を避けるための手だてが幾つも用意されている。改良が重ねられたコクピット・ブロックや、パイロットの肉体維持のための投薬といったものが、人間を綺麗な宝石のかけらに変えてしまうことを防いでくれる。
 ザルヴァートル・モデルを除いて。
 この怪物は、〝ミールのかけら〟を、まったく違う目的で心臓としている。
 敵の力を防ぐことが主眼なのではなく、可能な限り、敵そのものになるためなのだ。
 人間が人間の意志を持ちながら、いかにしてフェストゥムと同じ存在に――いや、それ以上の力を持った、怪物になれるか。
 そういう機体だった。
 周囲にある物質を――空気にふくまれる微細な塵まで同化し、爆発的なエネルギーに変えてしまう。貪欲で、凶暴で、見境のない機体だ。
 この機体設計のプロジェクトのリーダーだった男に、一騎は島の外で会ったことがある。
 男は、かつて竜宮島の一員で、優れた技術主任で、加えて、遠見真矢の父親だった。
 そして狂気の一歩手前のような思いを込めて、機体を〝ザルヴァートル救世主〟モデルと名づけ、敵との戦いでいなくなった。
 後には機体だけが残された。
 一騎の機体。マークザインが。
 その一体だけが――そのはずだった。
 絶大な力をもたらす代わり、乗り込んだ者を貪り食らうことを虎視眈々と狙うマークザインに、己の血肉を一秒ごとに捧げながら、一騎は、接敵の一瞬へ、心を振り絞っている。
 暗黒の敵へ、手にした武器を振りかざした。
 マークザインの右手は、長大なルガーランス雷撃槍を完全に同化せしめ、もはや本来の装備とはかけ離れたしろものに変貌させている。それは、マークザインの一部であり、〝ミールのかけら〟の延長物であり、激烈な超物理現象を現実のものとする、魔法の槍だ。
 その槍の切っ先を、猛然と振るった。
 ――帰れなくていい。
 痛烈な意志が、切っ先にみなぎるのを感じた。
 ――お前が帰る場所を、守れさえすれば。
 あまりに特殊すぎて乗り手は一人しかいない、特番機にして〝暴れ馬〟たるマークザインが、一騎の意志に完全に従い、その貪欲な力を敵に向かって存分に発揮した。
 敵は、真っ向から、マークザインの槍を受け止めにかかった。
 輝きがあった。
 一騎の目は、過去の同化現象の後遺症で、今や色彩を認識しない。ファフナーの視覚機能を通じて、かろうじて脳内の記憶をもとに、色彩を認識しているに過ぎない。
 それでも、美しいと思った。
 複数の超物理現象が、同時に発揮され、激突することで生じる、黄金色と虹色の輝き。
 これほどの美しさが、悲劇をもたらすなんて信じられないという気分がよぎる。
 心のほとんどは、眼前にいる敵を屠ることに集中しているにもかかわらず、一片の希望の念が湧くのを覚えた。
 マークザインと今もクロツシング心の接続を維持しているはずの、この暗黒の敵との間にも、まだ何か、つながれるものがあるのではないかという思い。
 空と海が溶け合う一線のように――本来まったく違う者たち同士でも、遙か遠い未来の地平で歩み寄り、理解し合えるのではないか、という痛切な希望。
 その儚い希望を感じながらも、一騎はただ、相手の存在を食らい尽くすために力を振り絞り、そして唐突に、何も感じなくなった。
 ――同化現象の、末期症状だ。
 終わりを意味するその言葉を、心のどこかが呟いた。
 ――総士。
 自分の血肉が、一瞬で、生命の熱を失うのを感じた。
 肉体の全てが結晶の塊と化して破裂する寸前、巨大な暗闇に呑み込まれる感覚があった。
 思っていたのとは違う、貪欲でも凶暴でもない、穏やかで暖かな暗闇だ。
 そしてその暗闇の向こうに、青く澄み切った輝きの広がりを見た。まるで夢の中のように、色彩感覚を失っているはずの一騎の視覚能力に、それがまざまざと認識されていた。
 海――
 いや、空だ。
 何もかも一緒くたに溶けている。
 自分の存在が、まるで優しい揺りかごの中に入れられ、大切に守られるような感覚。
 意識をブランク喪失させ、眠りながら機体を自動操縦にするときのような安らかさを感じた。
 痛みが消え、悲しみも消えた。
 傷つけ合うだけの日々が再び訪れたことへの怒りも、その日々を迎えておきながら、同化現象の後遺症で、ろくに戦うこともできなかった自分への怒りも――綺麗に消えてゆく。
 何もかもが消え去り――ただ記憶が残った。
 失われた仲間たち。
 帰って来ると告げた友。
 彼らの存在があったからこそ、得ることのできた、平和のひととき――いつか打ち破られることを怖れつつ、だからこそ誰もが可能な限りの穏やかさで享受しようとしていた、大切な平和。
 いつ自分の命を使うべきか、今こそ自分がいなくなるべき瞬間なのか、といったことを、敵との対話の中で探り続けるなどということのない、安らぎの中に、一騎は、いた。
 信じるべきは友の帰還であり、敵の再来ではない。
 そう心に言い聞かせていた頃の自分が、そこにいて――そして、いなくなった。
 

  2

 夢を、見ていた。
 かざした自分の手さえ見えない、暗い海に、ざぁん、ざぁん、と波の音が響く。
 一騎は、一人、手足が痺れるような冷たい海を、泳いでいた。
 泳ぎながら、
(この夢か――)
 心は、それが何であるか、はっきりとわかっている。
(久々に、瞑想訓練をしたから――)
 ボーダーラインのビジョンが、精神に反響しているのだ。
 ファフナーと一体化するための心の訓練――自分の心のありようを知るためのものだ。
〝ボーダーライン境界線〟と名づけられた、現実と精神のまさに境界に現れる心象を、自分自身だけでなく、仲間たちにも知らせるのだ。そうすることで、クロッシングという特殊な通信手段を、混乱することなく自由に使いこなすことができるようになる。
 心象は、どれも海のイメージに置き換えられる。どんな海を心の中に持っているかによって、その人間の現実との接し方がわかる、というのが大人たちの考えだった。
 カテゴリーはだいたい五種類くらいにわけられていて、陸地や船があって「海の上」に立っているか、それとも「海の表面」を泳いでいるか、あるいは「海の中」にいて水面を見上げているか、という三種類が、一般的らしい。
 残り二つは、ちょっと特殊で、遙か「海の上空」を飛んでいるか、もしくは恐ろしく深い「海の底」に沈んでいるか、という区別がある。
 区別はわかるが、いったいどういう理屈で何がわかるのか、実のところ一騎はいまいちよくわかっていない。過去の、偉い芸術家たちや作家たちが遺したという、ボーダーライン・カテゴリーと呼ばれる作品を観たり読ませられたりして、特に共感するものを選びなさい、などという心理テストを、パイロット選抜最初期に受けたこともあった。
 作品はどれも海に関するもので、気分的には、『白鯨』がけっこう面白かった。ボロボロになってクジラを殺そうとする男の物語。あるいは、フェストゥムという宇宙の彼方から来た敵を倒そうとする自分たちの行為になぞらえて読んだからかもしれない。
 他にも、ほとんど裸の女神が大きな貝から現れた絵とか、大海原をさまよう船の物語とか、荒れ狂う海をイメージしたというやたら壮大なクラシック音楽といったものを、鑑賞させられたりした。どれも、すごくよく出来てるなあ、何を考えてこんなものを作ったんだろう、という感想ばかり抱いた。
 そしてその中の一つが、一騎のボーダーラインの分析テーマとして設定されたのだ。
 一騎個人は、どうもぴんと来ないのだが、そういうことらしい。それで、大昔の日本人の小説家が遺した作品を読まされた。共感できるところもあったし、できないところもあった。「自分は人間として不合格」だとかいったことを延々と主張する作品も読んだが、読んでる間中ずっと気が滅入って大変だった。しかも、その小説家が、でたらめな生活を送り、最後には自殺したと聞いて、なんとなくショックを受けたのを覚えている。
 結果として、一騎のボーダーラインは、外交的・探求型・〝さまよえるオランダ人〟的カテゴリー、うんぬん、に属する、と診断された。
 さっぱり意味が分からないが、そうらしい。診断したのは、まだ子供を授かる前の、パイロットたちの優しいカウンセラー的な存在でもあった弓子先生――真矢のお姉さんだ。
「珍しいわねー。こーいう気質の人って、普通、海の上にいるのよ。船とか無人島とか」
 弓子先生は、ちょっと考え深げな様子になり、一騎の目の奥を探るように覗き込んで、
「きっと、後天的なものね。最初は海の上のどこかにいたけど、そこからいっぺん落ちたのかもね、一騎くんは」
 と言った。
「落ちた?」
 思わずぽかんとなった。人の心を読むということにかけては、ショコラに劣ると自負している一騎だが、抜群の運動神経にだけは恵まれている。生まれてこの方、誤ってどこかからか転落したなどという経験は皆無といってよかった。
 ちなみにショコラというのは、かつて翔子と甲洋が島で見つけた犬だ。
 二人がいなくなった後、危うく剣司のお母さんに実験動物にされかけたりもしたが、結局、島に来た赤毛の少女――カノンの〝相棒〟になった。単に飼うのではなく、〝パートナー〟として、ものすごい訓練に次ぐ訓練を施したのだ。
「犬は、躾けられて初めて犬になる」
 というのが、カノンの主張だ。戦争の前に、カノンが住んでいた国の常識らしい。
 それで、ショコラは、一騎にはどういう理屈なのかもわからない様々な訓練を施され、鍛え上げられることになった。お座り、などというのは、カノンにとっては芸ですらない。カノンの指示一つで素早く動き、確実に待機し、ちゃんと戻ってくる。西尾商店のおばあちゃんと符号を決め、買い物までできる。首に買い物袋をぶらさげ、吠え声の回数で、カノンに指示された商品を買ってくるのである。
 最初はみんな、厳しすぎるんじゃないか、ショコラが参ってしまうのではないかと心配したものだ。しかしそのうちカノンの口笛一つ、かけ声一つで、人間のように機敏に行動するようになったショコラを見て、大いに感心させられた。
 何より、カノンは理屈抜きでショコラを愛してくれていた。それがみんなにとって安らぎになるのだ。いなくなってしまった翔子や甲洋の存在を、守ってくれているみたいで。
「――落ちたって、どこから落ちたんですか?」
 ショコラとカノンの奮闘はさておき、自分のことについて一騎は訊いた。
 弓子先生はあっさり肩をすくめた。そこまでわかるわけないじゃない、というのだ。
 一方的に人を転落者扱いしておいてひどいと思うが、こういうマイペースな人物でないと、大勢のパイロットの心と向き合い続けるなんてことはできない。
 さもないと子供たちが抱える苦しみに引きずり込まれて、先生のほうが参ってしまう。
「この場合、そもそも何の上に乗っていたかは、興味深い素材だけど、重要ってわけじゃないの。問題は、なぜ落ちたか。そして、なぜ落ちたままでいようとするか、よ」
 まるで幸せの秘訣でも教えるみたいな調子で、弓子先生はそう言ってウィンクしてみせた。どこまでも気楽な調子を装うことで、子供たちに安心して自分の心と向き合うことを促しているのだ。
 けれども、一騎にとって答えは簡単だった。
 幼い頃に、人を傷つけたからだ。
 総士の左目から光を奪ったのだ。
 しかもそのことで、誰にも責められなかった。総士自身が、一騎にそうされたことを誰にも言わなかったからだった。
 だから、きっと、せめて自分を罰するために、暗い海に自分から落ちたのだろう。
 そして、灯りのともる場所に戻ることを自ら禁じたのだ。
 総士と一緒に戦うようになってからも、ずっと。
 敵を傷つけ続けることにも、仲間が傷つけられることにも、平気でいようとして。
 誰かがいなくなり、そして自分たちだけ生き残った罪悪感に耐えるために。
 総士がいなくなった後でも。
 一騎は、夢の中で、暗い海を泳ぎ続けた。どこかに灯りがあることはわかっていた。頑丈な岩の上に建てられた、揺るぎない生活の場所。賑やかで暖かな場所が。そこが自分のもといた場所であるという認識があった。でも、そこに行こうとは思わない。
 代わりに、他の海を探した。
 一体化した機体を通して、お互いに知ることになった、仲間たちの海を。
 それは戦いの記憶とともに、いつまでも一騎の心の中に存在し続けている。
 ほどなくして、辺りが急に明るくなった。暗い海が、青く澄んだ海面になり、浅瀬に珊瑚礁が広がっているのが見えた。一騎はそれに足をかけ、登った。
 暖かな陽射しが、冷たくなった体を温めてくれる。
 剣司の海――珊瑚礁の島だ。
 一騎の本来持っていた、岩の上、というほど頑丈ではないし、むしろ他人が歩くだけで壊れがちな珊瑚礁だが、優しげで、穏やかで、のんびりとした陽気に満ちている。
 過酷な戦いが続いていた頃は、この珊瑚礁も、大半が真っ黒に腐ってしまったことがあった。それでも今は、もとの陽気を取り戻している。それが、剣司の強さなのだ。
 珊瑚礁を歩いてゆくと、再び海面に出くわした。
 鏡のように澄み切った水面だ。
 それが、橋のように海を真っ直ぐ渡っている。
 真矢の海だ。
 波紋一つ起こらず、波は遠くで揺らめいていてこちらには届かない。おそろしく強い意志――岩や珊瑚といった固定化したイメージがなくとも、不安定な波をしっかりと押さえつけ、その上に立ってしまえる心。
 代わりに辺りは霧が漂い、孤独も抱えている。傲慢な父親の激しい意志の波からも、穏やかだが底なしに沈んでしまいそうな母親の使命感に満ちた水底からも、距離を置いたせいで培われた心なのだ。
 以前は、冷たく不安を煽る霧だったが、今は清々した透明感に満ちている。凛然とした、気高さのようなものも感じる。霧が優しく辺りを覆うことで、他の何ものにも煩わされずに、自分を真っ直ぐに見つめていられるのだ。あるいは、人にもそうさせてやれる。
 総士とは別の意味で、一騎が最も頼りにしている心だった。
 透明な水面の上を、魔法使いにでもなった気分で歩いていると、半ば予期していた通り、霧の彼方から、マストが軋む音を立てて、巨大な船が現れた。
 カノンの海――大海原を進み続ける船だ。
 一騎が診断された、〝さまよえる〟なんとやら、そのままの心象だった。
 以前は、朽ち果てた船の姿だったが、今は帆も船体も真新しく、ぴかぴかだ。
 新しく手に入れた生活を、カノンならではの生真面目さで磨き続けている証拠だった。
 船の窓はどれも灯りがついていて、近づけば賑やかな笑い声が聞こえてくるはずだ。羽佐間先生やショコラとの生活だけでなく、学校でも、カノンは生徒会の副会長として頑張っていて、後輩たちを〝鍛え上げる〟と称していつも仲良くしている。
 良かったな、と思う。
 羨ましい気持ちもあるが、カノンの船の周りを漂うものを見れば、そんな気持ちは吹っ飛んでしまう。
 昔と変わらず、宙に浮かぶ、小さな炎の群れを、引きつれているのだ。
 死者の記憶を――一つ一つの炎が、カノンの知る死者たちの魂そのものだった。
「〝セント聖エルモの火〟だ」
 とカノンが、自分で告げた魂たち。
 海で死んだ者の魂が、航海する者を守護するのだと。人生の海で、死んだ後もずっとカノンを守ってくれる炎たち――最初は自分を死の世界に導こうとしているように思えた、とカノンは言った。それでも炎たちを怖がったり嫌がったりはしなかった。カノンは真矢と同じくらい大切に、真矢とは違うやり方で、かつての記憶を守り続けている。
 だからだろう。今ではカノンの船のほうが、炎の群を率いているように見えるのだ。
 一騎は、目の前を横切ってゆく船と炎の群を見送りながら、誰がいるのだろうと思った。
 道生さんの炎はどれだろう。
 衛の炎は。
 衛のお母さんや、剣司のお母さん。
 あるいは、翔子や、甲洋の炎もあるだろうか。
 一騎は再び海を探した。澄明な水面の端に来て、海へ入った。途端に何もかも真っ暗闇に包まれ、自分の海が戻ってきた。
 そうしながら、いなくなった者たちの記憶を懐かしんだ。
 空を見上げれば、おそらく翔子の海が見つかるだろう。果てしない空から、海を見下ろすことが、翔子の瞑想訓練の時の心象だった。
 逆に、海に深く潜っていけば、甲洋の海に出会える。海面は分厚い氷に覆われて、外に出られず、暗く沈んでゆく心――だが本当に深く潜っていけば、そこに甲洋の本当の心がある。暖かな海流が、氷の下でうねっている。それは剣司の珊瑚礁の海と同じくらい穏やかで、いつまでも暖かい流れに身を委ねていたくなるような心象だ。
 あるいはこのまま泳ぎ続けて、他の者の海に再会するのもいい。
 今とは違う、咲良の海――怒りと憎しみで煮えたぎっていた地獄のような海は、今、どうなっているだろう。自分の体との戦いのほうが大変で、咲良がまたパイロット候補生として瞑想訓練に参加するようになるとは誰も考えていないようだった。
 それとも、衛の海が近くにあるだろうか。
〝海の上にいるタイプ〟として真矢と同じくらい珍しい、大きな波に乗っているのが彼の心象だった。どんなパイロットでも勝てない、生粋の勇猛果敢さを秘めた小柄な少年。その素朴な優しさを、一騎は懐かしく思った。
 もしかすると、最後の戦いを生き延びてくれていたかもしれない少年の優しさを。
 海に落ちた自分の代わりに、生きていて欲しかった。そう思わせるゆいいつの相手。
 最後の戦いに参加した真矢、剣司、カノン――みんな、心は、海の上にいた。
 家族との思い出とか、人との絆とか、死者への哀悼といったものを、心象の核にする者たちだけが、生き残った。
 むろん、それはただの偶然だ。
 でも、何かの意味があると思いたかった。
 やりきれない心の苦しみを、いっときでもいいから宥めてくれる気がして。自分が生き延びて、総士が帰って来られなかったことへの、納得できる理由を今なお探し続けて、一騎は暗い海を泳ぎ続けているのだ。
 泳ぎながら、無意識に海の中へと潜っていた。
 総士の海がどこかにないかと思って。
 それがどんなものであるか、一騎は実際には知らない。総士と一緒に、パイロットとしての瞑想訓練を行ったことなどないのだから。けれども総士自身が話してくれたことがあったし、戦闘中はジークフリード全統括システムを通して、クロッシングを何度も行ってきたのだ。
 自分の心のどこかに、それがあってもおかしくなかった。
 竜宮島から付近の離島へと高速で移動する、アルヴィスのバーンツヴェックのように――それを縦にした、大きな塔のようなものの中に、僕はいる――と、かつて総士は言った。
 海底から空まで貫く、大きなガラス張りの塔だ。
 その中を自由に移動して、空も、海の中も、見ることが出来る。
 でも、空にも海にも出て行けない。出口のない塔の中で、一人きりで生活している。
 自分が塔から出てしまえば、きっと塔は壊れて海に沈んでしまうだろう――それが、パイロットたちを死地に送り込んでも、冷静でい続けねばならなかった総士の心象だ。
 また、その塔の下層では――大切な記憶が海に沈んでいる場所では――しばしば雪が見える、と総士は言った。
 マリンスノー――本来は、暗い海中に降り積もる微生物の死骸だ。
 総士の心象において、その海底の雪は、まさに死者たちの記憶そのものだった。
 一騎たちが実戦配備される前に、人知れず島のために戦った者たち。その最後の生き残りは、海底で自ら命を絶ったんだ――そう、総士は話してくれた。自分たちが帰還することで、敵に島の位置を知らせてしまわないよう、敵ごと吹っ飛んだのだと。
 その絶望の暗闇を、総士は背負い続けていた。一騎たちの戦いばかりでなく。一騎が知らなかった、過去の戦いまで背負っていたのだ。その恐ろしい暗闇に比べれば、自分が抱く暗い海など、ちっぽけなものだ――そう思えるほどの恐怖と戦い続けた者たちの記憶を。
 そうした総士の心のありようが、自分の海のどこかにないか探すため、暗闇に目をこらしたとき――
 幾つも光るものが見えた。
 咄嗟に、総士が教えてくれた、マリンスノーかと思った。
 だが違う。まるで星だった。にわかに無数の小さな光の粒が湧き上がってくるのだ。その一つがものすごい勢いで迫ってきた。
 ふいに、一つだと思ったものが、実は沢山の何かの群であることがわかった。
 ――なんだ!?
 心が驚きの声を上げた途端、それが来た。
 沢山の魚の群だ。その向こうに色とりどりの魚影が見えた。あるいはクラゲたちが。海蛇が悠々と泳ぎ、クジラらしき巨大な影が遠くで移動している。海の生き物たち――中には見たこともない、大昔に絶滅したような生物の姿もあった。
 いつの間にか辺りは明るく輝いている。そして青く澄んだ海のまっただ中に、とても数えきらないほどの生命が溢れかえっていた。
 ――誰の海だ?
 こんな心象は聞いたこともなかった。もちろん自分がこんなイメージを抱くはずがない。総士のものとも思えなかった。
 いったい何が起こっているのか。
 ――皆城乙姫。
 咄嗟に、その名を連想した。
 生命の循環という現象を――その現象にまつわる様々な概念を、この島と敵の、両方に教えるため、自分自身を捧げた少女の名。
 だが、彼女の心象にしては、狭い気がした。
 もっともっと広大な心象を――島の全土を、そこに住まう人々ごと、あっさり包んでしまえるほどの心の持ち主だったはずだ。
 この生命の海ですら、彼女をあらわすには小さいのだ。
 これは、誰か他の者の海に違いない――だが、いったい誰だ? 
 なぜか妙な戦慄を覚えながらも、一騎はさらに潜っていった。そうして生命が溢れ出てきている場所を見つけ出そうとして――
 いきなり、ひっくり返った。
 生命の群が消え、にわかに一面の青さが広がった。
 ――空?
 そんな馬鹿な、と心が叫んだ。海の底が空とつながっている。いや、上下すらない。
 ほとんど〝無〟に近かった。恐ろしいほど何もないのだ。それでも、世界に満ち渡る青さだけがあった。途方もない美しさ――生命の星の輝き。大気と、海が、一緒くただ。
 もはや海ですらなかった。重力の方向すらめちゃくちゃで、異様すぎた。その心象からは、〝私は大気と海が存在する惑星に暮らしています〟という認識が伝わってくる。
 ――そんな人間がいるのか?
 というより、だんだんと、その海が誰かの心象であるというふうに思えなくなってきた。
 皆城乙姫という存在を連想することさえできない。
 ――これは、心なのか?
 瞑想訓練の際に使用されるコンピュータの内部で生じた、バグか何かのように思えた。
 というより、きっとそうだ。
 戦闘後も、頭の中に、機体のノイズが残っていることがある。ときにそれはフラッシュバックとなり、幻の痛みや、熱さや、悪寒などを引き起こすのだ。
 これはつまり、瞑想訓練で明らかになった自分や誰かの心象が、めちゃくちゃに重なり合ったしろものに違いない。そう思った。
 ――また、薬を山ほど出されるな。
 眠りから覚めようとする一騎の心が、そんな呟きを漏らした。
 遠見先生は――真矢の母親は――子供たちが感謝する以上に、ちょっと引いてしまうほど、同化現象の治療薬の開発に一生懸命だ。期待したよりも薬の効果が出ないときなどは、遠見医院の診察室で人知れず泣いてしまうらしい。人知れずと言うより、まさに治癒の真っ最中である咲良が、一度だけ、うっかりその様子を盗み見てしまったらしいのだが――
「あの人さぁ……孫、いるよね」
 診察で一緒になったとき、咲良は、真顔で一騎に言ったものだ。
 孫というのは、弓子先生と道生さんの娘だ。今はもう二歳で、名前は、美羽。誰もがその子を可愛がった。真矢はかなりひんぱんに弓子先生に子守を手伝わされてへとへとになっているときもあるが、カノンなどは、その子と遊ぶたび、必ず帰り道で涙ぐんでしまう。きっと道生さんのことを思い出しているのだろう、と一騎は思う。
 遠見先生にとって、弓子先生は娘であり、そのまた娘はつまるところ孫なのだが、
「なのに、なんか……真矢より女の子に見えたわけよ、泣いてる遠見先生が」
 咲良は、「が」という最後の一語をやたら強調した。
 信頼すべき大人たちの弱さを見てしまうのは、けっこう衝撃的なことだ。とはいえ咲良が言っていることは、それとはちょっと違っていた。
「まさか……あの人、若返る薬とか作って、自分で使ってたりしないわよね。あたしたちで実験とかして」
 さすがにそれは、ない、と一騎でも断定できた。遠見先生のほうが、そんなことを言われて、ものすごいショックを受けるんじゃないかと心配もした。
 人の気持ちを察することにかけては、どんどんショコラのほうが達者になっていく一騎だが、なんとなくわかることもある。特に、父親の史彦と一緒にいるときの遠見先生を見ていると、真矢ではないが、〝自然と伝わってくる〟のだ。
 遠見先生は、実は、若く見られたり童顔だと思われたりすることを、けっこう気にしていて、咲良と一緒にいるときの剣司なみに、大人っぽくなろうとしているようだった。もうとっくに大人なんだから変な話だが、そうとしか言いようのない様子なのだ。
 それはつまり、もし若返る薬などというものを遠見先生が開発したあかつきには、周囲の人々全員に惜しみなく配り、自分は決して使ったりしないだろう、ということだった。
 一騎は、実際にその薬を飲む自分を想像した――というより次の瞬間には、夢の中で咲良と一緒に、その薬を飲まされていた。過去二年間、同化現象の後遺症を癒すため、山のような拮抗薬や治療薬と付き合ってきた記憶のせいだ。そもそも夢という不安定な状態で、そうそう一貫した意識を保てるわけがない。
 薬の苦さに顔をしかめながら、先ほど体験した、めちゃくちゃな空と海の心象のことなどすっかり忘れかけたところで、いきなり引き寄せられた。
 薬の夢がかき消され、再び、途方もなく美しく、そして、でたらめな青さの中に呑み込まれていた。
 まるで、こっちに来てよ、と無理やり引っ張られたかのようだ。
 いったいこれはなんだ? ――疑問に思うと同時に、声が来た。
 耳で認識する声ではなく、クロッシングによって脳裏に響く誰かの声に近かった。
 あるいは、そのものだった。
 声は、こう言っていた。
(そこに、君がいる)
 無邪気な声。
 一騎がいることを認識して、喜んでいる声だ。
 その声が、こうも言っていた。
(早く、君に会いたい)
 一騎は、過去の戦いで、総士がクロッシングを通して強制的に機体を停止させたり、操作したりしたときのことを思い出した。そのときと同じように、この声には――澄み渡る青さの心象には、強引にこちらの行動や意識といったものに干渉しようとしている気配があるのだ。
 ――誰だ!
 つながってもいないはずなのに、なぜ、こちらの心に干渉できるのか。
 咄嗟に、今の状況に対する不審感が、怒りに変わりかけた。まさにそのとき、自分の認識が誤っているという気持ちが、どこからともなく降って湧いた。
 ――つながっている。
 クロッシング、という言葉が、これまでになく、胸に迫った。
 理屈はわからない。
 だが確かに、つながっているという感覚――
 それも、今このときだけでなく。
 ずっと、そうだったのだ、という思いが湧いた。
(くるす来主みさお操)
 ふいにまた声がした。
 夢の中の曖昧な意識では、とうてい記憶していられないような、かすかな声だ。
(もうすぐ会える)
 それを最後に、声が消えた。
 青さが消え――放り出された。
 上下の区別もない、ひどく異様で、そのくせ、どこかで共感できるかもしれないと思わせるような、人間とは根本的に異質な、海と空の認識が、一騎の心をかき乱した。
 何とかして本来の夢である自分の海の心象に戻ろうと、手足に力を込めてもがき――

 一騎は、毛布を吹っ飛ばした。
「ん……?」
 なんか上下の感覚がおかしいぞ、という異変を告げる声が、寝ぼけた頭にこだまする。
 ものすごい数の魚がいてびっくりして、空から落ちたんだっけ――
 いや、魚は空にいないし。
 海の夢を見ていた気もするが、漠然とし過ぎていて思い出せなかった。
 感覚のおかしさの理由は、すぐにわかった。頭上に部屋の入口がぼんやり見えるせいだ。昨晩、蒲団にもぐりこんだときは足側にあったそれが、目覚めたら百八十度移動していた。
 すごいな。家が移動したのか。
 まだ半分ばかり寝ている頭が、偽装鏡面を解除する自室を空想した。
 島を透明化するフィールドで、それが解除されると、東西南北がすべて反転するのだ。
 初めてそれを目にしたときは、太陽の位置が逆になっただけで、住み慣れたはずの街並みが見知らぬ土地に感じられたものだった。
 いや――俺んち、そんなすごい機能ついてないし。
 要するに、一騎自身が、寝ている間に半回転したという、小学生低学年以来の壮絶な寝相を披露したことを、ようやく認識した。もぞもぞと時計回りに蒲団の上をのたくるようにして移動し、途中、手探りで枕と毛布を引き寄せ、元の位置に帰還する。
 改めて枕の上に頭を乗せたとき、夢の中で誰かに呼ばれたことを思い出した。
 クロッシングが、どうとか。
 遠見先生に変な薬を飲まされる夢だった気もする。週二回の通院日って今日だったっけ? 違う――遠見医院には、昨日、行ったばかりだ。
 何か用事があったような、と記憶を探り、ああ、終業式だ――とすぐに判明した。
 夏休みが始まるのだ。
 それで、終業式の後、高校の生徒会の集まりに顔を出すよう、剣司やカノンから言われていたのを思い出した。
 生徒会というより、パイロット同士の集まりに。
 別に、パイロットでなければ学校の生徒会の役職につけないわけではない。
 実際、一騎は生徒会の一員ではなかった。だがなんとなく、生徒会はパイロットやその候補生の溜まり場みたいになっているのだ。パイロットが偉いからとか、逆に面倒くさいことを何でも押しつけられる損な役回りだとか、そういうのではなく。
 自然と、そうなってしまうのだ。パイロットたちの多くが、ちょっとした〝平和な行事〟に、とても熱心になりがちだという理由で。
 高校の生徒会長である剣司は、今ではとにかく世話好きで知られている。弓子先生が娘さんを育てるために休職して、カウンセリング役がいなくなってしまった後、後輩たちの悩み相談をしばしば引き受けているらしかった。
 副会長のカノンは、どんな面倒な行事でも自分から準備を――というより指揮を――買って出る。一応、咲良は書記ということになっているが、体のせいで思うように学校には来られない。むしろ学校に来ることができない咲良のために、生徒みんなの同意で肩書きを用意し、いつでも迎えられる席を用意したような感じだった。
 中学の生徒会長の広登は、とにかく目立つのと歌うのと踊るのが好きだ。副会長の芹は、生物部の楽しさをわかってもらうために、生き物レクリエーションをことあるごとに主張しているらしい。どちらも、自分の好きなことを行事にしようと躍起になっている。
 書記の二人である里奈と暉は――双子の西尾兄妹は――逆に、与えられた仕事をきっちりこなすことが好きで、咲良の分まで仕事をしてくれるらしい。
 何しろ高校と言っても、まだ二年生までしかおらず、クラスも二学年合わせて四つしかないのだ。校舎だって学校の一部を〝高校〟と区分しただけで、中学のときと変わらなかった。高校と中学の生徒会はたいてい、一緒になって行事に取り組んでいる。
 それまでは、〝卒業〟して大人たちと働くことを選ぶ子供たちが多かったし、高校で学べることは、ほとんどアルヴィスでも修得できた。
 だから、〝高校〟というもの自体、島にはなかったのだ。
 だが、三年前に島が戦時体制になり、全校生徒が何かしらのアルヴィス勤務を経験してからは、子供たちみんな、学校にいることを望むようになっていた。それが自分たちにとって、何より〝平和〟を実感できる場所だと知ったから。
 ――夏休み、か。
 一学期が終わるまえに、杖なしで歩けるようになったのは嬉しいことだった。そのせいで、咲良が猛烈な対抗意識を抱き、むちゃしそうで怖い、などと剣司からぼやかれたりもした。だが、咲良と違って、どうしても治癒できないものが、一騎にはあった。
 夢の中で見たはずの青さが思い出され、カーテンを開きっぱなしにしていた窓の外のどこかに、その色を見ることが出来ないかと、ぼんやり見つめた。
 白と黒の景色しかなかった。空と窓ガラスが、区別できない。
 目から、色彩というものが消えてしまったのだ。それどころか、窓の輪郭すらぼんやりとしている。このところ一騎の視力は衰えるばかりだった。それこそ遠見先生が懸命に治療のすべを研究してくれていたが、いずれ光を失うことを覚悟すべきなのだろう、と一騎自身が悟っていた。体を支えるための杖がいらなくなった代わりに、どこに物があるか、目の代わりに探るための杖が必要になるだろう、と。
 ――目が悪くなっても、夢の中では色が見えるんだな。
 そんなことを考えているうちに、眠りがすっかり遠ざかってしまった。
 外の空気や物音の感じからして早朝のようだ。目覚まし時計に手を伸ばし、プラスチックのカバーを外してあるそれに、そっと触れて、長針と短針の位置を確かめた。
 指先で、時刻を探るのだ。じっと目を凝らせば、時計の針くらいはまだ見えるが、今のうちから、指先を目の代わりにすることに慣れておこうという気持ちがあった。
 時刻は、五時四十分――いや、四十二分くらいか。
 一騎は、目覚まし時計が鳴る一時間以上前にスイッチを切り、起き上がった。
 てきぱきと蒲団を片付け、ほとんど目をつむったまま、着替えて一階に下りる。
 自分の家なら、何も見なくても自由に動けたし、料理だってできた。そうすることができるよう、物の配置を決めるようになっていたし、史彦も、何も言わないが、一騎の視力に配慮した家具の置き方をしてくれている。
 喫茶〈楽園〉でも、店主の溝口や、放課後のアルバイトとして店員をしている真矢が、同じようにしてくれていた。一騎が働く場所として、不自由がないように。
 いつの間にか、そうなったのだ。人手不足を嘆く溝口の助けを買って出たのが真矢で、料理下手を嘆く真矢の助けを買って出たのが一騎という構図だ。なんとなくすべて溝口の狙い通りのような気もした。何しろ、一騎が店を手伝った最初の日に、もう溝口の手で新メニューと食材がどっさり用意されていたのだ。
 どうも喫茶店の主人という役割を溝口は大いに気に入っているらしい。アルヴィスで行う会議も、俺の店でやったらいい、などと言って、史彦に渋い顔をされたりするほどだ。
 真矢と一騎のアルバイト先。放課後の居場所――かつて、甲洋とその両親がいた場所。
 あの喫茶店が、自分の第二の家みたいなものになるだなんて、思ってもいなかった。
 悲しい記憶ばかり思い出すのではないかという不安も、杞憂だった。
 そう言えば今日も、午後からあの店に行くんだったっけ。そんなことを考えつつ、顔を洗い、歯を磨きながら、鏡に映っているはずの自分の顔を――両目を見つめた。
 真矢が言うには、今の自分の瞳は、紅い色をしているらしい。
 瞳の色素が失われたせいで、そういう色に見えるのだ。
 眼鏡をかけたところで、視力の補正ができないのは、そのせいらしかった。瞳の奥では、ロドプシンとかレチナールとかいうタンパク質だのなんだのが、徐々に、どうにかなってしまっていて、光を感じることが難しくなっているのだという。一度、遠見先生が丁寧に解説してくれたが、さっぱり理屈がわからなかった。わかる必要があるとも思えなかった。
 鏡を覗き込んでしばらくすると、やっと、ぼんやりと自分の顔が見えた。まるで古ぼけた白黒写真みたいだ。それでもまだ、見えることは見えるんだな、と思った。
 眼鏡をかけても駄目なのだ、という事実は、わりとすぐ受け入れることができた。
 自分でも少し意外だったが、考えてみれば、ずっとそうだったのだ。
 受け入れることが、生き延びることだった。
 戦いが始まったことも。生活が激変したことも。一人また一人と誰かがいなくなることさえ、受け入れてきた。
 歯を磨き終えて、タオルで顔を覆いながら、今の自分を受け入れるのは無理なことじゃないな、と実感した。自分一人から、光が失われることは。
 誰かがいなくなることに比べれば、ずっと穏やかに、そうすることができる。
 それに今は、どこへも行く必要がないのだから。敵を倒すために、遠い海の彼方へ旅立つ必要もない。以前は、受け入れ続けることに疲れ果て、平気であろうとすることが悲しくなり、島を出て行こうとしたときもあったが――今は、違う。
 この島にいて、待ち続けると誓ったのだ。
 帰ると告げた者の帰還を。
 ずっと、いつまでも。



 
 すっかり身支度を整えたところで、ふと、山に行こうと思いついた。早めに朝食を用意したところで、どうせ史彦が起きるまでの間に冷めてしまうだろう。
 一騎は冷蔵庫からリンゴを一つ取り出し、ほとんど目をつむったまま包丁で皮を剥いた。綺麗に八つに切り、芯を取る。朝食までのつなぎだ。
 台所に立ったまま二つほど食べ、半分を、史彦が早めに起きてきたときのために皿に置いておいた。そうして、残り二つを手に、靴を履いて、裏口から外に出た。
 いつもの場所にバケツが置かれていた。バケツの中にはスコップが入っている。史彦が、山から土を採ってくるためのものだ。それを、空いているほうの手で持ち、リンゴを囓りながら裏庭を出て、すたすたと石段を登っていった。
 思ったよりも天気が良いらしく、ぼんやりとした白黒の視界でも、かなりよく景色が見えた。目を閉じても道を進むことができるよう、意識して地形を覚えようとしながら、視力の悪い者とは思えぬほど速い足取りで裏山に入ってしまった。
 もとから身体感覚がとんでもなく発達しているせいで、転ぶということがまったくない。地面のでこぼこも、段差も、足の裏から伝わる感覚だけを頼りに、するすると乗り越えていってしまう。
 山道に入ると、木の枝が体に当たることで、なんとなく足元の状況も察せられた。
 枝があるということは地面に根があるということだ。自然と足が反応して、引っかかって転びそうな場所を、ひょいひょいと避けてしまう。もとから遺伝学的に優れた身体能力を備えさせられたとはいえ、その体を使いこなせるのはまぎれもなく一騎の特性である。
 とは言えもちろん、一人で誰にも告げずに山に入っていくなど、一騎の視力の衰えを知る者からは大いに心配されることだろう。千鶴と真矢からは叱られるかもしれなかった。
 それでも、こうして自分がどこまで動けるのかを知っておくことは、きっととても大事なことなのだという思いがあった。
 目に頼らずにどこまで動けるか、ということに、大いに興味をそそられてもいた。
 いったん立ち止まって、方角を感覚した。背後にあるはずの自宅に向かって、なだらかに続いている斜面の傾きが、なんとなくわかった。朝の冷気を肌に感じることで、そのうち空気の感じだけで時刻がわかるんじゃないかとも思った。
 風の音が聞こえた。葉の揺れる音で周囲の景色を想像することができた。
 まるで、翔子と初めてファフナーの搭乗訓練をしたときみたいだな、と思った。
 あのときは、体が弱い翔子に合わせて、ゆっくりと移動することで、それまで目に止めずに通り過ぎていた景色を、発見することができたのだ。
 そんな懐かしさと、悲しい記憶とが、胸に迫ったとき――
 行く手から、何かが近づいてくる気配を察した。
 方角からして山道ではない。木々の間を通り、下生えをそっと踏みながら歩んでくる。
 こんな時間に、山にいる人間なんていない。
 今朝の夢のせいで、透明な青さが急に脳裏によみがえった。
 なぜか、生命が満ちる海の光景が思い出された。その心象の持ち主が、今まさに近づいてきているのだという、理屈を通り越した実感がどこからともなく湧いてきた。
 どくっ、と胸の奥で鼓動がした。
 普段は、あまりに辛くなるせいで、じっと心の奥に押し込んでいる期待の念が、唐突に膨らんでくる。理性では、そんなはずがない、ということは承知しているのだが、やはり気持ちは、期待に抗えなかった。こんなふうに期待に振り回されていると、そのうち心がどうにかなってしまうぞ、と理性が忠告するのも無視して――
 つい、口走った。
「――総士?」
「乙姫ちゃん?」
 絶妙に、自分と相手の声が重なった。
 一騎は思わず目蓋を開いた――というより、目を丸くして、茂みから現れた相手を見た。
 白黒のぼんやりした視界に、びっくりして棒立ちになっている女の子の姿があった。
 ずっと目を閉じていたのと、木の影がかかっているせいで、顔は判然としなかったが、声で、相手が誰だかわかっている。
「一騎先輩?」
 ぎょっとしたような、たてかみ立上芹の声だ。
「立上か」
 呆気に取られた。いったいなんで、こんな時間に、こんな場所にいるんだ? 山に住んでるのか? などと思ってしまったが、相手が発した名前のほうが大いに意外だった。
「乙姫って……」
「え? なんで? 総士先輩って――」
 またもや二人同時に口にした。なんだかお互い妙に赤面し、
「いや、別に……」
「あ、あの、別に――」
 今度は二人同時に黙った。
 どうもタイミングというタイミングが重なるらしい。一騎は、あえて一拍置くために、芹が両手に抱えているものを見つめた。幾つもの箱だ――と判断し、ああ、虫カゴか、となんとなく相手がなぜここにいるのかという理由までも察した。
「こんな時間から、虫取りか?」
「こんな朝早くに、土摂りですか?」
 またしても重なった。どうやら相手も、あえて一拍置きつつ、一騎の持ち物でそう判断したらしい。完全に正面衝突である。思考回路が似ているのかなんなのか、会話になりにくいことこの上ない。
 かと思うと、
「あっ、一騎先輩ってば!」
 ここ、私のターンですから、と断りを入れるような大声で、芹が言った。
「目がよくないのに、危ないじゃないですか! たった一人で、こんな時間にっ!」
 いきなり、たしなめに来た。相手が遠見先生や真矢だったら、一騎もちょっとここで気後れするし、相手のペースになるところなのだが、
「いや、大丈夫」
 あっさり主張し返した。
「立上こそ、危ないだろ。暗いうちから来てたのか?」
「大丈夫ですよー。あたしは、これがありますから」
 ちょっと憤然として芹が言う。抱えた箱の下で、かちかち何かを鳴らし、灯りをつけたり消えたりしてみせる。懐中電灯である。
「必須アイテムですよ、一騎先輩?」
 なんでそんなものも持って来てないんですか、という、キャンプ慣れした子供に特有の自信満々の半質問口調で言った。
「俺が持ってても意味ないし」
 またもや、あっさり返す。
「あ、そっか。え……てことは、やっぱり見えてないんじゃないですかあ!」
 芹は、思考過程をそのまんま言葉にしながらわめき、ついで馬耳東風にさせまいとして、
「遠見先輩に言いつけちゃいますよ」
 絶大な効果を確信した調子で、ぼそりと言い放った。
「いや、待て」
 さすがにそれは困る気がする。別に悪いことをしているつもりはないのだが、巡り巡ってとっても気後れする状況を招く確信があった。
 たとえば、早朝に起きて家の裏口から出てみたら、どうしてわかったのかと訊きたくなるようなタイミングで、真矢がそこにいたりするとか。しかもバケツとスコップを手にして。口で言っても無駄だとわかっているから、率先してフォローしに来るのだ。そうするほうが、一騎が気後れして結果的に行動を止められるのがわかっているから。
「たまたま、今日だけだ」
 事実なのだが、我ながら、ものすごく嘘くさいと思った。
「どーですかねー」
 果たして芹は、全面的に疑いにかかっている。沢山の虫かごを抱えたまま近づいてきて、一方の手で、一騎の空いているほうの手をつかんだ。
「仕方ないんだから。ほら、今日だけ手伝ってあげます。どこに行くか教えて下さい」
 こちらも言っても無駄だとわかったか、代わりに手を引いてくれようというらしい。
「いや、大丈夫だから」
 さして感謝もせず、つかまれた手を、ぶらぶら揺らして必要ないことをアピールするが、
「なーに言ってんですか、絶対に危ないに決まってるでしょう」
 言うことをきかない犬の縄を無理やり引っ張って躾けるような強引さで、ぐいぐい一騎の手を引いて山道を登ろうとする。いきなり振り払うと、むしろ相手が転びそうだと思って、何歩か合わせて進みつつ、ふと視界の上のほうで枝らしき影が見えた。枝があるということは根があるということで、もしかすると地面の外に根が出ているかも知れず、
「足元に気をつけろ――」
 一騎のほうが警告した。まさにそのとき、芹がスッ転んだ。片手で虫カゴを抱え、ろくに足元なんか見えちゃいない状態で、もろに木の根に足を引っかけた。
「んっ……なっ――にゃあっ?」
 と、前のめりにぶっ倒れながら離れる芹の手を、さっと咄嗟につかみ直した。
 その手を引っ張りつつ、素早く前に出て、バケツを持ったほうの腕を相手の前面に回し、ひょいと受け止めてやる。芹の腕から落ちた虫カゴたちが地面に到達する以前の、芹からすれば何が何だかわからない早業である。
 遅れて、がらがらと虫かごが地面に転がった。懐中電灯を持った芹の右手が、地面につく寸前で宙にとどまっている。左手は後ろに引っ張られたまま、腹は一騎に支えられ、アイススケート選手のスタートダッシュなみに前屈みになって足を伸ばし、お尻を突きだすという、やたら斬新なポーズによるダンスのフィニッシュみたいな有り様だった。
 ――なんか、昔もこんなことがあったな。
 思わず遠い既視感に襲われた。バーンツヴェックの中だったっけ。急発進する海中列車で、スッ転びそうになった翔子の大いに慌てた顔が急によみがえり、少し悲しくなった。
 が、もちろん芹のほうは、そんな一騎の思いは知ったことではなく、
「え、ちょっと……下ろして、下ろして! ギブ、ギブ!」
 蜘蛛の巣に引っかかったバッタみたいに、細っこい手脚をじたばたさせている。気づけば、力が余って完全に芹の体を宙に持ち上げてしまっていた。というか、引っ張ったままの手が、関節技みたいに極まっていた。
 どっこいしょ、と相手の上体を持ち上げてやりながら、離してやり、
「大丈夫か?」
 十分に気遣っているつもりで、訊いた。
 だが芹は、どうやら涙目になりながら、顔を真っ赤にしているらしく、
「ねっ、ほらあっ、言ったでしょっ? 危ないでしょっ?」
 大真面目に、完全無比の逆ギレを、披露してみせた。

 一緒に虫カゴを拾ってやっていると、
「見えてるんですか?」
 芹が、意表をつかれた調子で訊いてきた。
 地面にばらまかれた虫カゴに、一騎が正確に手を伸ばしたことに驚いているらしい。
「ぼんやりとだけど」
 本当は、虫カゴが落ちたときの音の記憶を頼りに、だいたいこの辺りだろう、と見当をつけているだけなのだが、今は、そう思ってもらったほうが好都合だった。
「だからと言って、危ないことに変わりはないですから」
 ずけりと、一騎の内心を察したように釘を刺しつつ、虫カゴを拾い終え、中にいるクワガタやらカブトムシやらに、
「大丈夫だった? 痛くなかった?」
 などと話しかけ、
「じゃ、行きましょうか」
 改めて、一騎に同行することを宣言した。
 真矢に言いつけられたとき、芹が同行しているのとそうでないのとでは、きっと大いに反応が違うだろうと予想されたので、一騎も逆らわなかった。
 代わりに、手を引かれる必要はないということを示すため、
「すぐ先だよ」
 すたすたと、転ばずに歩いてみせる。
「転ばないと思ってると転ぶんですよー」
 先ほど身をもって示した芹が大真面目に言う。
「転ぶかも知れないと思ってるから大丈夫だよ」
 一騎も真面目に返してやった。すぐに、史彦がいつも土を採ってくる場所の一つを見つけた。崖下で、粘土質の地層が露出していて掘りやすかった。手で土の感触を確かめ、スコップで土くれをてきぱきバケツに放り込みながら、
「なんで、皆城乙姫だって思ったんだ?」
 当初の質問を口にした。
「んんー……」
 芹は、ちょっと恥ずかしげでもあり、どう口にすれば正しく伝わるのか悩むようでもある調子で、
「この山で、あたし、初めて会ったから……乙姫ちゃんに」
 と言った。
「そうか」
 屈んで相手に背を向けたまま、だいたいわかるよ、という感じでうなずいた。
「一騎先輩は……なんで、総士先輩だと思ったんですか?」
 芹が、やや遠慮がちに訊き返す。
 咄嗟に、一騎の脳裏に澄んだ青さのイメージや、生命の海の光景がおぼろに浮かんだが、
「さあ、なんでかな」
 理屈がつかないことはそのまま放り出して、素直に答えた。
 真矢だったら、ここで、総士の意志を感じるのか、とか、皆城くんに会いたいよね、などと言ってくれるのだが、
「総士先輩も、この山に来てたんですか?」
 芹の主眼は、あくまで行動にあって、心情とか内面とかの話題にはならなさそうだった。
 そのことにちょっと安心もしつつ、
「あいつはほとんどアルヴィスにいたよ。親父さんがいなくなってから、ずっと島のなか内部で暮らしてた」
「そうだったんですか……。大変ですね。あたしだったら、そんなの辛いかも……」
 アルヴィス内部、というイメージは、芹にとってかなり不自由な感じがするらしい。
「どんなに便利か、細かく教えてもらったよ」
 一騎は苦笑して言った。
 いつだったか、総士の住居に招かれたときのことが思い出された。ひどく殺風景な部屋のくせに、総士本人は目一杯、生活感を出しているつもりだった部屋。
 出入り口からドリンクの自販機まで何歩だったっけ。
 壁には写真だって飾ってあるだろう、と総士は真剣に主張したものだ。いつだったか真矢が撮った写真のことで、その中には甲洋も翔子も、衛も、総士自身もいる。
 総士がいなくなった後、誰もその部屋を使ったり、片付けようとはしなかった。今も、総士がいたときのままだ。いつ、部屋の主が戻って来ても良いように。
「……帰って来ますよね、きっと」
 うっかり口にしたら、一騎に怒られるんじゃないかと遠慮するような調子で芹が言う。
「きっとな」
 あえて軽い調子で返した。バケツ一杯に土を入れ終え、
「皆城乙姫に、会いたいのか?」
 立ち上がりながら、同じ調子のまま、訊いた。
 気配で、芹がちょっと悲しそうな顔をするのを察した。だが、返ってきた声は、ひどく明るく、元気に満ちている。
「あたし、いつでも会ってます。乙姫ちゃんと」
「――コアと?」
 島の中枢で眠る、まだ幼い、島民にとっての小さな神様のことだと思った。
 だが芹はかぶりを振って、
「あの子も、もちろんそうですけど……でも乙姫ちゃん自身じゃないってことくらい、あたしだってわかってますよ。そうじゃなくて、この島全部が、乙姫ちゃんだから。ここにいる限り、あたし、いつだって乙姫ちゃんに会えるって、思ってます」
 悲しさではなく、にっこりと喜びを込めて告げた。
「そうだな」
 一騎もちょっと微笑んだ。その通りなんだろうと納得する気分だった。
「俺も、そんな気がする」
 手から土を払い落としながら、同意した。
「でしょ、でしょ。ほら、やっぱり」
 芹は心の底から嬉しそうに言った。



 
 山から出て芹と別れ、家に戻ると、史彦が台所に立っていて面食らった。
「手を洗って来い」
 どこに行っていたか、とも訊かずに史彦が言った。どこで何をして来たか、とっくに悟っているのだ。
「うん……」
 相手に心配をかけて気後れするといった心持ちよりも、鍋が火にかけられ、史彦が包丁で何かを切っていることに、冷や冷やした。なんと米まで炊いているのだ。何かしでかすんじゃないか、史彦が自分の指でも切るんじゃないかと心配だった。
 だが、手を洗って戻ってくると、
「飲んでみろ」
 椀を鼻先に差し出された。自信たっぷりといった感じだ。
 一騎は椀を受け取って、ぶつ切りになったネギと豆腐が浮かぶ味噌汁を口にした。
「どうだ」
「……味噌しか入れてないだろ」
「味噌汁なんだから当然だ」
「出汁は?」
 ふうむ……、と史彦は思案深げな呟きを漏らし、
「そういう手があるのか」
 やたら感心して言った。
 これが島の全戦闘を司る男の日常なのだなと、なんとなく一騎は安心させられた。
 結局、味噌汁の続きとおかずは一騎が担当し、史彦が居間に並べた。
「どうだ」
 史彦が繰り返し訊いた。
「良いと思うよ」
 米を口にしながら言った。けっこう柔らかめだったが、少なくとも、お粥というか糊みたいな状態にはなっていない。それに、米を研いでいた。以前は、そのまんま洗いもせず釜にぶち込んでいたのだ。そのほうが栄養価が高い、などと一丁前の主張をしたりして。
 特に会話もなく、いつもの通り、二人して黙々と食った。
「なるべくなら、一人で行かない方がいい」
 食事を終える間際に、史彦が言った。もちろん一騎が黙って山に行ったことについてだ。
「試しに行ってみた。無理はしないよ」
「良い土が採れたか」
「多分ね。使ってみてよ」
「半分はお前が使え。土間に置いておけば、後は父さんがやる」
「ありがとう」
 とんでもなく会話が増えたなあ……と、改めて驚きながら一騎は言った。
 父親に土のいじり方や茶碗の作り方を教わって以来のことだ。やってみたらけっこう面白くて、出来の良いものは、溝口が、喫茶店で使うと言って買ってくれる。
 食べ終わると、食器は史彦が率先して片付け、
「じゃ、行ってくる」
 一騎が登校の準備を終えて玄関に行くと、
「母さんに、挨拶して行け」
 背後から、史彦が言った。
「うん」
 玄関そばの棚に置かれている写真に目を向けた。ぼんやりとした視界でも、そこに映っている女性の姿を、はっきり見て取れる気がした。これまでずっと記憶にとどめ続けている面影――まったく同じ姿をしたフェストゥムの存在を目の当たりにしてのちも、史彦も一騎も、それが彼女本人だとは思っていなかった。
「紅音は、もういない」
 史彦はそう言った。
 一騎も、きっとその通りなんだろうと思った。
 だから、自分にとってのゆいいつの母親である、写真の女性に向かって、
「行ってきます」
 にっこり笑って告げ、家を出た。

 玄関を出て、苦もなく急な石段を登り、ゆるやかな道に出た。
 そこでしばし、立ち止まった。たいてい、
「タイミングばっちりぃ」
 とか、
「やっぱりこの時間だったぁ」
 といった調子で、背後から真矢が現れてくれるのだが、このときはしばらく待っても、何の声もなかった。
「……遠見でも、タイミング、外すんだな」
 ちょっと意外さを込めて、独り言とも、その場にいない真矢に聞くともつかない調子で呟きつつ、どうせ通学路のどこかで会うだろうという気分で、すたすた道を歩き始めた。
 下のほうの海沿いに近い道にも、上のほうの山沿いの道にも、ちらほら登校者らしい人影がぼんやり見える。
 だいぶ歩いたところで、唐突に、背後からベルを鳴らされた。
 自転車のベルだ。
 珍しいな、と思った。
 真矢が、自転車に乗るのをやめて久しい。というより、もともと、翔子のために乗っていたのだ。翔子が学校に行けるときは後ろに乗せてやり、行けないときはぎりぎりまで一緒にいて、授業に間に合うため大急ぎで自転車を漕ぐ。それが真矢の、昔の日常だった。
 いっとき、一騎のためにその日常が復活しかけたこともあったが、短命に終わった。
 一騎を後ろに乗せて坂道を漕ぐだけの脚力が真矢にあるはずもなく、二人して転倒しそうになり、失敗だという判断が下されたのである。
 一騎は、ちょっとばかり、ほっとした。真矢にしがみついて自転車に乗せてもらうというのは、どうも情けない感じがするし、なんとなく落ち着かない。
 なのに、またぞろ自転車に挑戦する気かと呆れつつ、
「おはよう、遠見」
 ベルに応えて、振り返って言った。
「……あー」
 挨拶のために片手を上げたまま、まごつく剣司が、いた。
「えっと……いや、俺だ。剣司だ。なんか、悪かったな」
 一騎の目に配慮して、わざわざ名乗ってくれた。その上、なぜか謝られた。
「ああ、剣司か」
 それで納得した。自転車は、今、こいつの日常だったっけ。
「一騎が一人で学校に来るの、珍しいと思って、声かけたんだよ……」
 言いつつ、乗ってくか、と切り出せないことがいかにも心苦しそうな様子だ。
 確かに剣司なら気兼ねなく乗っけてもらえそうだったし、二人分の体重に負けて横倒しになることもないだろう。とはいえ、誰を乗せるための自転車か一騎にもわかっている。
「咲良、今日は来れそうなのか?」
 別に学校くらい、一人で行けるよ、という感じで、別のことを訊いた。
「終業式だからな。意地でも行くってさ。そういうの、大事にするやつだし」
「無理しなきゃいいな」
「まったくだぜ」
 一騎の歩調に合わせて、器用に自転車を立ち漕ぎしながら、剣司が神妙にうなずく。
「待たせると、遅い、って怒るし……じゃ、先に行くけど、大丈夫か?」
 心配されることなんてないよ、というふうに、肩をすくめてみせる。
「剣司こそ、気をつけろよ。咲良を乗せて転ぶと、もっと怒られるぞ」
「ぶっ殺されるぜ」
 惨状を如実に想像するような顔だった。
「あ、式が終わったら、生徒室で集合な。後輩組のデータがそろったんだとさ」
「データ?」
「カノンが言ってた。俺も詳しくは知らねーけど。じゃ、後でな」
 一つ手を振って、剣司はペダルを漕いで行ってしまった。一騎の目にも、けっこう急いでいるのがわかった。相手を待たせるのが怖い、というより、世話焼き屋で心配性だからだろう。咲良が無理して一人で登校しようとするかもしれないと思っているのだ。
 珊瑚礁の海、か。
 ふいに夢で見た心象がよみがえった。
 咲良にとっては、得難い安らぎをもたらしてくれる海だ。
 お前が来るまで、咲良は待ってるよ、ずっと、と心の中で、剣司に言ってやった。
 しばらくして校舎が――見慣れた建物の輪郭が見えたが、真矢はいなかった。
 と思ったところで、ふいに背を叩かれた。
「遠見――」
 口にしながら、これも違うな、と気づいている。
 真矢だったら離れたところから声をかけて、振り返る時間を与えてくれる。逆にこれは、声をかけようかけようと思っているうちに、なんとなく相手に近づきすぎてしまった、
「カノンか」
 と、振り返りもせず訂正する。
「む――」
 果たして、なぜわかったんだ、ちょっと待て、今考えるから答えを言うな、という感じの、釈然としない呟きが起こる。
「おはよう」
 一騎が、歩む速度を緩めず、顔だけ振り返らせて言った。
「うむ……おはよう」
 すぐ横にカノンが並び、その足元で、縄もつけず元気良く進んでいるショコラも、ひと吠えした。
「ショコラも一緒か」
「授業はないのだし、問題なかろう」
 言いつつ、一応、考えてみたから答えを聞こうじゃないか、と態度を改めた様子で、
「なぜ、私だとわかった?」
「においで」
「……っ――なんだと?」
「冗談だよ」
 ぎょっとなって後ずさりかけるカノンに、やんわり言ってやる。
 内心では、本当に真面目に受け取るんだなあ、とこっそり感心している。きっと後輩たちも、敬服しつつ、大いにカノンをからかって遊んだりしていることだろう。
「だって、なんとなく、わかるだろ」
 パイロットなんだし、戦闘中なんて、もっとお互いのちょっとした癖を一瞬で先読みして行動したりするじゃないか、ということを言ったつもりだった。
「今朝、お前の夢を見たし」
 これはもちろん、「お前の(瞑想訓練時に共有する海の心象の反響イメージによる)夢」と、長いカッコ書きが間に入るのだが、パイロット同士なのでわかるだろう、と決めつけ、大いに省いている。
「そっ――、そう……なのか……」
 なぜかカノンは、やたらと声を上ずらせ、妙にどぎまぎしている。――が、すぐに、いや、これはまたもや何かの冗談でからかわれている可能性が大だ、と警戒する感じになり、
「真矢じゃなくて悪かったな」
 ちくりと刺すように言う。
「いや」
 刺された自覚すらなく、あっさり返す。
「あいつがこの時間にいないのは、珍しいな。風邪でも引いたのか」
「なぜ訊く。私が知ってるわけない……というか、そんなに早く歩いて大丈夫なのか」
「平気だろ。足は完全に回復したって遠見先生にも言われたし」
「そうだが……目は――」
 一騎は、俺、ここまで一人で歩いて来たんだけど、と剣司にしたように肩をすくめ、
「手でも引いてくれるのか?」
 なんとなく、今朝の芹の態度を思い出して言った。
「なっ――や、別に……、どうしても、うん、必要であれば……」
 たちまち、しどろもどろになる――が、以前のカノンとは違って、やられっぱなしというわけではない。すぐに、〝いやいや、ここは鷹揚に、ちょっとばかり気の利いたことを言い返すところに違いない〟という顔つきになり、
「なんなら首に縄でもつけて引いてやる。ショコラが使っていたものが余っているからな」
 どうだ、最近の私ときたら、こういう言い返しだってできるんだぞ、と自慢げに、にやりとする。
「そいつはいいな」
 半分くらい相手の言っていることを聞かずに返した。内心では、こいつって、冗談一つ言うのも真面目なんだなあ、などと感心した。
「今度、頼むよ」
「な――なっ、何を……。うう……、おのれ……」
 カノンはえらく動揺し、なんだか激しく赤面し、簡単に手詰まりとなって、結局、恨めしげにガックリ来ている。
 だいたい、カノンとは、いつもこんな調子だった。一度、剣司から、
「お前、あんま、カノンいじめんなよ」
 呆れたように言われたことがあったが、一騎としては、まったくもって普通に親しくしているつもりだ。
 ほどなくして校門を通った。ここまで真矢に出くわさないとは思わず、
「やっぱり、風邪かな」
 一騎は校舎に入る前に、立ち止まって、来た道を振り返っている。ぱらぱらとやって来る子供たちの中に、真矢らしき人影はいないようだった。
「職員室で電話を借りて、確かめてみれば――」
 カノンが最も現実的な案を出したとき、
「うっおー、すげー!」
 校門の外で、小柄な少年が、素っ頓狂な歓声を上げた。
 歌って踊れる中学の生徒会長――広登だ。
 そのそばに、芹や、西尾兄妹も一緒にいる。たまたま通りがかった他の子供たちも、そろって校門前の通学路のほうを見ていた。
 遅れて、エンジンの唸りが近づいてきた。
 一騎もカノンも、その正体を察して、ぽかんとなっている。
 普通、先生たちが乗って学校に来るような、バイクというか原動機付き自転車だ。
 そしてそれに、女の子が乗っていた。
 呆れたことに、ヘルメットをきっちりかぶった、真矢だった。
「どいて、どいてー!」
 なんとも不穏なことを叫びながら、勢いよく校門を通過し、ざざーっと砂埃を上げて停車した。
「ま……間に合ったぁー……」
 ヘルメットのバイザーを上げ、深々と溜め息をつく。
「真矢!?」
 カノンがびっくりしながら駆け寄る。
「あ、おっはよー、カノン」
 エンジンが鳴りっぱなしのバイクにまたがったまま真矢が元気良く言った。
 それから、本当に真矢なのか疑うように凝視している一騎のほうに手を振ってみせ、
「おはよー、一騎くん。あーあ、追いつくと思ったんだけどなー」
 なんだかとっても残念そうに言った。
「それ……遠見先生の……?」
「そー。お母さん、やっと使わせてくれたの。これがあれば――」
 どうなるのか、と説明しかけたところで、わらわら後輩たちが真矢の周囲に寄ってきて、
「すごーい、遠見先輩!」
 里奈が感動の声を上げるのを筆頭に、わいわいと真矢に話しかけ始めてしまった。
「こらーっ」
 騒ぎを聞きつけてやってきた要先生が――咲良のお母さんが――大きな足取りで玄関口にやって来て、ものすごい剣幕で叱り声を飛ばした。
「バイクの入口はあっちっ! 危ないっ! 今すぐエンジンを切って移動っ!」
「はーい」
 真矢は情けなさそうな様子で、言われた通り、すごすごと駐車区画へバイクを押して行った。とは言え、その場にいる子供たちは大はしゃぎだ。
「すげーよ、遠見先輩、俺にも乗せてよーっ」
 男子たちが、エールというか、とんでもない英雄になれるんじゃないかという期待を込めてわめく。
「ちっくしょー、今日こそ俺が目立つはずだったのに。見てろよ、せんぱーい。この借りは必ず終業式で返すからなーっ」
 広登が、やたらと闘志を燃やすのへ、
「意味わかんないっつーの」
 芹が、なんか変なことするんじゃないでしょうね、と釘を刺している。
 そんなみんなの様子に、一騎はふと、いつだったか――幼い頃、仲間同士で集まったときのことを思い出していた。壊れたラジオのノイズに耳を澄ませていたときのことを――こんな面白いことを逃したら、大いに損をするんじゃないかという子供独特の興奮。
 そもそも、真矢がこれまで、原付バイクの何十倍もの巨大さと複雑さを誇る機体に、何度も乗り込んでいることは、みんな知っているのだ。そのくせ、バイクに乗った真矢という、かなり大人な感じのする組み合わせに、感嘆しきっていた。
 戦闘の道具ではなく、ちょっとした生活の道具に対して、こうしてまだ心が驚きを覚えてくれることに、みんな安心しているのかもしれないな、と一騎は思う。せっかく平和が訪れても、心を過去の戦時体制に置き去りにしたままでは、何の意味もないからだ。
「真矢のやつ、なんで急に……」
 カノンが不思議そうな顔をして戻ってくる――目は、せっせと駐車区画へバイクを運ぶ真矢を見つめたままだ。
「さあ」
 と言いつつ、一騎は、なんとなく察している。
 バイクなら、脚力は関係なかった。一騎を後ろに乗せても、坂道を漕げずに、二人して転倒しそうになることもない。
 でも――自転車とは別の意味で、危ないかも。
 おぼろな視界でもそれとわかる、真矢が残したタイヤの擦過痕を眺めて、そう思った。


 まさに有言実行だった。広登のことである。
「カノン……あれってよー」
 剣司が、げんなりした顔で、隣に整列しているカノンを振り返り、
「お前が、許可したのか?」
「悪い歌ではない」
 カノンは、腕組みしたまま、ちょっと目をそらしつつも、否定しない。
「マジかよ」
 剣司が呻く。その後ろでは、意地でも用意された椅子に座ろうとしない咲良が、
「あーいう元気、あたしも欲しいわね」
 壇上で、「終業式ララバイ」を熱唱している広登を、淡々と眺めている。
「……ちょっとは、上手になったね、堂馬くん」
 真矢が完全にフォロー口調で言った。よっぽどこれまで下手だと思っていたのが丸わかりの発言だ。
 一騎は、狭い壇上でくるくる器用に踊っているらしい広登の動きに感心していた。先生たちは、いつ広登がマイクのコードに絡まって転落しないか冷や冷やしている。
 生徒たちのおよそ半分は、史上最高に賑やかなこの終業式に大喜びだったが、中学の残りの生徒会役員をふくむもう半分は、
「みんな、ノリノリだねえ!」
 と歓声を上げる広登に、お前がな、と心の中で毒づいている。
 時が過ぎると、考えたこともないものに、色々と出くわすもんだな、と一騎は思わず年齢に不相応な老成したような感慨を抱いた。
 思った通り、この終業式では、誰も卒業しなかった。「大人島」と呼ばれる、剛瑠島や慶樹島での勤務を望む者はいなかったのだ。学校にとどまり、生徒のままでいられる――そうすることができる今の自分たちを、過去の卒業生たちは、どう思うだろう。
 卒業を選び、死地へ赴いていった者たちは。
 きっと微笑んでくれるんじゃないかな、と一騎は思った。
 いつか自分も、そういうふうに思えるときが来ることを心のどこかで期待して。
 おそらくもう、戦闘には、体が耐えられないだろうな、と薄々悟りながら。
 やがてようやく、剣司が最後の訓辞を述べ――事前にカノンが用意してくれた、この上なく伝統的で堅苦しい文章を読み上げ、終業式が終わった。
 広登のせいで、生徒の半分は、お祭り気分だった。一足早く、お盆祭りの準備が始まったような感じだ。さっそく大いに遊ぼうと、活気づいている。
 式が終わると、一騎たちも、いったん解散になった。
 剣司は咲良を家まで送り、カノンと後輩組は式の後片付けを行い、そして真矢と一騎は先生に許可をもらって、駐車区画でバイクの二人乗りに挑戦した。
「これがあれば、一騎くんも楽に学校に来れるかなーと思って」
 というのが、一騎が予想した通りの、真矢の考えだったが、
「朝早く起きて練習してたら、ガソリンなくなっちゃって」
 大慌てで、商店街までバイクを押して補給しに行ったせいで、一騎の登校に間に合わなかったのだという。
「びっくりさせたかったんだけどなー。失敗しちゃった」
「十分、びっくりしたよ」
 一騎は素直に言った。真矢からヘルメットを渡され、いよいよ試乗という瞬間を、かなり大勢の生徒が見守った。だが結果から言えば、これも失敗に終わった。自転車とはまったく違う密着感がやたら落ち着かないし、そもそも真矢とて運転に慣れているとはとても言えず、指導と興味半分で見ていた要先生や羽佐間先生が、
「そこで速度を落とさないっ!」
「危なーい、倒れるわよーっ」
 手に汗握る様子から、これは相当、危なっかしいのではないかと一騎も思う。
「溝口さんに、ちゃんと教えてもらうから……。ごめんね、一騎くん」
 自分たちも乗りたがる男子たちを、おもちゃじゃないの、と一喝して退けつつ、真矢が残念そうに言う。けっこうナイスアイディアだと思っていたのに、としよ悄げた調子だった。
「いや、別に……俺、歩けるし」
 だが真矢は納得いかない様子で、
「……お店の出前とかで使って、練習する」
 そう言い張った。
 二人で生徒会室に行くと、窓辺に座っていたカノンとショコラが出迎えた。
「なかなかの腕前だったな、真矢」
 カノンが、にやりとなって、珍しく皮肉を言った。どうやら、上から見ていたらしい。
「うるさいなー、もう」
 真矢が、むすっとしてパイプチェアを持ってきて座り、一騎もそうした。
 すぐに剣司が汗だくになって戻ってきて、
「坂多すぎだっての、この島。なー、遠見、あのバイク、俺にも使わせてくんないか」
「やーだよーだ」
 真矢も珍しく、不機嫌そうに返している。
「それでは、ファフナー・パイロット・チームによる第二十二回目の会合を行おう」
 カノンが律儀に電子ペーパーを配りながら言った。
 かつては総士の役割だったが、今はカノンが率先してやってくれている。場所も変わった。弓子先生と道生さんの家で集まることは、もうなくなったのだ。
「先日、広登、芹、里奈、暉の後輩組のメディテーションが行われた。詳細はファイルを参照してくれ。一騎、音訳データも入れておいた。画面の右下にポインタがある」
 さっそく剣司が一瞥して、驚きの声を上げた。
「これ、第二十一レベルだぞ。平和なのに、メモリージングの解除レベルを上げたのか」
「彼らの希望でな。演習経験がないことを不安がっている」
 今度は真矢が意外そうになって、
「演習って……本当に機体に乗るの? 選別は?」
「そのためのメディテーションだ。来週中に最適な機体が決定する。場合によっては、私たちの機体との交換もあり得る。現在、慶樹島の大人たちが機体の起動準備に入っている。来月くらいには、かなり本格的な演習が可能になる見込みだ」
「……ったく、平和なときは、平和なことだけ考えてりゃいーのによ」
 剣司が、やれやれとふんぞり返る。
 一騎も同意しつつ、なんとなく後輩組の気持ちを察した。
「俺たちみたいに、いきなり戦わされるのが怖いんだろ」
 実際は、どれほど演習を繰り返そうと、敵の異質さの前では大して意味がなかった。メモリージングによる無意識下での催眠学習のほうが、よっぽど効果的なのだ。
 それでも、先輩組の戦闘を見てきた後輩組が、今のうちに可能な限り学習しておきたい理由もわかる。もう、何も知らなかった頃には戻れないのだ。いつまた異変が起こるか誰にもわからないし、もしそうなったら、いずれ先輩組の全員が、肉体の同化現象で機体に乗れなくなるのは確かなのだから。
 そんなことを考えながら、一騎は、カノンが気遣って入れてくれた自動音訳データに――女性の声に似た電子音声に――耳を傾けるうち、ふいに、はっとなった。
《――立上芹の特徴は、海中に生命が溢れていることである。三回のメディテーション・テストで、計二百種の海洋生物および古生物が確認されている。内向的傾向が……》
 メディテーション・テスト――瞑想訓練のための心象の診断。
 生命の海――芹の海。
 どこかで見たぞ? というか、まさに今朝の夢の中で、これに出くわさなかったか?
 なんでだ? クロッシングもしていないのに――
「どうしたの、一騎くん」
 真矢がこちらの様子を察して覗き込んでくる。
「……いや、なんでもないよ」
 そう返したときには、まあ、夢の中のことだし、何かの偶然だろう、と思い直していた。
 念のため、空と海がごっちゃになった心象を誰か抱いていないか確かめたが、そんな得たいの知れない〝ボーダーライン境界線〟を持つ者は誰もいなかった。
「〝二人とも地獄のような海〟って……なんか意外だね」
 真矢が、ちょっと眉をひそめて、西尾兄妹の診断の一節を口に出す。
「母さんの……いや、羽佐間先生の診断で、過去の経験から来る心象だろうとのことだ」
「過去?」
「最初期のファフナー試作機だ。里奈と暉の両親がテスト・パイロットとなって起動をはかったが、内蔵された〝ミールのかけら〟を制御できず、二人とも消滅した。危うく、アルヴィスごと吹っ飛びかけたらしい。里奈と暉の、目の前で」
「……そうなんだ」
「里奈が〝燃える海の中〟で、暉が〝底なしの暗闇〟だとさ……やばくねーか。クロッシング・テスト、おっかねえだろうなあ。こんな海と接触して大丈夫かな、俺」
 剣司が、この上なく素直に怖じ気づくのへ、
「相互安定を目指すのは私たちの役目だ」
 カノンがぴしりと言う。剣司は首をすくめ、次の広登のデータを指でなぞり、
「こいつ、衛みたいに、波に乗ってるわけじゃねーんだな……」
 懐かしむような、寂しがるような調子で呟いた。〝盛り上がる波の中にいる〟のが広登の海だった。海面には出ようとしない。波に守られていたいのだ。幸せで愉快な感覚に。
「誰も、海の上にいないんだ」
 ぽつんと真矢が言った。カノンも剣司も、すでにそのことに気づいているようだった。
 それで、一騎だけが、そのジンクスに気づいているわけではないことがわかった。
 海に落ちた一騎もふくめ、最後まで戦い続けることができた四人のパイロットたちみな、その心象において、もともと海の上にいたという事実。
 ただの偶然だが――そう片付けてしまうには、ひどく心に引っかかる符号だった。
 もしかすると、まだ大人たちがちゃんと理論立てることができていない、敵との戦いで生き残るための必須の要素が、そこにあるのではないかと不安になる符号――
「これが新世代ってわけだ。意外に、海の中から俺たちを支えてくれるんじゃねーの」
 だが、剣司は明るく言ってのけている。
「あいつらが溺れそうになったら、俺たちの誰かが引っ張り上げてやりゃいいんだから。悪い相性じゃないさ」
 剣司だったら迷わずそうするとみんなわかっていた。たとえ自分が危うくなっても。
 しかも剣司は誰かの犠牲になることなんて考えてない。全員生還が剣司の信念だった。
 もし本当に、戦いの日々が再び訪れたら――
 きっと後輩たちは、剣司の強さにびっくりするだろうな、と一騎は思った。

 パイロット同士の会合が終わってのち、一騎と真矢は喫茶〈楽園〉に向かっている。もともと、お店でお昼御飯を食べて、午後はそこで働く予定だったのだ。
 海岸沿いのなだらかな道の百メートルばかり、一騎は真矢のバイクの後ろに乗っけてもらった。だが、やっぱりちょっと危なっかしくて、そして相手の体に片方の腕を回すのがなんとなく落ち着かなくて、結局、ほとんど歩くことになった。とはいえ、
「先に行っててくれないか」
 と告げたのは、もちろん、バイクというアイディアに未練たらたらの真矢が怖くなったわけではなく、自然と足が海へ向かうのを感じたからだ。
 きっと――今朝の夢の断片や、さっき見ていた後輩たちのデータが、ごっちゃになって落ち着かないからだろう。
 あるいは、昔のことを幾つも思い出したせいで、いつも心の底に押し込んでいる期待の念が、どうしようもなく膨らんできているからかもしれなかった。
「そっか……うん。溝口さんと一緒に、お昼御飯用意してるから。早く来てね」
「ありがとう」
「じゃ、後でねー」
 真矢の甘いような声が、ひどく心地よかった。
 朝から今にいたるまで、真矢は一言も、一騎の目のことを心配するようなことは言わないままだ。そのくせ、色んなことを気遣ってくれている。
 朝見たときよりもずっと安定した姿勢でバイクに乗って去る真矢に手を振り、一騎は、海岸へ下りて、砂浜を歩んだ。
 たちまち、仲間たちが元気だった頃の思い出が、次々に脳裏をよぎっては消えてゆく。
 いつだったか、欠番となってしまった機体の破片が落ちているかもしれないと、虚しく歩んだ場所だった。
 翔子のマークゼクス六番機も――甲洋のマークフィアー四番機も――道生さんが最後に乗ったマークアイン第一番機も。
 どれも失われ、欠番のままだ。整備士たちが大勢働いている慶樹島の大人たちにとっても、欠けた番号自体、墓標のようなものなのだろう。
 あるいは、ジークフリード全統括システムも。
 それこそ大いなる欠番だ。誰も、システムに乗って指揮を担当することは考えていない。機体同士を接続し、パニックになっても、誰も制御してくれないというリスクを承知で、全員が同時に指揮官になることを選んだ。
 学校で、咲良のために書記の肩書きをみんなで決めたように。
 いつか戻ってくると信じた者の居場所を、そのままにすることに決めたのだ。
 一騎は、砂浜の一角で立ち止まった。周囲の輪郭から、だいたいこの辺りが、最後の戦いで、自分が帰還した場所だろうと見当をつけて。
 そしてじっと、海と空を見つめた。
 白と黒のぼんやりとした風景――それでも記憶の中の、美しい青さを感じた。実際に海や空の色を見た気さえした。
 いや――実際に包まれていた。
 あっ、と思う間もなかった。
 今朝、夢の中で引き寄せられた、あの青さの中に、一騎はいた。
 咄嗟に、視力が完全に失われたのかと思って、ぞっとなった。とっくに覚悟をしていたはずなのに。光が消えてしまうことに、恐ろしいほどの悲しみに襲われた。
 天も地も、一緒くたに混ざり合ってしまったような、それどころか、現実と夢すら区別を忘れてしまったような、得体の知れない世界の中で――
 突然、何かが近づいてくるイメージが訪れていた。
 何が何だかわからない。だが、ほとんど確信に近かった。
 ――来る。
 おそらくは――海から。それがやって来るのだ。
 何が来るのかわからない。どんな意味があるのか見当もつかず、同化現象の症状のせいで、知らないうちに頭がどうにかなってしまったのかとさえ思った。
 気づけば足が前へ出ている。
 今まさに訪れる者を、出迎えようとするように。
 帰って来るべき者を――
「駄目だよ、一騎くん」
 いきなり声が飛んだ。
 すぐ、背後からだ。
 思わずぎくっとなって立ち止まった。遅れて、くるぶしまで波につかっているのを感じた。いつの間に波打ち際まで歩んでいたのか。現実と夢の区別がつかない状態から、一瞬で、引き戻してもらったのだ、という実感が後から来た。
 一騎が、なんとなく気まずい思いで振り返ると、
「ついて来ちゃった」
 えへへ、と真矢も、ちょっとばつの悪い感じで、照れ臭そうに笑っている。
 一騎といったん別れた後、すぐに、引き返してきたのだ。一騎を心配してのことだろうが、危ないとか大丈夫か、といったことは何も口にせず、
「探しに行きたい?」
 と訊いてきた。
「え……」
「皆城くんがいるかも知れないどこかに、行きたい?」
 一騎は、そうだとも、違うとも、答えられずにいる。本当に、どうするのが正しいのか、咄嗟にわからなかったのだ。こうして島にいて、帰って来なかった仲間たちをよそに、平和な日々を送っていることが、本当に正しいことなのかどうかも。
 すると真矢は、
「皆城くんも、待ってたよ。昔、一騎くんが島を出て行っちゃった後。ずっと待ってた」
 そんなふうに、優しく言ってくれた。
「……うん」
 納得するというより、ひどくほっとして、引き返した。知らないうちに踏み込んでいた波打ち際から――現実と夢の〝ボーダーライン境界線〟から、真矢が立っている、確かな現実のもとへ。
 そうしながら、自分の体が震えていることに気づいた。
 怖くて震えているのだと、すぐにわかった。
 幻の青さに包まれたとき、本当に光を完全に失ったのかと思って、怖くて仕方なかった。
 戦いの日々で経験したこととまったく同じだった。覚悟したつもりでも、どれほど平気だと思い込んだとしても、結局、我慢できないくらい怖くて、ひどく悲しいのだ。
 真矢は、すぐにその様子を察してくれた。そして、手を引いてくれたり、心配する気持ちを口にしてくれたりするのではなく、
「そばにいるよ、一騎くん」
 ちょっと離れたところから、いつもの甘いような響きのする声で告げてくれた。
「私がいるし、みんながいるよ。いつでも。だから、安心して」
 うっかり、みっともなく涙がこぼれそうになった。それどころか大声で泣いてしまうんじゃないかと不安で、息が詰まった。昔、この海辺でそうしたことがあるが、そのときは自分一人だったし、今よりずっと何も知らなくて、何も信じていなかった。
 さすがに今、真矢の前で同じことをするのは、自転車やバイクに乗っけてもらってしがみつくことより、ずっと気恥ずかしいし、申し訳ない気がした。
「俺は、どこにも行かない。ここにいるよ。この島に」
 やっと、ぼそぼそと、そう言った。それが、自分の選んだことなのだから。
 真矢は、うん、と明るくうなずき、きびすを返して、行こう、と態度で示してくれた。
 一緒に海辺から出て、固い岩の上の道路に戻る間際、一度だけ海を振り返った。
 やがて来たる日々が、刻々と近づいているなど、このときはまだ思いもよらないことだ。
 ――俺はここにいる。
 ただ、ぼんやりと霞む視界の向こう――繰り返し響く波の音に向かって、
 ――ここで、お前を待ってる。
 心の中でささやき続けた。
 

 
TO BE CONTINUED――『蒼穹のファフナー HEAVEN AND EARTH』へ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?