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冲方塾 創作講座6 一人称と三人称 主語を見失わない

 ご自身が書かれたものを読み返すとき、主語がどれだけないか、日本語という言葉がどれだけ推測によって成り立っているかを実感していただきたいなと思います。
 今回の課題「自分の弔辞を書く」で大事なのは、一人称を三人称にしたときの変化です。感じましたか?
 自分を他人のようにみることができる。これが人間が持つ、想像力の一つです。
 もう一つが、他人を自分のようにみることができる。
 我々人間は、この両方の能力を手に入れました。
 動物や昆虫にも似たような行動の能力がありますけれども、人間はその上さらに、仮定することができる。架空の自分を思い描いたり、現実には絶対ない状態を想像することもできる。ものすごく有名なインスタグラマーを見て、まったく必要がないのに、触発されてそのインスタグラマーみたいな格好をしてみる、みたいなね。よくよく考えてみると必然性がない。しかし人間は必然性がないことを想像力で実現してしまう。それはなんのためかというと、他人の発明・発見を自分のものにし、共有しようとするためです。
 逆に、自分の発明・発見を他人と共有することもできる。これが、共同体が生まれる最大の理由ですね。
 なぜ私たちの社会は人を殺してはいけないんですか? なんて、子どもたちの質問に答えるという文章を先日依頼されたんですが、答えは明白で、めぐりめぐって自分が困るからですね。実のところ人を殺しまくる社会を経験してきたわけです、人間は。世界中で今もそういう地域が沢山あります。
 でも道路工事をする人を皆殺しにしてしまったら、道路が作れなくなっていずれ移動ができなくなる。食料をぶんどろうとして食料を作ってくれる人を殺してしまったら、その食料自体がなくなってしまう。
 要は、自分たちのために他者を生かす共同体というものを生み出したわけですね。その共同体がそもそも何によって成り立っているかというと、自分を他人のように見る、他人を自分のように見る想像力です。これがさらに、自分の共同体を他の共同体のように見る、他の共同体を自分の共同体と同じように見る。これで、一回り大きな社会が生まれる。
 さらに社会に関し、自分の社会を他の社会と同じように見る。他人の住んでいる社会を自分の社会と同じように見ることで、国際化というものが成り立つ。
 ここまで来るのに人間は二千年ぐらいかかりましたけれども、大半の時期は、言語が違うということが原因で争いが生じていた。言語が翻訳できるかどうかが、共同体の形成、社会の形成、国際化の形成にひじょうに重要なポイントとなっていたんです。
 たとえばギリシャ時代では、城壁の外側にいる人間を蛮人、文明化されていない人と呼んでいたんですが、なぜなら、何を言っているかわからないから。バルバロイなんて呼んでたそうですけれども、これは「ガラガラ声で何を言っているかわからない」という意味だそうです。
 相手が言っていることがわからないかぎり、同胞じゃない。これが、日本でもヨーロッパでもアフリカでもどこでもそうなんですけれども、共同体が生まれない最大の要因ですね。
 だからアフリカの植民地政策ではわざわざヨーロッパ人がこっちの部族にはこっちの言葉を、こっちの部族にはこっちの言葉を、と別の言葉を喋るよう促したり、こっちにはキリスト教のこのパターン、こっちにはキリスト教のこのパターンみたいな、宗教もわざと分裂させて教えたりして、共同体が形成されないようにしたわけです。
 日本の幕末期においては、なかなか日本国として統一できなかった。最大の理由は、それぞれの方言が理解できなかったからです。薩摩人、会津人、江戸人、京都人、みんな通訳がないと何言ってるかわからない。
 ではどうやってやりとりしてたかというと、漢文でやりとりしてたそうです。ほとんど筆写でやっていた。字でコンタクトしていたらしい。
 結局ですね、この「想像力」の多様化、社会共同体を成り立たせる最大のポイントは何かというと、相手が何を言っているかわかるということ。つまり言葉の力を発揮できるようにすることです。
 相手が何を言ってるかわからないかぎり、他人の発明は自分のものにならないし、共有もできないし、共同体も形成できない。こういう言葉の力というものを、一人称を三人称にしたときに実感できるようになると、自分は本当にすごいものに触れているんだなと、言葉ってのは本当にすごいなと実感が持てるようになると思います。
 逆に、共同体が形成されてしまって、独占状態が崩れて他人と分かち合わなければならなくなるのが嫌な人たちは、意図的に相手の言うことを歪めたり無視したりします。言語的に分断された状態を演出したいわけです。トランプ大統領とかね。
 現実の私たちの生活に当てはめて考えてみて下さい。想像力の多様化の具体例を。
 ある商品が自分にとって超素晴らしいから伝えよう、とか。
 たとえば、「ディスコを日本に輸入したの私」って言う人が何人もいるんですけど(笑)、彼らいわく、アメリカでこんなすごいものがあるんだ、きっと日本人も好きに違いないわ! ということでジュリアナ東京とかを、私が輸入したんだ、と。
 ある地域のものがすばらしい。それは自分の判断に基づいている。でもきっとこっちの国の人も好きになるだろうという輸入輸出の基本的な考えを抱いて行動した。これは一人称から三人称複数へと飛躍するということです。この発想の飛躍がないかぎり、人間の貿易というのは成り立たない。
 他にもたとえば、フランスは先進国の中でも少子高齢化を抑えられている国だとされている。それってすごくないかと。じゃあフランスを研究して我々日本人も参考にしよう、となる。逆に悪いところを見れば、人の振り見て我が身を直す、ということになる。これは三人称としてとらえたものを、一人称として捉え直すということをやっているわけです。
 ちなみにフランスの少子高齢化うんぬんは十年ぐらい前に言われていたことなので、今どうなんですかね。当時は、日本における問題はこうだからフランスのようにはならないんだよっていう反論もあった。一人称をもう一回三人称としてとらえたときに、それは不適切だ、みたいな言い方をする。もう一度、三人称として突き放すこともできる。
 他にも……お洒落なスタバを背景にした自撮り画像が素敵っていうことで、自分もそうしたいとか。
 近所のスタバがこれのおかげでものすごい行列になっては入れなくなってしまったんですけどね。早くみんな飽きてくれないかなとずっと待ってるんですけれども。インスタグラムで写っている画像はあきらかに自分と違う人なわけです。でももし自分が写ってたら素敵じゃない! と思うわけですが、その時点で三人称を一人称化しているんです。

 ここでちょっと話を変えて、二人称について。
 さきほど文章の講評の内容で、三人称二人称一人称全部使ってますねという話をしましたけれども、じゃ二人称ってなんだろうということをここで軽く触れたいと思います。
 二人称、「あなた」を主語に用いると、すべて呼びかけになる。呼びかけは、会話ではない。呼びかけの応酬も会話ではない。
 これは実際に二人称のみを使って話してみるとわかります。
 あなたの髪は短いですね。あなたの目、黒いですね。あなたのシャツは白いですね、あなたのズボンは長いですね、あなた日本人ですね……会話になってない。
 相手を規定して、相手に呼びかけて、相手はこうであると説明するだけになってしまう。会話が生まれるには、二人称だけではなくて一人称と三人称が絶対に必要になるわけですね。お互いの話、対象についての話、私たちってこうよねー、私はこうなんですけど、とか。この商品はいいわよね、あなたがすべきことはこうなのよ、とか。このあなたがすべきことっていうのは三人称です。物事ですから。あなたの話から、物事の話になっているわけです。
 二人称ですべて構成された小説っていうのもたまーにあるんですけれども、実験的ですごいねという評価はされるものの、いまいち一般化しない理由は、会話ではないからですね。
 あなたは、あなたは、あなたは、あなたはって言われると、人間はやがて無反応になる。呼びかけと命令ばかりで相手のレスポンスをまったく聞かない上司は駄目だとか、ダイヤモンドオンラインとかの記事でたまに読みますけれど、結局そういうことなんですね。
 おまえ、あなた、って言い続けても、コミュニケーションも生まれないし、コミュニケーションが生まれないということは想像力が生まれないんです。一人称二人称三人称、そのすべての立場に自分を置き換えることによって人間の想像力というのは発揮されるわけです。
 で、二人称というのは、会話のスタートであったり、主語を明確にするものであったり、あるいは一人称の心情表現を強調するものであったりする場合が多い。
 じゃあ具体的に二人称が使われる場合を想像してみましょう。
 意外な文章が全部二人称だったりしますよ。

 警告や注意。これは多数が一人へ呼びかける文脈。多数っていうのはたとえば駅員さんとか、線路のホームに転落しないように「お気をつけください」っていうのは、あなたが転落しないように、あなたが気をつけてね、ということで二人称なんですね。
「危ない止まれ」、あなたが危ない目に遭うから、あなたが止まれ。主語は二人称なんです。このように、お気をつけください、危ない止まれ、とか、これ自体は会話ではないことがわかると思います。

 演説や表明。みなさんは~とか、みなさんの生活は~とか、みなさんのなんとかは、いまちょうど選挙の真っ最中の地域もありますけれども、その文章をよく読んでいくと、基本的にほとんど二人称で言ってるので、会話になってない。もちろん会話である必要はないわけですが。みなさんはこうです、どうぞ清き一票を。で、突然、ありがとうございます! となる。たいてい「ありがとうございます」も、漠然としている。あれも注意深く聞いていると主語がめちゃくちゃだったりするので意外に面白いです。

 ラブレター。一人が一人へ呼びかける。典型的な二人称文です。あなたはこうです、あなたはこうです、あなたはあたかもこのようでこのようでこのようで~って結局二人称で書いている。ここで相手が返事をしてくれない限り、会話にはならない。

 募金、争議、デモ。多数が多数へ呼びかける。みなさんの真心をお願いします、みなさんのなんとかをお願いします、と。お願いしますをつけると一人称になるわけですけれども、目的は、みなさんがこうしてくださいという促しなんですね。
 募金とデモは、文脈はまったく一緒です。意味や口調が違うだけで行動を促す点で同じです。みなさんの真心を募金してください、みなさんの現実に気づいて行動してください、と。気づいてくれ、そして行動してくれ。これが言葉の力、気づきの力ですね。皆様は日頃自覚していないけど貧しい人がいる、募金という行動を自分に促してください、と。皆さんとても不利な状況にいる、政治的にとても不利なんだ、それを盛り返さなきゃいけないんだ、だから自分の行動を促して下さい、と。

 昨今、最も二人称の文章を使っているのは、ゲームです。あなたの課題はいまこうです、あなたの得点はこうです、あなたはすばらしい、あなたがwinner、あなたは次こうしなさい、あなたはいまこうなっています、という文章の連続です。
 ゲームアプリが大変流行しておりますけれども、ゲームの脚本は、最終的にプレーヤーが何をしなきゃいけないか指示するので、どんな一人称もどんな三人称も、最終的には二人称的になります。
 ゲームの脚本を書かれる方、書いてみたいという方は、二人称表現に気をつけて書いてみるとよろしいかと思います。

 さて、ここでいったん、まとめましょう。
 想像力がもたらした良い点。
 人の「想像力」というのは、主体的に全ての主語を使うことを可能にした。私を一人称二人称三人称すべてに置き換えることができる。
 たとえば王は我なり、という言葉がある。王は我なり、我も王なり、え、おれだって王になれる? と立場を置き換えてしまうことができる。
 他人の発明・発見を、全て自分たちのものにできる。もちろんビジネス上の特許の問題とか言語の違いとか経済的格差によって手に入らないとか、いろいろ現実の問題はありますけれども、障壁さえ取り除けば、基本的にあらゆる発明・発見というのは、万人に適用できる。
 これは、互いに同じ人間だという認識がないとできないですね。
 たとえば、アメリカの南北戦争以前なんてのは、白人と黒人は生物として違うという発想だった。白人にきく薬と黒人にきく薬は違うんだと。こういう、一人称二人称三人称の想像力をあえて分断する仕掛けは、言葉の力を遮ってしまう。
 逆に、分断を目的とした考え方を意識すると、政治的意図みたいなものが見たりする場合があります。
 でも実際のところ我々は共通理解と分業によって、豊かな生活を手に入れた。そういえば日本のどこかの港がストライキに入ってコンテナの荷下ろしができないそうですが、別に港を破壊したくてしているわけではない。給料が低いと生活できない。給料が低いままだとみんなやらなくなっちゃって結局労働者がいなくなる。だから是正を求めている。
 こうした言葉の力によって、今の我々の暮らしがある。
 どのような暮らしかといえば、自分で作ったものが一つもない生活をしているわけです。この教室の中で、ご自身が作った、生産した、そういったものが一つでもあるでしょうか。ないと思います。ありませんよね。
 僕が着ているこの服を誰が作ったか僕は知りません。このマイクもそうです。なぜパソコンのモニターがこっちにもうつってあっちにもうつっているのか、正確に説明せよと言われたらたぶんできない。
 あるいはこの灯りですね。前回ちょっと教室が暗いんでメモが取りにくいっていうご意見があったので、こっちを明るくしました。そうするとスクリーンが見にくくなるのでこの灯りだけ消しているんです。だから見やすいんですけれども、みなさん気づきましたか? なんでこれ一つだけ蛍光灯が消えているのか。この蛍光灯、ちょっとずらしてくれたんですね。さっきこの部屋を管理してくれる人がじゃあこうしましょうってキュッてここだけ消してくれました。
 そういう工夫も僕だったら、とっさに思いつかない。自分が何もしなくても作らなくても用意しなくても成り立っている社会。それが豊かな生活というものの正体です。自分は何もしていない。
 結果、それが悪いことをもたらすこともある。
 想像力がもたらした悪い点。
 無知に無自覚になるわけですね。なんとなく知っている気になって生活してしまう。特に人間の想像力っていうのは一人称二人称三人称に置き換えられるので、知識を持つ人間がそばにいると、自分もその人と同等になった感じがする。自分をその人に置き換えてしまうんですね。知識人のそばにいるだけで、あたかも自分までもが知識人あるかのように振る舞ってしまう。
 これをパラソシアルといいます。
 パラソーシャルとも言いますね、それに陥りやすい。
 テレビが普及した頃に顕著になった人間の心理的な傾向だそうで、テレビに出演する方々に対して一方的に親しい気分、親しい感情を持ってしまう。
会ったこともないし、本当はどんな人かもしらないのに、昔からの知り合いであるかのように感じてしまう。このパラソシアルですが、僕も昔、新幹線に乗ろうとしたとき、キオスクのおばちゃんに突然「あなた最近がんばってるわね!」って言われて、誰? と思ったことがあります。
 あなたのことを知っている、私は評価している、私自身はあなたのことをこのように思っているという事実を重視し、僕が相手を知らないということは大した問題ではなくなる。
 これには、良い面と悪い面があります。良い面は共感を抱けるということ。悪い面は、自分の視野や思考や所有とかいったものの限界を見誤りやすくなること。
 ようは、なんで自分の思い通りにならないかわからなくなる。
 たとえば、私は毎日バラエティ番組を見てるから、きっと私のおしゃべりも面白いに違いないわ! とか思ったりする。
 あるいは毎日トレード情報を見ているから俺も稼げるに違いないとか。日頃見ているものに自分を置き換えてしまって、空想のほうが正しいと思い込んでしまう。そうなると自分の思い通りにならない瞬間が訪れて、なんでだろう、とわからなくなるんですね。
 一人称二人称三人称というものが存在して、人間の想像力はそれぞれに自分を置き換えることができてしまう。それぞれの立場になることができてしまう。心の中でだけ。その結果、限界を見誤った場合にいろんな弊害が起こったりする。
 たとえば文章を書くこと。
 皆さん文章をたくさん書かれていると思うんですけれども、自分で作った言葉は一個もないということを自覚していますか。
 ご自身の名前はご両親が作ったかもしれませんが、それだって、もともとの漢字とか記号とかは自分たちが作ったものではないんです。誰かが作った言葉を借りることで、やっと我々は文章を書くことができている。
 このように人がどれだけ無知なのかを試す、という研究が世界中で行われています。そのテストの方法をお借りして、誰かが作ってくれたものを自分のもののように扱っていることを自覚してみましょう。
 まず、水洗トイレ。なぜ流れるかわかりますか。トイレは毎日必ず使うものです。なのに、その構造がわかっている人はほとんどいない。
 ちなみに、もう八時か……。本当はみなさんにホワイトボードでやってもらおうとしたんですけれども、じゃあ僕のほうでやりますかね。
 ちなみにトイレ作ったことある人? いないですかね。うちの両親はなんでも分解してなんでも作り直す人だったので、ある日小学校から帰ってきたら母親がトイレを分解してたことがありました。新しい便器にするから手伝って! と言われて、わけもわからず手伝いましたけど。
 ちなみにトイレというのは、ここにタンクがありますよね。こうつながっていて、ここに便座というものがあるわけですけれども。これはこのまま流しているわけじゃないんですね。水をこうやって、これは昔のボットン便所なんて言われてますけれども……。
 うちに帰ったらですね、このサイホン式とか、トラップ付きなんていう言葉で検索してみると、こんな風になっていたのかと驚くと思いますよ。
 あらかじめここにちょっと水がたまってるじゃないですか。ここに水がたまっている理由は、排泄物を水に入れると匂いがつかないからなんてこともありますけど、それ以上に、こういうふうにつながっている場合、この水面ってここと平行になるのがわかりますか?
 お水をこうやって流すと、ここに溢れ始める。そうすると、なんと吸引が始まるんですね、ここで。勝手に。電動でもなんでもなくて、水を流すだけでここにあったものが全部一気に吸い込まれて、結果的に同じ水面に、同じ状態に戻るわけです。これを発明したことによって大変清潔になった。ここに水があることによって、匂いやバイ菌の逆流を防ぐことができる。水が蓋になっているわけですね。
 自動的に水を流せばひゅっと流れるようになったおかげで清潔に保たれる。これを発明したおかげで、人間はビルとか集合住宅地を作ることができた。大型建築の一番の問題は、排泄物をどうするか。これを解決したことによって人は巨大なビルを作ることができた。さもなくば、ビルが建つたびに巨大な悪臭とバイ菌の発生源が生まれることになっていた。
 このサイホン式、あるいはトラップと言うらしいんですけれど、このトイレの発明こそが、我々が住んでいる都市というものを成り立たせてくれているんです。しかし、こうしてみると本当に下手くそな図ですね、すいません。
 次に、こちら。
 どうしようかな、あと三十分あるからやってもらいましょうかね。
 みなさん、自転車を図にしてくださいって言われたとき、できますか?
 こちらのお二人に描いていただきましょうかね。ここにタイヤとチェーン、ペダルを描いてみてください。
 これも正解する方が少ないことで有名な問題らしいです。
 人間どれだけ毎日目にしているものであっても、どれだけ認識していないかということがよくわかりますね。時間制限をもうけないと、何度も描き直されてしまうので、あと一分ぐらいで。
 最後の一描きは……おおー。ありがとうございます。
 ではこちらから見ましょうか。チェーンがタイヤの両側についている場合、これはペダルですかね。これは進行しませんね。
(生徒さん:あはは!)
 この部分が回るだけです。というか、たぶん回らない。
(生徒さん:乗っている部分と連結が何もなかったですね笑)
 すごいね、よく見ると浮いてますね! 皆さん、おうちに自転車があるか、もしくは今、携帯で調べて自転車の構造をみるとわかると思うんですけれども、違います。正解はこっちですね。
 この方は良く捉えていますね。ここにペダルがあると。ペダルを回すと後輪が回る。後輪が回ることによって、前輪は支えているだけなので進行する。ここにサドルがあって、ブレーキがこうあると。すごい悩まれているなぁと思ったんですけれども、どんどん正確に描写されているので、すごいですね。ほぼ正解に近いです。自転車、お好きなんですね。
 たいがい、僕みたいに、こういうふうに描いちゃうんです。僕も最初こう描いて、あれ、これ動かないぞって自分で思ったりしたんですけれど。

 では、今回の課題です。
 いかに自分は物事に無自覚になってしまっているか、想像力というものが豊かに発揮された結果、どれだけ考えなくなったかを感じて頂きつつ……。
 三人称を一人称にしましょう。

「我が輩は○○である」

 自分は「水洗トイレ」だ。なぜ水が流れるかを一人称で書いてみよう。
 自分は「自転車」だ。なぜ前へ進めるかを一人称で書いてみよう。
 あるいは自分の身近な道具。たとえばボールペン。なぜ書けるのか。なんでボールペンはボールペンというのか。調べてみると面白いと思います。
 ちなみにですね。講義中、音がうるさくないかぎり、携帯電話等は自由に使ってください。その場でぱっと検索したり、メモしておいたり、重要だと思います。ただ、撮影はなるべくしないでほしいんそうなんです。
 どうも最近いたずら動画でセブン&アイ・ホールディングスのトップがとても傷ついたらしいので、携帯での撮影アレルギーになっているそうです。まあでもモニターのこれ、パワポ、撮ってもいいってことにしますかね。
 それはさておき。
 我が輩はなんとかであるってつい書いちゃったんですけれど、これ、動物は書かないでくださいね。モノを書いてください。動物を書く場合は、なぜその動物が生きているかを説明しなければいけなくなるので、たぶん誰にもできないと思います。
 例としては他に…飛行機は何で飛べるのか、浮力とはなんだろうか、とか。なんでもいいから、モノの立場になって語りましょう。
 これはちなみに日本語の得意技と言ってもいいですね。もともと日本語というか日本人はモノを一人称的に捉えることが多いんです。想像力の発揮がなぜかモノにいく。モノに感情移入することが多い。
 ちなみに日本のロボット技術が停滞した理由は、鉄腕アトムの印象がみんな強くて、なんとしてでも二本脚で歩かせようとしている間に、海外の人たちは、別に四つ足でもよくない? キャタピラでよくない、と発想を転換して、どんどん発達してしまったんだとか。
 あと、箸供養とか知ってます? 針供養とか。日頃使っているものをただ捨てるんじゃなくて供養する。モノに祟られないように、ありがとうねって供養するわけですね。これも海外の方には意味がわからないらしいですね。使い捨てでいいんじゃないの? なんで捨てるものをあがめ奉るの、と。
 物神化とか、なんでも神様にしたり妖怪にしたりゆるキャラにする意味がわからない。なんでモノがしゃべるのか意味がわからない。特に欧米からすると物体に知性があるというのは、ものすごいブラック・ユーモアでもあります。スポンジ・ボブとか。穴だらけのバカがしゃべっているっていうブラックジョークのイメージが強い。
 ウォークマンのCMで賞が取り消された話、ご存じですか?
 昔、ソニーのCMで、「ウォークマンはここまで進化した、人間は?」と問いかけるものが作られたんですね。それが広告の賞をもらったそうですが、あとになって、人間とモノを同列に扱うなんて不謹慎だという海外での批判が相次いだので、賞が取り消しになってしまったそうなんですね。
 それぐらい、日本人がモノに感情移入する感情と、海外のモノをモノとしてしか扱わない態度は異なるんです。英語のitとかもね。三人称で彼彼女のあと、英語だとitがくるわけですけれども、日本語だとそれに該当する言葉がいまいちない。それとかあれとかこれとかになってしまうんですが日本人はそれらにも感情移入する。つまり一人称に置き換える。でも海外ではitはitなんです。モノなんです。感情移入の対象ではない。
 顕著だなと思ったのが、探査機はやぶさ。皆さんご存じのかたいらっしゃいますね。小惑星のサンプルを持って帰ってくるときにとっても苦労したねっていうことで、国立天文台の方々が、一時期はやぶさのコスプレをしてくる人がいっぱいいて、ちょっと困ったと言っていましたが、それくら人気になったわけです。えらかったねー、よくがんばったねー、と日本人の胸をうったわけです。映画なんて三本も作られたんですよ、はやぶさをテーマにして。作りすぎだろうというくらい作った。
 ですが、海外の反応は、だいたい冷淡です。大して役に立たなかったじゃん、まあいい花火だったね、で終わり。墜落するときの大気圏内に入ってきたときに塵になって輝くさまを、日本人は万感胸に迫る気持ちで見るわけですけれども、海外の反応はひどかったですね。「firework!」とかいってね。綺麗ですね! みたいな。
 海外の人たちが冷たいというより、彼らが引いてしまうくらい、日本人がモノを一人称に捉える傾向が強いと考えるべきなんです。
 そんなわけで、その日本人の得意技をいかして、自分の生活を支えてくれている大切なモノへの感謝の気持ちをこめて一人称にしてみましょう。
 本当に「ありがとう」とか書かなくていいです。感謝の気持ちをこめて、そのモノの立場になって書いてみる。
 で、ここが一番大事なんですけれど、三人称を一人称視点で書くときに、構造というか、物理的にどうなっているか、現象としてどうなっているかというのをどう説明するか。
 三人称で書くとみなさんできるんですけど、一人称でやると意外にできなくなったりするんですね。私はこうである。私は水洗トイレ、別名をサイホン式トラップ付き排水構造であるとか。私が動く理由はこうである、こうであるってやっているうちにどんどん三人称の文章になっていって、あれ一人称じゃないぞということになりがちなんです。
 そこを注意して、やってみてください。
 前回、課題について語ったところでおしまいと思ったんですけれど、そのあと質問が十五分ほど続いたので、あえて十五分時間をあけてここまで来ました。
 今日の講座等で質問がある方はいらっしゃいますでしょうか?
 あと、お手洗いに行きたい方も、自由に行ってくださいね。学生じゃないんですから。大人としてご自由にお願いします。
 飲食も、匂いが強烈じゃなければ、あとボリボリズルズルうるさくなければ、自由にやって下さい。会社帰りに何も食べずに来てしまったという方もいらっしゃると思うので。ただ突然カップラーメンとか作り出していい匂いを振りまくのはやめて下さいね。僕が食べたくなりますからね。ちょっと分けてって言いますよ。
 とにかく、ちゃんと糖分や水分など栄養補給して頭を回して講座を受けていただければと思います。
 質問はありますか? 前回は課題を説明し終えた途端、質問が連発して、結局終わったの九時になっちゃいましたから。今回はみなさんわかりましたかね?
 じゃあ最後に今日の大事なところを。
 自分の弔辞を書くということ。一人称である私の客観視。自分を客観視して、三人称である「あの人」、もう変化することのない故人となってしまったあの人として書くことで、一人称である私が三人称になったときの状況、人称の変化を感じ取りましょうということでした。
 こちらは何度も言いますが、自分自身を自覚する。主語として客観視する。これちゃんとできるようになると、もう一段上の冷静な文章、客観的な文章、あるいは自分が書いたものを客観視できる文章というんですかね、そういうものが書けるようになります。
 自分を客観視できないかぎり、どれだけ客観的に見える文章を書いても、それは客観視をしていないわけですね。とても冷静で理路整然としていて客観的に書いてあるように見えるけれども、その人の主観というか、その人の考えに凝り固まってしまっていて、客観性に欠けた文章になってしまうことがある。
 自分と自分が書いているもの、文章中の一人称二人称三人称など、一緒くたになっているものを、丁寧に切り分けていきましょう。
 そうすることで、より書きたいもの、書くべきものが見えてくるはずです。では本日もお疲れ様でした。


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