見出し画像

冲方塾 創作講座5 講評①「自分の弔辞を書く」

創作講座 第2回 一人称と三人称 主語を見失わない

講評 「自分自身の弔辞を書く」

さて、皆様こんばんは。本日もよろしくお願いいたします。
前回の課題は、「自分自身の弔辞を書く」でした。
一人称で書くと、「私は死にました」です。それを客観視し、三人称である「あの人」として書くことで、人称、主語というものを意識して頂く。

 前回の講義では、主語が大事ですよ、主語を見失うと人称というものには何の意味があるのかわからなくなってしまいますよ、ということと、そのくせ日本語の特徴としてすぐ主語を省いてしまうんです、ということをお話しました。
 主語を省くから、何を言っているのかわからなくなってしまう。なんとなく意味はつたわるんだけれども、前後の文脈をよくよく読まないと正確な意味が理解できない。日本語にはそういう特徴があるということをお話ししました。
 またこの自分の弔辞を書くというのはですね、自分は最終的にどんな評価を得たい人間なのかを自覚する訓練になります。これは燃え尽き症候群になった人に、もう一度自分を見つめ直してもらうためにやらせたりもするらしいです。燃え尽きた人にとどめを刺しそうな気もしますけど。
 さておき、この講座の目的は、自己批評力を身につけることです。
 自分の文章を自分で批評することができる力を身につける。これが身につかないと結局いつまでたっても堂々巡りです。自分の文章の何が悪いかわからないと、先に進めません。そのために重要なのは執筆の主体である、自分自身を自覚すること。つまり文章を書いている自分ですね。そしてまた、執筆している対象を主語として客観視すること。
 自分と、自分が書いている文章が書かんとしていること、これらをちゃんとわける。書く主体である自分、書かれた主語、これをちゃんと切り離して考える。正しく客観的に、書いている自分と、書かれた主語を意識する。
 文芸を学ぼうとするときにありがちなんですが、というかプロでさえそうなんですけれど、主語が客観視できないんですね。つまり自分自身と自分が書いているものが頭の中で一体化してしまう。書かれた文章が、自分の人格の延長のように感じられて、どう修正したらいいかわからなくなる。これが自己批評にとって最大の障害になります。
 音楽や絵は客観視しやすいんです。どちらも、上手い下手がすぐ、感覚的にわかる。文章の場合は、なんとなく書けてしまう場合が多い。これが成長をさまたげる要因の一つです。
 そしてもう一つは、技術的な問題として受け止められなくなること。書く主体である自分が批評されたかのような気分になってしまう。
 客観視すべきものに対して、ここはこうだよ、ここはいけないよと言われたとき、あたかも自分自身が批判されたかのように感じてしまう。もちろん自分が書いた文章ですから、自分の何かがそこに投影されていることもあるわけですけれども、投影された自分は、自分ではありません。
 この講座内では、僕がみなさんが書いたものを、ここがよろしくない、ここがいけないといっても、別にみなさんがいけないとかだめだとか言ってるわけじゃないですからね。そこは冷静になってください。文章を批評しているのであって、みなさんの人格を批評しているわけではない。
 これはですね、文筆家にとってもひじょうに難しいことで、プロでもたまにできなくなります。だから評論家とか作家同士の喧嘩も絶えないんですが、しかしそもそも、書かれているものがどうであるか、最終的に判断するのはその文章を読んだ全員なわけです。言語は個人と個人の間で決められることじゃないんですね。言語に参加している全員が同時に決めているものですから。書く主体である自分と、書かれた主体である主語をきちんと切り分けることは、言語に参加している自分を客観視することに通じます。それは人格として正しいか正しくないかの問題ではありません。
 また、これも重要なのですが、日本語というのは非常に変化が激しい言葉です。今どのような文章形態が妥当かどうかを議論するのも大切ですが、しかし確実なことは誰にも言えない。明日どのように日本語が変化するかは誰にもわからない。それが現実です。
 さておき、話を戻しましょう。

 今回の課題の目標。
• 執筆の主体である自己自身を自覚する
• 執筆している対象を主語として客観視する
• 書く主体である自分と、書かれた主語を、切り離して考えることで、正しく客観的に、主語を意識する

 弔辞とは? 死者を弔うための、最後の別れの言葉ですね。葬儀などにおいて故人と特に親しかった人が、多くの場合、遺族に依頼されて、参列者の前で別れを惜しむ言葉を読み上げること。
 弔辞を依頼された経験がおありの方はわかると思いますが、意外に書きにくいんです。なぜ書きにくいか? 
 まず故人を、あの人=三人称として呼びかける場合があります。
 あるいは、「あなたはいい人だった」みたいな二人称で呼びかける場合もあります。
 故人と生者、葬儀に参加した皆さんを、三人称で表現する場合もある。
 ちなみに「皆さん」には二つの意味合いがあります。「皆さんはこうですね」という三人称と、「わかりますか皆さん?」という二人称。これは非常にごっちゃになりやすい。

弔辞とは、
故人 あの人=三人称 あなた=二人称
生者 皆さん=三人称 あなた方=二人称
これらに次々に語りかける私(一人称)の言葉でなければならない。

 つまり弔辞は、三人称の故人、二人称の故人、三人称の参列者、二人称の参列者、という四パターンを駆使しながら、すべて私の言葉である一人称でまとめていかなければならない。
 多岐にわたる人称を駆使しないと書けないものが弔辞というやつなんです。だから文章のトレーニングとしても、ひじょうに適しているし、その分ハードルも高いんですね。
 今回、課題を出してくださった方々の中にも、誰に向かって話しているのかわからなくなってきました、と書いてらっしゃる方もいます。ここは正しいんでしょうか? と悩みながら書いている方がけっこう多かったのですが、悩んでしまう理由が、この多岐にわたる人称です。
 各人称をちゃんと意識して駆使しないと、何を言っているかわからなくなる。これは祝辞とか、あるいは入学式とか卒業式とかで入学されるみなさんとかに挨拶される方々の言葉を注意深く聞いているとよくわかります。途中で人称がごっちゃになったりして、苦労して考えたんだろうなーというのがうかがえたりします。
 特に弔辞というのは、この死者、故人、この人がですね、答えてくれないんですね。
 もはや、「あなた」として応じない存在。けれども、モノとして三人称的に扱うわけにもいかない。ここに安置されているこれは、とは言えない。扱いのナイーブさが、さらに文章作りのハードルを上げている。そのことを、今回課題をやってくださった方は実感されたんじゃないかと思います。
 では、講評に参りたいと思います。
 まず一つめ。

【講評1】
 彼は死んだ。何を為すでもなく、しかしさほど迷惑をまき散らすでもなく、ただ生きて、死んだ。イギリスのコント風に言うなら「故人間」であり「元人間」だ。その馬鹿馬鹿しくも素っ気ない言い回しは、彼の人生を端的に表現している。
 努力と同じくらいの妥協を繰り返し、結局何者にもならぬまま――あるいはなれぬまま、舞台から退場するその他大勢のうちの一人。その生き方が幸福であったのかどうかは、ただ本人のみが知るところだろう。

 もはや弔辞ではないんですけれども(教室笑)。
 この文章の特徴は、「死んだ」「死んだ」「故」「元」「舞台から退場する」、つまりですね、死んだということしか言ってないんです。
 その間、彼は三人称です。「ただ本人のみが知るところ」、次いで「だろう」と断定を避けている。つまり一人称も二人称も存在しなくて、三人称的な説明をしている。
 これは「山手線の池袋から東京間の電車の速度は約六〇キロです」と言っているのとほぼ一緒です。つまり、現象、あるいは出来事を説明しているのであって、それ以外の要素がぱきっと無い。
 なぜこうなるかというと、「彼」が何者かわからない。彼が何を為すでもない、迷惑をまき散らすでもない、ただ生きた、と。これは個性がないということですね。「端的に表現」している、これも個性がないと言っている。「努力と同じくらいの妥協」。プラスマイナスゼロだと。結局何者にもならぬ、その他大勢のうちのひとり、幸福だったかどうかもわからない。
 前回の講座で、文章というものは気づかせる、気づくことが一つ大きな力であるとお話しました。ゴリラに気づくか、と。これは結局、彼が何者でどんな特徴を持っているのか、気づけませんでした、私にはよくわかりませんでした、と言ってしまっている。たぶんこういう弔辞を書くとすごく怒られると思うんですけれども。
 人間というのは特徴が無いということは絶対に無いんですね。普通とかノーマルとかいうのは、それ自体がファンタジーで、人間というのは個別の特徴を必ず持っている。その個別の特徴を無数に集めて基準を作る必要があるとき、なんとなくひとかたまりに普通とかノーマルとかいう言葉を使いますが、そんなものは実在しません。
 自分を見つめたときに自分をどう捉えればいいのか、本人のみが知るところだろうと本人に投げている。自分には判断できないから「あなたが考えて」になってしまったわけですね。「私のどこが好きなの?」と問われて、「そんな面倒くさいこと訊くなよ」と返しているのと同じですね。
 これは結局、気づくべきゴリラが見つからないまま書いている文章で、書こうとしている対象の特徴を発見することができていない。
 頑張って課題をこなそうとしたわけですから、次回もぜひ頑張りましょう。もっと文章を通して、いろいろ気づけるようになるといいですね。
 決して、これを書いた方の人格を否定しているわけではないですよ、書かれた文章を課題に従って批評しているだけです。はい、次。


【講評2】
生前の伊藤大輝さんは、「オレはパン屋になりたいんだ」と、口癖のように言っていました。
彼はパン屋の香りを愛していました、味よりも香りを愛する男でした。
彼が、大好きなバゲットをもう二度と口に出来ないということが、現実として受け止めきれない人が、この場に多くいます。
歓談のさなかに飛び出す無慈悲なツッコミは、その癖の強さから友人間でも多くのファンを持っており、あの男は人の心を持ってはいないのではないかと評され、愛されていました。
この先、伊藤さんのツコッミが聞けないと思うと非常に寂しいと、皆が思っています。
合掌。

 香りっていってるのに、口にできないっていうのは、ここはもうちょっと工夫してほしかったですね。せっかくここで特徴を掴んでいるのに。大好きなバケットに頬ずりしてクンクンしている姿が見られないのは残念みたいな。ここは一貫性がないと、結局彼の特徴というものがわからなくなる。

 で、途中から主語が「無慈悲な突っ込み」になってますね。無慈悲な突っ込みが「持っている」、持っているものが「いました」。三人称三人称一人称。「あの男」は三人称ですが、半ば二人称的に使っている。これ三人称二人称一人称が全部ごっちゃになったあげく、「愛されていました」と落ち着けてしまっている。これが日本語の特徴で、なんとなく書けてしまうんです。けれども、よくよく考えるとおかしい。よく結婚式の祝辞なんかでもこういう文章を聞きますね。
 最終的に愛されていましたっていうと、なんか納得しちゃう。あ、そうなのねって。でもよくよく考えると、主語は「無慈悲な突っ込み」なので、彼はともかく彼の無慈悲な突っ込みが愛されていたので、彼自身のことはどうでもいいのかと、そういうことになってしまう。
 最後の一文でも、伊藤さんじゃなくて伊藤さんの突っ込みのほうが大事になっているわけですね。そして最後、「皆が思っています」。ここもまた注意なんですけれど、一人称だったら自分の感情というものは理解できます。自分の心は自分にしか理解できない。ただし、「皆が思っています」というのは、厳密には、断定できないんですね。
 皆が思っていることでしょう、と本来書かねばならない。皆さんの心の内側は、一人称である僕からは絶対にわかりません。絶対にわからないにもかかわらず、文章としては成り立つので、ついこう書いてしまうんですけれども、これは正確な書き方ではないんです。
 三人称を使う場合、本来、すべて推測、伝聞、あるいは見たものの事実しか書けません。これはどんな文章でも注意すべきことです。
 最後の「合掌」。仏教式の葬儀なんですかね。ここで合掌という言葉を生かすなら、終盤にちょっと仏教的な用語を使うというか、必ずしも信者ではないのでしょうが、場の様式に合わせているという、「参列者の皆様」への言葉がほしいですね。そうすると合掌に「あぁ」と納得するわけです。


【講評3】
本日は山崎さんのご葬儀にお集まりいただきありがとうございます。
かくいう私も久しぶりに会い、時の流れの早さに驚いたものです。
山崎さんは大変、熱い人でしょっちゅうあれこれと怒ったりわぁわぁ元気に喋っていました。
そのくせ悩み始めるといつまでも悩んでいるというとても複雑な人でした。
そして、不思議なことを言う人でした。
今でも覚えているのが、夏の明け方電話をかけてきて「夜は青いんだ。知っていたか?」と言われたことです。
山崎さんが言うには、夜はうっすらと青く見えるのだそうです。
山崎さんは今、天上に旅立とうとしています。ありがとうございました。

「本日は山崎さんのご葬儀にお集まりいただきありがとうございます」
 これは集まった人たちに呼びかけています。ここの主語は書いてないですけれど、「皆様」は複数の二人称で、相手に呼びかけています。
「かくいう私も久しぶりに会い、」
 ここがね、明言がない。お集まりいただいた皆様と会ったのか、亡くなった人と久しぶりに顔を合わせたのか、これがわからない。
「時の流れの早さに驚いたものです。」
 久しぶりに会ったら死んでいて、すごく年をくっていたみたいなニュアンスが感じられますが、文章としてはなんとなく成り立ってしまっています。
「山崎さんは大変~」
 えー(笑)、すごい迷惑な人だったんだなと。
「山崎さんが言うには、夜はうっすらと青く見えるのだそうです」
 ときたら、
「山崎さんは今、「その」天上に旅立とうとしています」
 ということですね。
 彼がかつて言っていた空に、いま旅立とうとしているということで、ここで指示語(その)を入れて、ちゃんとつなげてほしかった。なんで空の話をしているのかな? あ、そういうことか、という結論をここで強調しなければいけないんですけれども、このままだとすーっと読んで、言わんとしていることが伝わらない可能性がある。
 ちなみにこの「ありがとうございました」。
 これ、主語がないですよね。何人称だかわかりますか? これは皆様に向けて「ありがとうございました」ですけれどもね。非常に複雑な言葉なんです、ありがとうございましたっていうのは。ありがとうの語源はもともと「有り難い」、レアケースであると。こんなにめったにない機会、こんなにめったにない人だからすごいという、それ自体、本来評価とは関係ないんですね。珍しいね、と。
「私はこのような珍しい、ありがたい機会を与えていただいた」だったら一人称。
「この山崎さんの葬儀に集まってくれる皆様はありがたいひとたちです」というと二人称。
「山崎さんの葬儀という場に参加できたということは、ありがたいことだ」これは三人称です。
なんとでも成り立ってしまうこの「ありがとうございました」の使い方を、厳密にやれるようになると、文章力が一段アップします。
何を有り難く思っているのかをはっきりさせることは重要です。


【講評4】
皆様、お忙しい中ハルミの葬儀にご参加いただき、誠にありがとうございます。
ハルミは時には当事者としてつまづいたこともありましたが、意欲的な人生だったと今では肯定してあげたいと思っております。
苦悩する者の代表として、常に新しい定義を掲げる役回りを荷ってまいりました。
人生は解釈のし方によってはいかようにも変化、つまり肯定できる自由があると思う次第であります。
ハルミ亡き後、人間の真実と尊厳と世界の平和を願いながら我々も又、それぞれの道を歩んで参りましょう。

「意欲的な人生だったと今では肯定してあげたいと思っております」
 これは一人称ですね。
「つまり肯定できる自由があると思う次第であります。」
 ここも一人称。
「ハルミ亡き後、人間の真実と尊厳と世界の平和を願いながら我々も又、それぞれの道を歩んで参りましょう。」
 これも複数の一人称です。
 ハルミは、ハルミの葬儀に、苦悩する者の代表として存在している。つまり三人称で始まって、結論は常に一人称にしているという文章の作り方になっております。ほとんどすべての文章がそうなっているので、この方の文章の書き方の癖なんだと思いますね。最初に三人称的な文章を書いて、最終的には私か私たちの話になる。
 これはご本人の癖で、それがいいか悪いかはさておき、統一されているので、結果的に次に何がくるかわかりやすく、読みやすいですね。
 ただ、最初「ハルミさんはこういう人でしたよね」と言っておきながら、突然「肯定できる自由があると思う次第であります」と、前回の講座でもやりましたが、三人称の末尾に一人称の文章をぽっといれると、たちまちそれが一人称の文章になるという日本語の特徴を意識してもらえるとよいですね。良く言うと、人称の推移を上手く使っている。悪く言うと、文章の書き方がそれで固定されてしまっているので、他の文章の書き方を練習できるようになるといいと思います。

【講評5】
私が思うに、彼女は善意を理屈で覆い隠したような人でした。
例えば、彼女が大学時代に行った開発途上国の子供たちに不要になった文具を送るという活動。
それまで、ボランティア活動などに興味ないという風だった彼女の突然の行動に、友人達は驚いたようですが、彼女曰く「これは不平等をなくすための行為であり、善意や親切やボランティアとは違う」ということで、その理屈もまた、彼女らしいと思ったものです。
願わくば、彼女が理想とした社会に、世界が少しでも近づきますように、ということで結びの言葉とさせて頂きます。

「私が思うに、彼女は善意を理屈で覆い隠したような人でした。
 例えば、彼女が大学時代に行った開発途上国の子供たちに不要になった文具を送るという活動。それまで、ボランティア活動などに興味ないという風だった彼女の突然の行動に、友人達は驚いたようですが、」
 ここですここ。友人たちは驚いた「ようですが」。これが正しい書き方です。驚いたといえば、顔とか表現とか表情とか言葉とかで判断できることではあるんですけれども、本当に驚いたかどうかはわからない。というわけで、三人称の友人たちを表現する際に推測表現をしている。細やかですね。

「彼女曰く「これは不平等をなくすための行為であり、善意や親切やボランティアとは違う」ということで、」
 ここで言ってますね、善意を理屈で覆い隠したような人でしたと。本当は善意を持っているんだろうに、こうやって理屈で覆い隠してしまうということで、
「その理屈もまた、彼女らしいと思ったものです。」
 一人称で表現してますけれども、彼女の特徴をここで表現している。これがいわゆる、端的な表現というやつです。
「願わくば、彼女が理想とした社会に、世界が少しでも近づきますように、ということで結びの言葉とさせて頂きます。」
 この方は祝辞や弔辞を書いた経験がおありなんじゃないかな。あるいは祝辞や弔辞の定型文を勉強されたのかなと思いますけれども。
 彼女が理想とした社会に、世界が少しでも近づきますように。三人称で、主語は世界です。この一文に「ということで、結びの言葉とさせていただきます」、これは私の結びの言葉とさせていただきます、なので一人称。
 一人称、三人称の扱い方も上手。ここで、ありがとうございますとか、皆様は~とか入れると、二人称もちゃんと上手く入る文章になります。ただ一人称と三人称の使い方は非常に達者です。

【講評6】
木村浪漫君のご霊前に、慎んで離別の言葉を送らせて頂きたく存じます。
母の腹より共に生まれて以来、私と浪漫は同じ喜び、同じ悲しみを分かち合い、また乗り越えて来ました。この浪漫との突然の離別に、私は自らが引き裂かれてしまうような、深い悲しみを感じています。
私は悲しい!
最早私は、私の優しい笑顔をみることはもう決してない。最早私は、私の温かな言葉を聞くことはもう二度とない。私はたった一人で、この黄泉路へと続く道を歩まなくてはならないのです。
どうか木村浪漫君の魂に、穏やかな安息がありますように。さようなら。いつまでも忘れないよ。

 これは、自分と切り分けるのがつらいからこうなったのかな。あたかも双子であるかのように描くことで、切り離す作業をしようとしているっていうんですかね。主語と主体の自分を。
「この浪漫との突然の離別に、私は自らが引き裂かれてしまうような、深い悲しみを感じています。」
 まぁもちろん自らが引き裂かれているわけですね。文章上で。
「私は悲しい! 最早私は、私の優しい笑顔をみることはもう決してない。」
 突然の一人称です。「私」って言っちゃいましたね。浪漫君って言わなきゃいけないのに。
「最早私は、私の温かな言葉を聞くことはもう二度とない。」
 もうほんと、浪漫君がどんどん私の元に戻ってきてしまっている。本来切り離さなきゃいけないものなのに。
「私はたった一人で、この黄泉路へと続く道を歩まなくてはならないのです。」
 黄泉路へ続くなら、これ死んだほうの浪漫君なんじゃないかな。ここらへんで私と浪漫君がくんずほぐれつになってしまって、最後どこにいっていいのかわからなくなってしまった。結局、最後は一緒に黄泉路へ旅立ってしまったんですね。(教室笑)
「どうか木村浪漫君の魂に、穏やかな安息がありますように。さようなら。いつまでも忘れないよ。」
 さようならは本来、二人称ですね。さ・ある・よう・なら。あなたがそのようにする、というのであれば、私はここにとどまります、というような文章ですね。いつまでも忘れないよ、ここは一人称。
 木村浪漫君って言い続ければいいのに、なぜ私になってしまったのか。おかげで一緒に旅立ってしまいました。
 これは一人称三人称二人称を、ちゃんと入れてます。主語を客観視するという課題においてはあと一歩。もっと自分を客観視して書けるといいですね。

【講評7】
生前の庄司氏は活動的で、県内外を問わず興味のあるものを見つけると飛び出してゆく人でした。まるで、その時に彼がいた場所ではない新しいどこかを目指すかのように。それは普段の通勤で往路復路を日によって変えるような些細な事から、県外の講座に隔週で通うと言うような胆力を必要とするものまで、お集まり頂いた皆様の心の中にも枚挙にいとまがないかと思います。彼が今、安らかな場所にたどり着けていると信じて冥福を祈ります。

「まるで、その時に彼がいた場所ではない新しいどこかを目指すかのように。」
 まるで~ように、と言ってるんですけれど、飛び出していくんだったら、そのとき彼がいた場所ではない新しいどこかを目指していたわけなので、比喩にする必要はないですね。すぐネットサーフィンする人でしたとか入れると、彼自身はそこに居続けているんだけど、あたかもいなくなっているかのように、という文章が成り立つんですが。ここは推測文にする必要はないです。客観的に確認が可能な事実だからです。これは心情を表現しているわけではない、第三者の心のうちを勝手に読むわけではない。

「それは普段の通勤で往路復路を日によって変えるような些細な事から、県外の講座に隔週で通うと言うような胆力を必要とするものまで、お集まり頂いた皆様の心の中にも枚挙にいとまがないかと思います。彼が今、安らかな場所にたどり着けていると信じて冥福を祈ります。」
 飽きっぽい人ですね。そんなに恐ろしい場所とは思えないんですけどね、ここ(笑)。これが「祈りましょう」になると二人称ないし複数一人称の呼びかけ、「祈ります」は一人称ですね。
「お集まり頂いた皆様の心の中にも枚挙にいとまがないかと思います」
 枚挙にいとまがないものは何かというと、庄司氏がいかに活動的な人であったかという具体例がみなさんどんどん思いつくでしょうということで、文章としては一人称ですけど、最終的にはみなさんの想像に任せるという態度に落ち着いているわけですね。
 さきほどの三人称が一人称になる文章と似てますね。「普段の通勤で往路復路を日によって変えるような些細なことから」、なんとなく一人称の視点ですが、これ自体は三人称です。「でした」という評価で、私はそう思いましたと言っている。安らかな場所にたどり着けていると「信じて」「祈ります」が一人称。ここで三人称から一人称になる。
三人称が多い文章ですが、二人称を交えたり、ちょっと一人称での感想や、最終的に庄司氏がこうだったという現実に見えるものを描写している。で、思いますという私の価値評価がありますが、基本的には、お集まりいただいた皆様に具体的なところの想像は委託してしまっている。ここはもうちょっと私が見た庄司氏が書けると、文章を通して他人に気づかせる力が身につくと思います。
 けっこう弔辞とか祝辞は定型文なんですね。作文が難しいから、定型文が重宝されるわけです。枚挙にいとまがないと思いますとか、皆様もきっとたくさん思いつくでしょうみたいな定型文はですね、こう言っとけば無難だし楽だということで使いがちです。あえてこういう定型文を避けてみると、どれだけ弔辞が難しいしろものかよくわかると思います。
庄司氏の特徴を掴むのが大変だから、みんなきっと掴んでいることだろうし、私も掴んでいることにするという既成事実化をしてしまっている。「枚挙にいとまがない」というのは、書くのが大変だから、みなさまなんとなく察してくださいという言い方なわけです。結果的にね。
 ただ定型文を使いながらも、ちゃんと故人の特徴を掴もうという努力は見受けられると思います。


【講評8】
 さえさんの友人として、お別れの言葉を述べさせていただきます。
 さえさんは、良く泣いて、良く笑う人でした。何故か体力の無さとポンコツエピソードを自慢して、いつも楽しそうにすごしていました。引きこもりでお家が大好き、と言いながらも、急に連絡をくれて、一緒にご飯やお出かけしては、おなかとほっぺが痛くなるほど笑ったのはいい思い出です。
 よく頑張りました。ゆっくり休んでください。楽しかったです。ありがとう。

「さえさんの友人として、お別れの言葉を述べさせていただきます」
これは一人称ですね。

「さえさんは、良く泣いて、良く笑う人でした。【中断】」
三人称ですね。

「何故か体力の無さとポンコツエピソードを自慢して、いつも楽しそうにすごしていました。」
 はい、三人称ですよ、みなさん。楽しく過ごしていたではなく、「楽しそうに」です。なぜなら、よく笑う人だったから、そう推測できると。これは推測文としてちゃんと三人称を捉えています。達者です。

「引きこもりでお家が大好き、と言いながらも、急に連絡をくれて、一緒にご飯やお出かけしては、おなかとほっぺが痛くなるほど笑ったのはいい思い出です。」
 ここで、なぜ笑ったのか、どんな話題で笑ったのかがあると、さえさんと私の関係が、より親密なものとして胸にせまってくるんじゃないかなと思います。

「よく頑張りました。ゆっくり休んでください。」
 ここで二人称として故人に呼びかけている。

「楽しかったです。ありがとう。」
 これは一人称ですね。ありがとうは前後の文脈を考えて、明確にさえさんに対して言っている。ありがとうというのは一人称二人称三人称どれでも成り立ってしまうとさっきお話ししましたけれども、これは述語的にこの前の文章を読むと明確にさえさんの友人が、さえさんに向かって言っていることがわかる。非常に読みやすくわかりやすい文章が書かれていると思います。

【講評9】
 松田さんは平成、令和を代表する歴史作家でした。バブルが終わり格差社会に入り、貧困が日常となったこの時代を生きる私たち日本人にとって、松田さんの描く歴史上の人物は魅力的に思えます。歴史に埋もれた功績のある人物について、今私たちが考え学ぶことは、すなわち未来に対する展望を立てることに他なりません。その作品によって振り返る機会を与えてくれた松田さんに、改めて感謝の気持ちを送りたいと思います。ありがとうございました。そしてさようなら。

「松田さんは平成、令和を代表する歴史作家でした。」
 そういえば、令和になりましたね。
「バブルが終わり格差社会に入り、貧困が日常となったこの時代を生きる私たち日本人にとって、松田さんの描く歴史上の人物は魅力的に思えます。」
 歴史上の人物は、と三人称なったかと思ったら「思えます」これは私の感想、一人称ですね。

「歴史に埋もれた功績のある人物について、今私たちが考え学ぶことは、すなわち未来に対する展望を立てることに他なりません。」
 これ、一人称かなと思いきや、「こと」で三人称になる。
「未来に対する展望を立てることです」と三人称に落ち着いている。他なりません、という断定は完全に三人称的な断定。じゃあ他の場合は何か、というのをわかるように書くと、他なりませんという言葉をあえてここで使った理由が明確になります。
「他なりません」というのは末尾に使いやすい言葉です。歴史に埋もれた功績のある人物について、松田さんが埋もれていた人物を掘り返して、私たちに学ばせてくれている、考えさせてくれているというニュアンスなんだろうなということだけわかる。日本語的で、具体的には何なのかわからない。前段で松田さんは歴史作家だったので、この功績というのは松田さんの功績なんだろうなとかろうじて推測できる。
それを私たちが学ぶ、そうすることで未来に対する展望を立てることができる、と。歴史に埋もれた功績のある人物を学ぶことの「他の意義」を、ちゃんと考えた上でこれが書けるようになると、適切な「他なりません」の使い方になります。
 どんな選択肢がある中で、自分がこれしかないといっているのか、必ずしも書く必要はありませんが、最低限、書き手は考えておいたほうがいい。

「その作品によって振り返る機会を与えてくれた、」
 で、ここです。未来に対する展望と言ってるのに、振り返ってしまっている。こういうことになりがちなので、「他なりません」は注意して書きましょう。

「松田さんに改めて感謝の気持ちを送りたいと思います。」
これは一人称ですね。

「ありがとうございました。」
これは松田さんの功績に対しての「ありがとうございました」なのかな。

「そしてさようなら。」
前後の文章から、きっと二人称のありがとうございましたなんだろうな、と推測できますね。皆様ご静聴ありがとうございました、の意味ではないと。

いかがでしたか? いかに人称をごっちゃにしやすいか、感じられましたでしょうか。これらをきちんと意識して切り分けることが、書かれたものと、書いた自分を切り分けるスタートになります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?