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冲方塾 創作講座16 対話する

 さて。
 的確な反論が、主題を浮かび上がらせます。よく書けた文章とか、人の目を引く文章というのは、もっぱら反論が的確だからです。
 物語において、反論しない登場人物はいてもいなくても一緒です。
 ディズニー映画のキャラクターのセリフを注意深く聞いてみて下さい。命題と反論がきわめて明白です。
 何も反論しないエッセイというのは何も言っていないのと一緒です。新しい物の見方を示さないのに、エッセイ(試論)というのがそもそもおかしい。
 ファミレスは便利だとか、昼って明るいよねとか、反論しようがないものを述べたものを人間は意識しないし、記憶に残さないわけですね。
 反論のない論文も、論文ではない。定説を補強しているだけです。
 反論がない意思疎通も、意思疎通ではない。そうだね、そうだね、そうだね、だけ。ただの確認になる。
 しかし日本語は、反論をする訓練がしにくい言語です。逆に、議論の余地のなさそうな正論をかざすことを得意とします。空気を読ませることがね。
 しかし人間はたいてい、それを窮屈、退屈、威圧的、攻撃的と感じる。
 お前は常識からずれている、ちゃんと元に戻せ、こうでなければならないとか、ね。言われると反射的に不快になりませんか。自分の正当性に一方的に疑義を呈されれば誰でも嫌な気分になる。
 日本人が何かを主張するとこうなりがちです。律法を押しつけるだけで個人の主張ではなくなり、反論を許さないものになる。
 改めて反論の構造をみてみましょう。
 反論とは、なんでもかんでも逆らって反対して否定するわけではなく、的確に反対意見を述べることです。
 そのために重要なのは、命題を明確にすること。どうせ反論されるんだから命題はどうでもいい、というわけではない。命題がなければ反論は存在できません。

 命題から反論へ至るまでの基本的な構造。
 1 「主語」+「~である」「~べきである」
 2 命題の反芻。確かに~である。先ほどのタマネギの例がありましたが、確かにタマネギにはそのような効果がある。
 3 反論する根拠を示す。~という事実があるから、~であるということは成り立たないということを示す。
 4 結論する。「主語」+「~ではない」と断定する。これが曖昧だと、反論になりませんし、その後のアウフヘーベンもない。

 こういう、一対一の反論ですら難しいとみなさん思われたかもしれませんが、反論の発展においては人数が増えていきます。それが議論です。
 反論というのは個人の意見、対話というのは一対一での反論の応酬、議論あるいは討論というのは、複数の人間による反論の応酬です。
 どんどん数が増えていくわけですから、一個一個の反論が~である、~ではない、とはっきりしたものでないと、何が命題なのか、その命題になぜ反論しなければいけないのか、どんどん曖昧になっていってしまいます。
 日本語は、反論も議論も下手です。容易に主語を省いてしまうからですね。主語を省くということは、論点を隠すということでもあります。
 一回目からずっと日本語の特徴として主語がない、主題が曖昧になる、あるいは主語がどんどん移り変わってしまうと話してきましたけど、その利点もあれば、欠点もある。
 欠点が、これです。反論できない。
 そもそもなぜこうなったのか、社会的な背景から読み解いてみましょう。目的はその背景から自分を解放することです。
 
 反論ができない理由① 縦社会
 黙契主義というか、暗黙の了解で成り立つ社会というか、お前たちはみんなこういうふうに生きているからわかるでしょ? みたいな、主題はすでに語られているという建前のせいで反論できない。律法主義の最たるものといいますかね。
 なぜそうなったか。まず一つは、日本はずっと縦社会であったこと。その根幹には、朱子学の観念がある。
 先日「正論オジサン」というニュースを見たんですけれども。
 三重県松坂市の駅前商店街に現れる、自称89歳の法務省OBという人が、毎日歩道に1センチでも出ている看板、のぼりの土台、自転車等を無断で店の中に押し込め、猛烈なクレームを入れる。ときには看板を壊したり、のぼりを切るなどする。これにより一帯は商売が成り立たず、売り上げが激減したと。つぶれちゃったお店もあるらしいですね。
 みなさんの周囲にも、多かれ少なかれこういう方はいると思うんですね。すでにある律法的な決まりごとを振りかざす。それが通用する社会というのは、きわめて限定的です。たいてい日常的に議論して境界を定めねばならないのに、機械的にやろうとする。反論し、反論される能力そのものがなくなっているんですね。
 日本の歴史上、最も反論を封じた政権は徳川幕府です。
 社会秩序を保つ手段として朱子学を採用したからですね。朱子学というのは儒教の礼学にいろんな注釈を入れた、いわば孔子ワード解説集です。いまでも、朱を入れるという言葉がありますね。
 この最大の特徴は孝行、つまり親孝行の重視。これが日本の縦社会の原型を完成させた。もともと縦社会の傾向はあったんですけれど、それを律法化させたわけです。
 目下の者は目上の者に従う。子は親に従う。生徒は教師に従う。客は店員に従う。いろいろあります。
 なぜ採用されたのか? これは、内戦防止策だったんですね。ちょっと前までは下剋上の時代でしたから。
 下克上をされると内戦になる。内戦になると家系が断絶する。これも日本の特徴なんですが、家系というものを秩序の根幹にすえているので、それが断絶すると秩序が崩壊する。経済活動もめちゃくちゃになる。
 だからなんとかして、下の者が上の者に逆らわない社会秩序を構築しなければ、下剋上が続いて滅んでしまうという危機感があったわけです。
 で、1600年代前半に江戸を中心として導入されたのが朱子学です。この政策が、今なお様々に形を変えて、日本全国で存続している。
 江戸時代の刑罰の判例を見ていると、親をないがしろにした罪で追放されたり、殺されたり、処刑された例がひじょうに多い。
 たとえばこういう例があります。夫婦で暮らしていました。小さい娘さんがいます。病気のおやじさんがいます。このおじいさんが口うるさく言うので、お嫁さんがすっかり弱ってしまって実家に帰ってしまいました。
 旦那さんも幼い娘をつれてなんとか家に帰ってきてくれ、うちには病気のおやじさんがいるんだと説得する。でも、その病気のおやじさんが私のことをいじめるから、もう帰りたくないんだと嫁がいう。嫁の親戚一同もガンとしてはねのける。
 男は仕方なく幼い娘を連れて帰って、その娘を殺しました、という事件があった。
 この評定の結果が残っているんですけれども、幼い娘を連れて帰ったら老いた父親を世話することができないのでその場で娘を殺した、それなら親孝行になるので罪を軽くする、という判決が出てるんですね。
 孝行というものを律法的に扱うとこうなります。
 一方、こういう例もあります。ある年寄りの父親がいて、現代で言うアルツハイマー状態になってしまった。勝手に動き回るし、知らない人の家に入ってしまう。仕方ないので家に座敷牢を作って逃げられないようにした。
 ある日、家が火事になり、あわてて父親を座敷牢から出した。そうしたら父親はびっくりしたせいか、自分から火に飛び込んで死んでしまった。この男に対して下された判決が、親不孝者。
 親を最後まで守れないなんて罪悪だ、ということで追放されてしまった。
 そういう社会が江戸期、明治期、戦後と、なんと400年も続いたわけです。今でも続いている面がある。
 上司をセクハラごときで訴えるなど何ごとか、みたいなね。
 反論することが下手な国民が育成される理由の一つがこれです。
 また別の理由もあります。
 
 反論ができない理由② 農耕社会
 農耕社会の特徴は、周期的で変化に乏しいこと。
 毎日、毎週、毎月、毎年、同じことが起こる。違うことが起こると、収穫に影響が出るので困る。だから天変地異を怖がる。月蝕で大騒ぎしたり、津波や日照りが起こったりするとなすすべがない。
 こうした社会では、先祖と子孫で、常識や生活の目的が変わらない。
 祖父母も両親も子どもらも、同じ話題しかなく、同じことしか考えない。
 今はテクノロジーの急速な発展のせいで、世代間で隔絶しがちですが、そういう社会のあり方は日本では新しく、あまり経験値がないんです。
 祖父母が言っていることと子どもたちが言っていることがほとんど変わらない時代のほうが長かった。しかし過去百年弱で、冷戦がなくなり、ソ連が崩壊し、ベルリンの壁が崩壊しと、次から次に激変し、いつの間にか世代間で考えが違うことが当たり前になってしまった。
 そうなると農耕社会的な生き方がそぐわなくなってくるわけです。
 受け継ぐべき考え方が断絶すると、同じ場所に住んでいるにもかかわらず、祖父母、両親、子供が、事実上、異なるコミュニティに属している状態になるわけです。そんな経験がこれまであまりなかったんですね。
 さらに他の理由もあります。

 反論できない理由③ WHEN社会
 習慣というのは、誰もがそこに参加できるし、参加すれば恩恵を受けられる、便利なツールです。そのツールの中に、日本人は、反論して当然という要素を組み込んでこなかったんですね。
 習慣、すなわちWHENに従えばいいから、反論する必要がなかった。
 日本人はほぼほぼ、「WHEN」で生活できていた。
 たとえば曜日的な習慣。今でも、月曜だから憂鬱になるとか、金曜だから飲もうとか、日曜だから休むとか言いますよね。水曜の昼だけどビールを飲むというのは例外とされてきた。客観的に見たら、何曜日に何をしようと大して変わりません。
 次に、契機的な習慣。締め切りだから頑張る。セールだから買いに行く。
 こういうジョークを先日海外の人から聞きました。「船が沈むときに怖がって脱出できない人に何と言えばいいか」という定番のジョークがある。
アメリカ人には、「今飛び込めばあなたは英雄になれます」というと海に飛び込む。ユダヤ人には「いま海に飛び込むと利率が上がります」、イタリア人には「いま飛び込むとモテます」と言えばいい。
 で、日本人は? 「あと5分で閉まります」と言うと飛び込む(教室・笑)。
 タイムカウントが大好きな人種だと、海外の人からも認識されていることが興味深いですね。別バージョンは、「みんなもう海に飛び込みました、残ってるのはあなた一人です」と言われると日本人はすぐ飛び込むと。これもよくわかってるなあ、と感心しました。
 で、さらに祝日的な習慣。
 GW、盆、正月、クリスマス等々。日付で何をしなければいけないか決まっている。
 季節的な習慣。夏だから海に行く。冬だからスキーに行く。
 こういう考え方をしない人も世界にはいます。スキーが好きなら夏はオーストラリアに行けばいいだけ、とね。自分の行動が大事なのであって、「いつ」に縛られない。
 季節を通り越して節目的な習慣。
 七五三を祝う。元服を祝う。成人を祝う。還暦を祝う。
 三歳だからこうする、五歳だからこうする。反論の余地がないんですね。
議論の余地なく、みんな従う。反論せず団体行動する。
 十代は学校に行くべきだ、二十代は働くべきだ、三十代には結婚して子どもがいるべきだ。いま完全にこのモデルケースが崩壊しました。経済的にこんなこと言ってられない方々が多数になった。
 ちなみに、過去の限界寿命だった50~60歳を過ぎると、驚くほど節目がないんですね。還暦以上になると、傘寿、米寿とか、ものすごく間隔をあけないと祝い事もない。正論をふりかざすことしかやることがなくなっちゃう。
 さて。
 我々の社会のおおもとは、縦社会であり、農耕社会であり、WHEN社会であった。
 こうした反論できない理由づくしのみなさまに、命題と反論を学ばせるにはどうしたらいいか、考えました。
 みなさんゴールデン・サークル理論はご存じですか?
 イギリス生まれのマーケティング・コンサルタントであるサイモン・シネックさんが提唱したものです。イノベーションとかが大好きな人たちにとってはヒーローみたいな存在ですね、シネックさん。日本の広告代理店業界、あるいはITイノベーション業界とか、アメリカのマーケティング業界でも有名人なんですが。
 この人が、優れたリーダーはどうやって行動を促すのか、というプレゼンテーションを2009年に行われたマーケティングの講義祭りみたいなところでして以来、広告、政治、外交、教育の現場などで世界的に広まったわけです。
 海外の人たちはすぐ宗教と結びつけるので、新たな信仰のあり方とみなされていたりもする。
 こちらを御覧下さい。

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 まず中心に「WHY」がある。自分はなぜそれをやるのか。欲求とか、信念とか、理想とかの理由ですね。自分が生きる、おおもとはなんだ?
 その「WHY」を解明したら、次が「HOW」です。
 ではどうやってそれを形にするのか。
 たとえば自分はコンピュータに可能性を持っている、なぜならいろんな人がつながって、いろんな知識が結びつき、なにかを知りたいと思ったらすぐに知ることができる社会にしたいんだ、そういう社会が実現すべきと自分は信じているんだ。
 ではどうやってそれをするのか。検索エンジンを作ればいいんだ。で、結果としてグーグルが生まれた。こういうのがゴールデンサークルだと。
 テスラ社とかね。地球文明はいずれ限界をきたす。人間は絶滅するか、宇宙に進出するかだ。ではどうやって進出するか。儲けてロケットを作ってさらに投資家を集めて、火星に人を送るんだ! と。
 こんな感じで、そもそも自分はなぜ今の自分なのか、なぜその欲求を持っているのか。どうして自分はこんなんなんだろう、というのを突き詰める。
その後、じゃあどうやって生きよう、と考える。自分を認めて、社会と相対して、この「HOW」でいろんな反論をするわけですね。
 今は手段がない。だったら作ればいいじゃないか。
 今はこれが邪魔だ。だったらどかせばいいじゃないか。
 今は法律がない。だったら作ろうじゃないか。そのために俺は政治家になる。とかですね。
 その結果、「WHAT」に至る。
 なおアメリカでは、このゴールデンサークルがずっと逆だったんですね。
 最初に「WHAT」があった。近代化ののち、商品の大量生産が可能になったからです。問題は、その大量に作った商品をどう売るかだった。
 それで、アメリカではセールスマンという職業が一般化した。
 「WHAT」が中心にある。化粧品が大量にある。車が大量にある。冷蔵庫が人口よりも多くある。で、それらを売るために、「HOW」である様々なセールスの手法が発明された。あなたが冷蔵庫を買わなければいけない理由はこうだ! と口八丁で売りつける。それが昔のアメリカの経済のあり方だった。「WHAT」から「HOW」、そして「WHY」が最後にあった。この「WHY」はとってつけた理屈にすぎなかった。
 それを逆転させるのが、これからのイノベーションだと。なぜそもそもそれがあるのか、なぜその商品が生まれなければならなかったのか、なぜ自分はこの社会に生きているのか、生きたいと思っているのか。そんな根本を追求することがこれからの人類であり、人類社会であり、人類社会の経済のあり方であるというのが、このゴールデンサークルの思想になりつつある。
 宗教っぽいと思われた方、その通りです。これは宗教的空白を埋めるものとしても、もてはやされました。つまり万能性が高い発想法なんですね。
 そんなわけで、今回のお題。
 本当は今日、和解についてお話したかったんですが、その前に反論できるようになっていただきたい。そのため、今回の課題はみなさんにゴールデンサークルを作ってもらうことにします。
 命題と反論を自分なりにできるようになるための訓練として、「WHY」「HOW」「WHAT」を箇条書きにしてみよう。
 まず「お題」を見つける。漠然としたやりたいこと、目標、目的などを見つけ、なぜそう思うのか考える。自分がいまついている職業、自分が結婚した相手、自分がいま住んでいる場所は、なぜ選ばれたのか。理由を明らかにする。何が自分を決心させたのか? メリットは何かしら? と。
 そのWHYから、これからの生き方を規定するものを抽出する。たとえば、長生きしたい理由、幸福になりたい理由、金持ちになりたい理由、宇宙に行きたい理由、とかを明らかにする。
 次に「HOW」、方法を明らかにする。
 ある場所にずっと住み続けるにはどうしたらいいかしらとか。
 で、結論として「何を」すればいいか。
 毎月どれぐらい稼ぐべきか。働くための健康を失わない方法。とか。
 お題から、なぜそうしたいか、どうやってそうするか、何をすればいいか、を順番に明確にしていただきたい。
 まあ、このゴールデンサークルがいまいち日本で流行らないのは、「WHEN」が相変わらず中心にあるからですね。
 日本版ゴールデンサークルは、「WHEN」があり「WHAT」があり、最後に「HOW」がくる。いつやるか、何するか、どうやってやるか。
 週末だからなんかするか、キャンプとかどうだろうか、よし、どこの山に行こうか、みたいな。
 WHYはどこにもない。なぜ週末なの? という問いはない。
 ちなみに、これとまったく同じ行動原理を持つ組織は軍隊です。
 何時何分までにそこにいく、何時何分まで行動する、何時何分に起床する、そうすると余計なことを考える必要が無いので迅速に動けるわけです。議論するエネルギーをそのまま行動に費やせる。
 ある意味、大変効率のいいやり方なんですね。みんな一緒だから、競わなくていい。まぁ競う人もいますけど。七五三とか。だいたい七五三の季節になるとLINEとかでめちゃめちゃ映えている子供たちの写真が送られてくるんですけれど、すごい金をかけているなと。そういうエネルギーがそもそもあるということは他に使っていないということなんです。
 何に使っていないのかというと、議論していない。反論しない。反論する必要が無いので、時間もある。反論というのはとても時間がかかるし、エネルギーも必要です。一対一ならまだしも一対多数になったり、多数対多数になったりすると、ものすごいエネルギーが必要になる。命題を確認するだけでとても労力がかかる。
 そういうことを一切せずにこられた日本人というのは、ある意味、大変幸福だったんですね。時間が余るので娯楽も増える。日本人がよく江戸の趣味力とか科学力とか、日本人の趣味力はすごいとか言われる理由がそれです。軍隊なみにエネルギーを効率よく使っていた。その代わりWHYを持つこと、反論すること、親や習慣や時節に逆らうことは禁じられてきた。
 日本地図で有名な伊能忠敬さんとか、40代になってやっと自由だ! と言って好きなことをやり始めましたけれども。多くの方はそうはいかなかった。伊能忠敬さんって、やりたいことのために、ずっと貯金し続けたんですね。若い頃からWHYを持ってたけど、家のためにずっと我慢してた。
 今の世で、我慢する必要はそんなにないはずです。
 というわけで。
 ゴールデンサークル理論に自分を当てはめてみて、改めて自分はなぜそういうことをしているのか、なぜ自分はこういうふうに生きる道を選んでいるんだろう、それって誰かに言われたことだろうか、他の可能性もあるんじゃないか、といったことを、じっくり考えましょう。それまで自分が省いていた主語が立ち現れると思います。
 みなさん自身が変わらないと、文章の技術だけ教えても、文章が変わらないんですね。どんな課題を出しても、こなせないだけになる。
 みなさんが怠けているとかではなく、ご自身の中にゴリラを見つけないと、文章にすべきものがないんです。文章を書く必要がない。

 さて。今回は質問がたくさん出るんじゃないかしらと思って、講義終了10分前ですが質問の時間を設けました。
 今日はあれか、西武の人が一人もいないから僕がマイクを持っていかなきゃ行けないのか? だんだん放置されるようになってきた……(教室・爆笑)

Q:反論というのは日本文化的に好ましくないというか、敵を作るというか、反感を買うというか、あまりよろしくないと思うんですが、こうしたあまり読みにくい文章というものを小説で使うメリットというのは、どのようなものがあると冲方さんはお考えでしょうか? わざわざ反論するというのが、読みにくい文章、反論を小説で使うメリットは何でしょうか?

A:講評した文章が読みにくいということ? ああ……本来はですね、命題と反論は、読みやすいです(笑)。頑張ってできないことをやろうとしているので読みにくいのでしょうが、そのうち読みやすく書けるようになります。さて、なぜ反論が必要か。繰り返しになりますが、主題を浮かび上がらせるためです。物語でなぜ反論しなければならないか。何の話か確認するためです。
 反論がないなら何も話す必要はないわけです。物語が生まれる理由すらない。発言もない。そこに自分たちがいる必要もない。
 たとえば大自然を見たときに、反論の余地なく大自然なわけです。それは自分がいようがいまいがそこに大自然が存在しているからで完結している。
 その大自然をテーマパークに変えましょう、となったとき、このまま残すべきか否か、介入する可能性が生まれる。自分がYESというかNOというかによって、結果が変わってしまうとなれば、発言せざるを得なくなる。
 もちろん大自然に興味はないとなれば、発言する必要はない。物語は生まれない。主題も存在しない。
 人は、常にあらかじめ正反合の「合」に属していると思っていますが、そうではないと気づいたとき、反論の機会が生まれる。
 そうした反論は、反感ではないですね。
 感情的な論点に抵触する反論だけが、反論ではありません。
 反論というのは基本的に有意義な行為です。感情を逆撫でされるという時点で、もうその有意義さを損なっている。何かが根本的におかしい状態にあり、その何かが判明しない限り、正しい議論は行えない。
 何がおかしいか、なぜそうなるか、一人一人考えて頂くための課題です。

Q:物語内の反論について。エッセイなどはわかるんですが、物語の反論というのがいまひとつわからなくて、たとえば大学生の登場人物の前に、高卒で働いている人が現れて、主人公の生き方を反論するとかそういう感じでしょうか?

A:たとえば、高卒の人物がいると。日本だと義務教育が中学まであって、高校まで義務教育にしようという話がある。教育を受けるということが社会的な活躍に直結するという観念が背景にある。今のお話で言うと。
 で、大学に行くのは当然だと思っている人物たちがいると。そういった社会がある。そこに対して、アンチテーゼとして高卒の主人公、ないし高卒の脇役ないし、恋人ないし、ヒーローないし、ヒロインないし、誰かを出すわけですね。そうすることによって物語の世界観が浮かび上がるわけです。
 それまで常識だったものが、対抗する別の常識とぶつかり合うことで、輪郭がはっきりする。
 大学に行っている人間、行っていない人間、行ったけれど辞めた人間、行こうとしているけれども行けない人間、いろんな輪郭がはっきりしていく。
 その一つ一つの価値観はそれぞれである。大学生から見た価値観、大学生だった人から見た価値観、大学生になりたかった人から見た価値観、いろんな価値観が浮き彫りになります。
 こうした価値観を浮き彫りにするきっかけとして、アンチテーゼとしての登場人物が登場するのが物語です。
 アンチテーゼを一切持たない登場人物というのは、登場人物になり得ないわけです。たとえばドラえもんでのび太くんが学校に行きたくなーいとか、寝てたーいとか、なんだろう、空飛びたーいとか、本来あり得ないことを言う。現実への反論です。それでドラえもんが動く。正反合の合へ向かうためドラえもんが道具を出す、出した結果また別の出来事がおこって、やっぱりこの道具をつかっちゃいけないねとか、空を自由に飛ぶのはいいことだね、とか新たな価値観、つまり最終的な合、結論が生まれるわけです。
 ドラえもんの道具は、わかりやすい「WHAT」ですね。その結果、日常が壊れるかも知れない、日常がかえって窮屈になるかもしれない。なんであれ世界が浮き彫りになる。
 登場人物がアンチテーゼを司っていると言う点では、グリム童話であろうと、ディズニー映画であろうと、ハリウッド映画であろうと、文学であろうと、全て一緒です。
 今は、このアンチテーゼが、物語を生み出す最大の力です。
 なお、大昔の物語は、このアンチテーゼの扱いが逆でした。いらん反論をして世を騒がすのび太くんを、最終的に死刑にしたり追放する物語が主流でした。王権の物語とか、宗教の物語とかですね。愚か者はこうして滅びましたとか、異教徒はこのようにして罰を受けましたとか、王様に逆らったやつはこういう末路をたどりましたとか、いろんな反論をたたき潰してきた。
 ヨーロッパの童話なんて、帝国主義にふさわしい物語になるよう何度も書き直されています。
 人間が発展するには、反論が重要だとみんなわかってたんだけれども、秩序維持のため反論を許さなかったという点では、どの国も一緒です。
 今もまだ反論が許されない局面はありますが、これまでの時代とは比較にならないほど自由に振る舞える。当然、物語もそのように変化した。
 社会的に弾圧されている方々も多くいますが、弾圧される危険性そのものは、ぐっと低くなった。
 なぜ反論が重要か? そもそも人間が言葉を発する根拠は、正論ではなく反論だったからです。道を歩いていたら蛇が出た! とかですね。この先は崖だ、危険だ、止まれ、とか。言葉というものは注意を向けさせ、行動を変えさせるために発達してきたわけです。
 人間は必要がなければ、意思疎通もしない。結果として暗黙の了解に満ちた社会が生まれる。
 しかしみなさんここに言葉というものを学びに来られていますので、言葉の力をよりよく発揮していただくために、反論する力を培って頂きたい。

Q:批評とか、反論とか、人格の否定ではないと仰っています。さきほど反論の論点の中に感情の論点があり、これはどういうふうに理解すればいいでしょうか? 感情の論点は人格の否定にはならないんでしょうか?

A:感情が論点になる場合ですね。なんと言えばいいかな。まず、反論されると傷つくので反論するな、みたいな主張がありますね。これは先ほどの王権の物語と同じで、反論を叩き潰すための主張です。合を否定している。現状維持のためにそうしている。
 罵詈雑言や誹謗中傷といった攻撃も、議論を殺したいからそうする。現状維持をしたいから、反論を封じる。
 これらが、本来の意味での、人格否定です。
 人格というのは、反論できないときほど否定されます。
 「塩ラーメンより味噌ラーメンのほうがうまい」という集団に対し、いや自分は塩ラーメンのほうがいいなと思いながら、黙って味噌ラーメンを食うしかないとかね。
 こっちがいい、正しい、と思っているのに、言えない。これが人格の否定です。その人の感じ方も考え方も、存在しないことにされる。
 ここですべきことは、味噌ラーメンを好きな人たちを否定するのではなく、自分はこうである、という輪郭を生み出すことです。味噌ラーメンが好きなあなたと、塩ラーメンが好きな僕。この輪郭を作らないで曖昧にしようとすると、一切の反論ができなくなるんですね。そして人格が消える。
 みんなでラーメンを食べに行ったときに、みんなそれぞれ違うメニューを頼んでいいんだよ、ということ。それが反論です。

Q:趣味嗜好みたいな?

A:趣味嗜好もそうですし、思想、主義、出身、価値観、信念、なんでもそうです。いません? 飲み会に行って、じゃあビールで、ビールで、ビールでって続いたときに、ハイボールでいいですか? って聞く人。許可をもらう必要は無いですよね。あるいは、最近勇気を持ってウーロン茶って言えるようになりました、なんてね。ちゃんと言いましょうね。自分の人格を否定する必要はない。
集団行動が得意で、効率的に動けるというのは驚異的ですが、デメリットがあるなら従い続ける必要は無い。人格否定の危険があるならなおさらです。
 言葉を学ぶという欲求があるのでしたら、その言葉を発すべき機会に、ちゃんと反論をしていきましょう。
 そこで正しく議論ができれば、合が発見でき、新しい自分になれる。そうすればまた新しい反論が生まれ、議論をし……と自分の人格が成長する機会をより多く得られるようになる。
 何の教室だかわからなくなってきた(教室・笑)。というわけです。

Q:今回の講義とは違う質問でもよろしいでしょうか? たとえば小説を書くときに、時間を消費して書くわけですが、この物語を書くのに一週間もかかってしまった。この物語を一ヶ月で書くことができたとか、物語の質というものは時間の尺度で評価したりすることは冲方さんはありますか? 

A:それもねえ……すいません、突然砕けてしまった(教室・笑)。
いや、ないですね。さっき「WHEN」について言ったじゃないですか。農耕社会は、周期的で変化に乏しい。で、唯一大きな変化というのが、時間が積み重なった変化なんですね。そうすると、何年もかけたものに価値があるとしてしまうのが日本人的な価値観です。樹齢五百年とかね。でも本当のところ、時間がかかったことに価値があるかどうか、誰にもわかんないです。
 ある日突然書いてしまったものがものすごく評価されるかもしれない。10年もかけて書いたけれども、やっぱりおもしろくないかもしれない。
 時間をかければかけるほど、これでいいのかという反論がどんどん積み重なっていくので、より精度が増し、命題もはっきりするのは確かです。議論も多岐にわたるものができる。短時間だとどうしても常識的な物事を瞬間的に書くしかない。じっくり時間をかければ、質を高められるでしょうが、あくまで可能性にすぎません。
 ですので、早く書けるから作家としてすぐれているとか、じっくり書いたから作品として優れているとか、そんなことはないです。広告の問題です。
 よく書店のポップでもありますけれどもね。構想5年! とか。ただのキャッチコピーです。そのうちお話しますが、人間の価値と時間は密接な関係がありますので、そういう表現になりがちというだけです。
 大事なのは、どうしたら上手く書けた、という実感を掴めるか。
 機械的にどれだけ時間をかけたからどう、というのは、字の練習とか、記憶する単語の数とか、そういった基礎訓練の話ですね。

以上ですかね。本日もお疲れ様でした。


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