小説009

喝采

「準のピアノは、まるで魔法みたいだねぇ」
ばぁちゃんはよくそう言って、僕を凍らしたものだ。
「やめてよ、ばぁちゃん。こっぱずかしい」
「なんでさ、すごいじゃぁないか。準の指がピアノの上で跳ねるのを見ると、そう思っちゃわずにはいられないんだよ」
「あーあー、孫バカのばぁちゃんのほめ言葉なんて、全然うれしくない。つまんないな。早く認められたいな。そんで喝采の中心に立ってやるんだ」
「立てるさ」
にんまりと微笑んで、本当にこっぱずかしいことを、自信満々にいってしまうのだ。
「そんで、あたしは言うんだ。うちの孫は魔法使いですってね」

揺れる白煙が空へと吸い込まれてゆく。
ばぁちゃんは逝った。
ある晴れた青空が高い日、ばぁちゃんはいつものように僕のピアノを聞きながら天に召されてしまった。
「……早いよ」
まだ喝采の中に立っていないのに、そう続くはずの言葉は嗚咽で掻き消えた。

それから3年後のあるコンクールで僕は見事優勝を果たし、徐々にその名前をその世界に響かせていくこととなった。
ある評論家はこう言った。『天才』だ、と。超絶技巧をなんなくこなす、底が見えない気鋭の若者が登場した、と。
それから、僕の名前と『天才』はセットになってメディアで取り扱われるようになった。
始めは小さなコンサートを、やがてその会場は大きさを広げ、観客は溢れるほどになり、チケットは飛ぶように売れた。まるでおかしな夢をみているみたいだった。覚めない夢がずっと続いているようだった。
嬉しかった。コンクールで優勝した日は夜眠るのが怖かったほどだ。いつ覚めてしまうのかと、ずっとはらはらしていた。だけれど、どこか心の奥底のほうで何か忘れ物をしたような感覚が、いつも付いてまわって僕を戸惑わせた。

喝采の中心に僕はいる。
それなのになぜか遠いのだ。
あれほど求めたものを手に入れたにもかかわらず、最後まではついぞ満たされなかった。

ばぁちゃんの前で弾いていたころよりも、ずっと、僕は飢えていた。
夢見た舞台に立ってさえ直、なぜ満たされない部分があるのかが自分でもわからなかった。
どんどん活動の場を広げ、より多くの喝采を浴びる場所を求めた。
喝采はその数を幾千にも増やし、スタンディングオベーション、その拍手は終わることがなかった。
その中で、僕だけが置いてゆかれたこどものように、ただ立ち尽くしていた。

デパートで適当に服を見繕いがてら、ぶらぶらしている時のことだった。楽器店がピアノのセールを開催していた。ふと、ごく自然に、鍵盤に指を伸ばした。仔犬のワルツ、だった。ばぁちゃんをして、魔法のようだ、と言わしめた曲。小さく笑って曲を弾き終えると、小さな拍手の音が聞こえた。音の先を追うと、そこには中学生らしき少女が目を輝かせて立っていた。彼女は自分が拍手をしていたことにも気づいていなかったようで、僕と目が合うと途端慌てふためき始めた。しどろもどろになりながら、それでも感じた何かを告げようとする姿が微笑ましかった。
「ごめんなさい、私きっとバカみたいなこと言うわ。まるで、このひと魔法使いみたい、て思ってしまった」
言葉を返さない僕が怒ったのかと勘違いしたのだろう、少女はなおさら慌てふためき始めた。だが、その少女の動きが止まる。鞄をごそごそとあさって、おそるおそると言った様子でハンカチを持った手をこちらに伸ばした。
その間も、ほろほろと零れる涙は頬を伝って、床に落ちて、次々と跡をつくった。

す、と沁み込んでくるものがあった。最後のピースが埋まるのを感じた。満たされた心の代償に、どうしようもないさみしさが僕を襲う。
ずっと欲しかったのは、会場に溢れる大喝采ではなく、ほんのちっぽけな、こっぱずかしいその一言だったことに、僕はようやく気づいた。

『魔法を生み出す指だね』

ばぁちゃん、僕はあの喝采の中にあなたがいてほしかった。
あなたに、
「言ったでしょう?あたしの孫は魔法使いなのよ」
と、自信に満ちた笑顔で言って欲しかった。

それが、僕が望んだ夢のすべてだった。

デパートのある一角に突如響き渡ったメロディは、深く人々の心に感慨を残した。ある者は亡くした妻を、ある者は高校時代に出し忘れた手紙を、ある者は電車から見えた街の夜景を思い出した。
人々は後に語る。
まるで、魔法のようだった、と。

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