冲方塾 創作講座14 対話する
というわけで、具体的な物品、行為、現象、観念、個人にしかわからない感情など、様々な定義を見て参りました。
定義とは、主題を説き明かす文章である、とも言い換えられます。
主題の意味、価値、成り立つ条件などについての文章が、定義である。
エッセイ、論文、記事、コラム、小説とか、あるいは音楽、映画、漫画、お芝居、あるいは政治、外交、経済、教育といった事柄、すべての言葉の根本にあるのが定義する力です。
たとえば、『アナと雪の女王』で言えば、エルザを追いかけているアナがいるわけですけれども、お姉ちゃんが大事だから追っかけていくのであって、いつかお姉ちゃんに打ち勝って自分が女王になるんだとか途中で言い始めると何の映画かわからなくなる。「アナの定義」が崩れるわけですね。
定義を崩さない。これはありとあらゆる文章の基礎です。手紙でもそうです。何の要件かわからない手紙ってたまにありますけれども。ただ書きたかっただけ、とかね。それはそれで一つの定義ですが。
で、ここでまた日本の問題。
古来、日本人は尊崇の念や、共通了解を重視する傾向があることから、勝手に定義してはいけない、暗黙の了解を重視するという文化があります。だから主語を差っ引いてしまう。みんな知っているんだから当然でしょ、という書き方をしてしまうんですね。
そういう書き方に慣れると、定義する力が自然と身につかなくなるんです。
定義する力が身につかなくなるとどうなるかというと、まず読解力がなくなります。
定義されているものを読み取る力もなくなるわけです。
で、判断力もなくなります。
定義されている事柄がわからないと、それがいいのか悪いのか、正しいのか正しくないのか、自分が読むべきなのか読むべきではないのか、そういった判断力もなくなる。
定義する力、読解力、判断力がなければ、当然、表現力もなくなります。
このうち表現力だけ突出してバーンと花開く、というのは少なくとも文章においては、まずありません。
すべてのありとあらゆる定義が自分の中で成り立ってこそ、意味というものが深まり、多種多様になり、より他者を共感させたり警戒させたりびっくりさせたりできるようになる。
勝手に定義してはいけないというのは、日本人においては常識になってしまっているところがあるので、難しいところがある。
たとえば子供の頃からふれているものとして、神社がありますね。
神社には聖典がないんです。明文化されておらず、行動、行為、仕草、毎日やっていること、歴代の宮司さんたちがやってきたことが教義になる。
世界でもまれに見る経典のない宗教なんですね。なんのためにお辞儀をするのかとか、なんで土足はいけないのかとか。人間が神聖な場に靴を履いてのっていけないんだったら、神様の像を造るときは靴を履くべきか履くべきでないか、逆に靴を履いている神様の尊さは履いていない神様とどう変わるのか、とかいった議論が全然ない。
選挙でマニフェストが語られますが、すぐ曖昧になってしまう。「財政の健全化」が何を意味するのかすら曖昧です。政府の財政を健全にすることが、民衆の財政を悪化させることを意味するかもしれなくなる。
イギリスにトランプさんが訪れたとき、ものすごい騒ぎになりましたけど、ちゃんと定義された批判が多いので面白かったですね。トランプさんの、お前ら貧乏人のくせに! みたいな大統領らしからぬ言葉に対しても、ちゃんと定義された批判ほど、びくともしない。
逆に日本人は定義することを避ける傾向にある。
これはむしろ問題点がはっきりしているので、やりやすいといえば、やりやすい訓練です。
無意識に「無定義」に束縛されているので、私ってなんだろう、とか、うちの家族って何だろう、この社会って、うちの会社って、社長の言ってることって、何なんだろう、とかですね。疑義を呈した時点で、束縛から解放されたに等しいわけです。
ただし、言葉によって意識しない限り、解放はありません。
定義する言葉の力が無い限り、無意識の無定義から解放されることはないんです。
というわけで、今回の主題は定義の是非を問うこと。
すなわち、命題について学びたいと思います。
主題とは その文章が示している「何か」。
命題とは その「何か」が成り立っている根拠の部分。
論証とは 命題の是非を問う(イエスかノーか答える)こと。
反論とは 命題の誤りを指摘し、主題を再定義すること。
結論から言うと、反論とは、命題の誤りを指摘すること。なんのためにするかといえば、誤りを正して、主題を再定義するためです。
命題の矛盾とか、命題のこの部分が過剰であるとか、過小であるとか、足らないとか、意味がずれているとか、意味がわからないといったことを指摘して、この主題は実はこうなんじゃないか、ああなんじゃないか、日本は本当に少子高齢化なんだろうかとか、コンピュータは人を幸せにするのだろうか、とか、定義を覆し、再定義する。
で、命題というものをざっと学んでいきたいと思うんですが、これは実は過去4回学んだことの応用だと思ってください。ちょっとめんどくさい用語がでてきますが、やっていることはいままでやってきたことの延長戦です。
命題とは 「真か偽か判断できる文章」である
□定言命題
全称肯定命題 …「あらゆる○○は」+「○○である」
例「あらゆる人間は」+「血縁のある母胎から生まれる」
全称否定命題 …「あらゆる○○は」+「○○でない」
例「あらゆる人間は」+「卵からは生まれない」
特称肯定命題 …「ある○○は」+「○○である」
例「ある人間は」+「代理母から生まれる」
特称否定命題 …「ある○○は」+「○○でない」
例「ある人間は」+「血縁のある母胎から生まれない」
単称命題 …主語が固有名詞の場合。
(全称命題の一部とみなされる場合もある)
例「冲方丁は」+「作家である」
仮言命題 …「もし○○ば」+「○○である/でない」
例「もし30分で1時間とするならば」+「一日は48時間となる」
選言命題 …「○○は、○○、または○○である」
例「人間は、男か、または女である」
命題とは、「真か偽か判断できる文章」である。
イエスかノーか、断言できる文章ということです。
草を食べる動物は草食動物である、みたいな。
草食動物って定義しているんだから、二重に定義しているんですけどね。
あるいは鳥は空を飛ぶ、とか、象は鼻が長い、とか。
イエスと言える文章。あるいはちゃんとノーと言える文章。たとえば、同じ鳥類でもペンギンは飛ばないとか、鶏は飛ばないとかいう場合、ノーと言える。
冒頭のQ&Aは正しい定義がなければ、正しい質問もできないし、正しい答えもできませんと言いましたけれど、この命題がなければ、イエスともノーとも言えません。
これが命題の重要なところです。これは真か偽か、ようはイエスかノーか。間違っているかあっているか。
命題の文章の形というのはいろいろあって、一番わかりやすいのは定言命題、形が決まっている。
なんかもうね、めんどくさい名称がついていて、がっかりしますけどね。
この学びにくさったらないですね。文明開化のときに、こういう定義がされたせいなんでしょうかね。
全称肯定命題。「○○である」。
みんな母親から生まれる。あらゆる人間に例外を許さない。
全称否定命題。「○○でない」。
人間は「卵からは生まれない」など、これも例外を許さない。
特称肯定命題。
対象を限定した場合です。限定命題って書けばいいのに。
「ある○○は」+「○○である」。たとえば、「ある人間は」+「血縁がないけれども、代理母から生まれる」とかね。
特称否定命題。「とある○○は」+「○○でない」。
たとえば「ある人間は」+「血縁のある母胎から生まれない」。代理母から生まれた場合とかですね。
この4つが定言命題、イエスかノーかをはっきりし、対象が定まっている、定義が完結に端的に為されている命題です。
ただ、さらにあるんですね、めんどくさいのが。
単称命題。主語が固有名詞の場合です。全称命題の一部とみなされる場合もあります。
たとえば、「冲方丁は」+「作家である」。これは否定になる場合もある。
冲方丁はたまに塾の講師もやる、とかね。いろんな場合があるわけです。
ある固有名詞についての命題をどうするんだという、これも西洋的厳密な定義を頑張って翻訳しているせいで、こうややこしくなる。
仮言命題。
「もし○○ば」+「○○である/○○でない」。「もし30分で1時間とするならば」+「一日は48時間となる」。
もし○○なら、あきらかに○○だ、○○ではない、というのを仮言命題と言います。
選言命題。
「○○は、○○、または○○である」。たとえば「人間は、男か、または女である」。最近だとLGBTに怒られそうですけどね。2パターンだけじゃないぞと。
定義づけの仕方には、これだけのパターンが考えられるわけです。
ここから先に進みますね。わからないところがあったらご質問なさってください。
命題の正反。
命題の正反 テーゼとアンチテーゼ
テーゼ …命題のこと。正しいとされる前提・判断。
例)人間は「男と女」にどちらかである。
例)AIは人類社会を発展させる。
アンチテーゼ …命題を否定する文章。
例)人間は「男か女か」に分けられるとは限らない。
例)AIは人類社会を崩壊させる。
テーゼとアンチテーゼという言葉を聞いたことがおありの方は多いと思うんですけれど、ドイツ語です。ドイツ哲学からひっぱってきた言葉ですね。
テーゼというのは、命題そのものです。
最初の前提となる判断。最初の定義ですね、みなさんがいろいろ定義してくださったんですけれども、それが命題なわけです。
この命題に対して、反対のことを言う。否定する文章。これがアンチテーゼ、まんまですね。テーゼをアンチする文章。
人間は「男か女か」に分けられるとは限らない。AIは人類社会を崩壊させる。
こっちはこっちでまた別の根拠があるんだよ、と。たとえばガスコンロさんはいろんな定義がありましたし、鉛筆もいろんな定義がありました。
それに対して、いや違う。鉛筆はそうではない、ガスコンロは人と話したりしないとか(笑)。定義がぶつかるわけですね。
で、さらに行ってしまうと、すみません駆け足になっちゃいますが、命題の合となる。正、反、合と言うんですけれども、ドイツ語でアウフヘーベン。矛盾する言葉を統合する論法です。
命題の合 アウフヘーベン
アウフヘーベン …矛盾する言葉を統合する。正反合の「合」。
例)「人間は男と女とそれ以外にも分けられうる」
例)「AIは人類との調和により社会を発展させも崩壊させもする」
「正反合」「テーゼ」「アンチテーゼ」「アウフヘーベン」…ドイツの哲学者であるカントやヘーゲルが用いた言葉を日本に輸入したもの。
これらが長年、命題を巡る文章の基礎とされてきました。
テーゼがあり、アンチテーゼがあり、そのテーゼとアンチテーゼを兼ね備えたアウフヘーベンをすることが人類の知性であるというドイツのヘーゲルさんとかカントさんとかが言っていたことです。
これが世界に広まり、命題の大法則みたいなものになったわけですね。
「人間は男と女と、それ以外にも分けられうる」とかですね。まあ日本語にするとずいぶん玉虫色になりますけれども、たとえばこう統合されると。
「AIは人類との調和により社会を発展させも、崩壊させもする」
人類次第だ! と、まあ、なんとか統合しようとしているわけです。
こういうのは全部、輸入された言葉であり考え方です。
いまの日本語の外来語には、ドイツ語由来のものが少なくない。
たとえばドクターのドク、これはドイツ語です。医療用語はほとんどドイツから輸入されました。カルテ、オペ、クランケとかね。
テーゼ、アンチテーゼ、アウフヘーベンを簡単な日本語にしてわかりやすくお伝えしたいところなんですが、余計ややこしくなるので、まるっと覚えておいてください。
命題、反命題、統合的命題。
正、反、合。
定義する。反論する。どっちの意見もとった上で、さらにその上を行く、みたいな。
たとえば、AIと人類はどうなんだというときに、恐らく100年後、AIと人類は融合しているとかね。突飛な統合を提案したりとか。もちろん根拠を示さないと定義にはなりませんよ。
実際、最近の哲学は、AIと人類についてのテーマが盛りだくさんなので、AIと人類がいつ結婚するかみたいな話になっているものもありますが、そういうのをアウフヘーベンといいます。
これらが長年、命題を巡る文章の基礎とされてきました。
なんでこれがそんなに世界的にウケたのか?
言っていることはある物事について定義しました、いろんな可能性があるので反論がおこりました、その反論を認めた上で、再定義しましたというだけのことなのに、なんでこれが世界的に流行ったかというとですね、ぶっちゃけた話、面白い文章には必ず「対立」(正反)があるんです。
これは人間が何を面白いと思うかという本能的な基準といってもいい。
人間は対立しているものがどうも好きらしい。論文とかコラム、小説、映画もそうですが、対立項が、人の興味をかき立てる。
さっきニーズのお話をしましたけれども、そのなかで鉄板のものというものがあってですね、「矛盾」です。
正論と反論。人類の永遠のニーズがこれです。
大前提となる命題を延々繰り返し語るものというのは、人間は興味を持たない。次から次に反論がおこり、対立が起こる、矛盾する、そういった物事に人間は興味をかき立てられるんですね。
どんな例があるかな。
たとえば昔の、東ドイツの公共放送とかですね。「我々は世界で最も優れた○○であり、我々はものすごく幸福な世界に住んでおり、我々のお洋服はみんな同じであり、我々はこのできあがったお洋服に自分の体型を変える力を持っている」なんてテーゼを、民衆は延々と聞かされていた。
「ないよ、そんな力」という反論を許されずうっぷんが蓄積された結果、東ドイツの若者が大爆発して生まれたのが、パンク文化ですね。
モヒカン、入れ墨、テクノサウンド、アンダーグラウンドのクラブ。
あれらは彼らにとって社会的なアンチテーゼだったわけです。
小説でも、すべての登場人物が仲良く同意して、みんながみんな共感し合う小説というのは、全く同じ人格を持った人間がいっぱいいるのと一緒で、対立も生まれなければ、価値観も試されないし、本当にその人たちがそこに存在していることを浮き彫りにするなにかが全く生まれないわけです。
わかりやすい例はないかな。たとえば『けものフレンズ』とかね(笑)。
あれはセリフ上、みんな同意してばかりじゃないか、なのに面白いじゃないか、と思われるかも知れませんが、大前提が矛盾してるんです。まったく違う姿形を持った存在が互いに「みんな仲良し」と言い出す時点で、「合」なんですね。本来、共同生活が成り立たなさそうな存在が一緒に暮らすという「合」が表現されている。日本の幼稚園がやるやつです。みんな出自も育ちも能力も違う子どもらを「みんな仲良し」にする。つまりテーゼではなくアウフヘーベンを繰り返してるんです。
第一回で、バスケットボールをパスしあっていく動画をご覧になっていただきましたが、その真後ろをすーっとゴリラが横切っていきましたね。
「ゴリラがいる」ことを発見し、それを主張する。
それが反論になるわけです。今ちょっと違う現実が見えたぞ、と。
なぜそれが大事かというと、もともと人間は言葉というものをそのように使っていたからなんですね。
ある物事が変化したとき、すばやく伝達する。危険を知らせる。あそこに獲物がいると合図を出す。そうする必要が無い場合、人間は基本的に言葉を発してこなかった。
今は言葉を発することそのものに力があるとされる時代ですけれど、正しく定義し、反論し、合を見出しているのかというと、まあ疑問ですね。
なのに無理にやろうとする人がSNSには多い。特に反論は、人目を引くからです。反論というのは人類の永遠のニーズなので、大勢がなんかうっかり反応する。さして興味のない何かが炎上するのを見てしまったりする。
反論は、まかり間違うと、ただの他者否定になります。もっというと、下らない誹謗中傷になる。主題が見失われ、感情だけがかき立てられる。
当然ながらそうなると、最終的なゴールであるはずの「合」に辿り着けないまま、なんだったんだ、ということになる。
ここでは、正しく「合」に辿り着くための、「反」を学んでいただきます。
命題の「正」に対し、「反」である「疑問とその根拠」をみなさんに書いてもらいます。
たとえば、地球を中心にして太陽が回っているって昔は思われていましたが、そうかそうかと入念に観測していったら、どんどん結果がずれていったわけですね。観測結果が違う。
ミステリでよくあるのが、犯人は○○だと最初ミスリードさせておきながら、だんだん違う証拠の品とか証言とかが出てきて、別の人間を示唆しているんじゃないかと。これもミステリーがやっていることというか、逆だな。これをやるのがミステリーなわけですね。
あるいは日常的に、今の人間関係が大事だと思っているんだけれども、なんかどうもストレスで体調が悪い。人間関係を変えなければいけないのかもしれない、とか。
こういった、具体的な根拠がある疑問。
これを今回書いてみましょう。
書き方ですけれども、まず○○は○○である、と正の部分を書く。
一般的に言われていることでもいいですし、親から言われたことでもいい。先生から言われたことでもいいですし、道を歩いていたら看板に書いてあったことでもいい。あるいは最近見たツイッターの言葉でもいいです。なんでもいい。辞書に書いてあることでもいい。
次に「だが、かならずしも○○は○○ではないのかもしれない」と疑問を呈する。
なぜか? だってこういう例もあるでしょ、僕はこういうのを見たことがあるよ、とか、こういう話も想像できるよ、とか、違う国ではこうらしいよ、とかなるべく具体的な根拠を挙げて、反論をしてみましょう。
定義を再定義するとか、そういったことは今後の課題にし、ここはバッターの素振りみたいに、反論だけして下さい。
だいたい、定義する力と反論する力が身につくと、なんでもきちんと書けるようになる。
そしてそこからさらにいろんな応用ができるようになる。
日本人は反論が下手だと言われていますが、みなさん頑張ってやってみて下さい。
今回の講座は以上です。
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