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批判精神と価値観と

 こんにちは。銀野塔です。
 「批判」とそれが依って立つべき価値観ということについて最近考えたことなどを。
 
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 日本の教育は批判精神を十分に育むことができていない、日本では批判というと悪いイメージばかりがある、というような話を時々目にする。確かに、何かを批判することは、悪口を云う、攻撃する、あげ足をとる、邪魔をする、といった感じで受け止められている感じがある。そういうニュアンスでたとえば「野党は批判ばかり」という言説もある。
 もちろん批判は本来、攻撃でも罵倒でも嘲笑でも冷笑でもあげ足とりでも妨害でもない。なんらかの物事に対して考え、その長所短所などを検討し、改善すべきところは指摘してよりよいものにつなげてゆくといったことがその本来のあり方であろうし、また野党の存在意義は政策等を与党とは違う目で検討し、批判してよりよいものにつなげようとすることである。
 しかし実際に日本で批判精神の教育が不十分で、批判という概念に対する理解が行き届いていない、ということはあるとして、そういうことを指摘する言説を目にするたびに思い出す文章がある。
 『エンデのメモ箱』(岩波書店)にある「批判精神の教育?」というタイトルの文章だ。批判的な精神を育てることはよいことのようで、それをあまりにもストレートにやってしまうと子どもにはむしろ害しかないという話だ。そうではなく、子どもに与えるべきは「知識と尺度」だという(批判する能力にばかり着目して育てられた子どもがノイローゼになった話も出てくる)。
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 通常一般の用語では、「批判能力」という語は、ただのあらさがしや、不満っぽく、疑り深い姿勢をさすのではなく(こんな姿勢を子どもに奨励すべきではないだろう)、自分が熟知し、全体を把握できる専門分野において、ある尺度にあてて、正確な見分けができる弁別能力をいう。この専門分野における概観と尺度だが、これ自体を批判的に身につけることはだれもできない。それはすべての批判の前提条件なのだから。それを身につけるにあたっては、識者とみとめ、信頼する人間の言葉に頼るよりしかたがないのだ。
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 そしてその信頼は悪用され得るが、悪用されるおそれのない信頼などというものはあり得ないし、信頼は人間共同体の基礎であり続けるだろうという話が続く。そして、批判能力はそれ自体が直接育てられるものではなく、適切な知識と尺度を得た結果としてのものだという。
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 つまり、子どもたちに提供しなければならないのは、むろんそのときの発達度に即したかたちでだが、尺度と知識である。知識はある程度“客観化”できるが、尺度はいつの世でも教える者の人間性から切り離せない。教える者は知識と良心にかけて、責任を負わなければならない。それは残念なことではない、よいことなのだ。まさにそのことで、子どもが学ぶ内容は、人間を信頼する体験と結ばれており、匿名で冷たい知識の詰め込みではなくなる。そうでなければ、教えることを実際に“客観化”できるだろう。機械に任せればよいのだ。そのような、徹底的な非人間化も今日ではもうまじめに話し合われている。
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 ひょっとしたら、日本に足りないものは批判精神そのものの教育ではなく、この教える者の人格のかかった知識と尺度の伝達なのではないかとも思う。他の国ではそれができているかなどは私はわからない(少なくともこの文章が書かれた時点においてエンデ氏はドイツないしはヨーロッパ、あるいは世界全般にわたって危機感を持っていたのだろう)。が、いわゆる合理性や経済性や生産性を優先する風潮が強い中で、このような「何がよいか、何が正しいか」といった知識や尺度といった、人格をかけた価値観が損なわれてきているところはあるかもしれない(そういう隙間にたとえばカルトや陰謀論や怪しい自己啓発やスピリチュアル等が入り込みやすいとも思われる)。その結果、批判精神そのものも十分に育つことができず、また批判まがいのもの――エンデが云うところの「ただのあらさがしや、不満っぽく、疑り深い姿勢」は蔓延っている、どうかするとある種の攻撃や嘲笑や罵倒などがむしろカッコいいものと見なされていたりもするところはあるかもしれない。
 だからといって子どもに確固たる知識や尺度を与えようと、たとえば国家が主導する「道徳」を持ち込めばよいとはもちろん私は思わない。もっと個別具体的な関わりの中で、子どもが大人のあり方を見て何らかの価値観を得てゆくということが大切にされるべきではないだろうかと思う。
 という私がそういう実践ができているのか? というとはなはだ心もとないのも事実である。実際問題として自分の子どもを持たなかったし、また自分より後の世代に何かを伝えるべく積極的に取り組んだというような経験もない(ただ、非常勤講師として教壇に立った経験は少しだけあり、そのときに、自分が伝達するのを求められている知識だけでなく、自分の人格もある程度問われることになるなとは、エンデ氏の文章を思い出して思った。実際にそれが私の講義の中で発現したかは別として)。そもそも、そこまで確固たる価値観を築いているのか? というとそこも自信がないし、何かを人様に伝えようとするほどの人間なのか自分は、という躊躇もある。
 とはいえ、自分の価値観にあまり確固とした自信があるのも逆に怖い気もしていて。まず「客観的に絶対的に正しい完全無欠な価値観」というのが存在しないわけだし(合理性を追求する余り、人によっては、そういうものがあるはずだという無意識的な強迫観念がある場合もあるかもしれない)、そこまで突きつめなくとも、たとえば自分が成長したり、時代の流れによって違うものが見えてきたりして、そうすると価値観が変わってゆくこともあるし。現に自分の以前の言動とかで「あれはまずかったな申し訳ありません」というのはたくさんあるし、現在の自分でも「こういうのがいいと思う」という自分の価値観に全然自分が追いついてなくて凹むことも多々あるのだが、そういうゆらぎや迷いも含めて、どこを変えてどこを変えないか、価値観を検討し続け、そしていい意味での批判精神を磨くしかないんだなあと思っている。そんな中で、自分の性質で無理のない範囲でこうなればいいなあという方向へ向けて何かできたり、何かやってる人を応援できたり、あるいはせめて、何かで頑張ってる人の足を引っ張らないようにしたいなあと思っている。まあ、隅から隅まで何も欠陥がなくてゆらぎもない人だけが何か云ったりしたりできる資格があるということになれば、厳密には誰も何もできないということになってしまうし、なかなか自分の思うとおりにいい人間にならない自分への後ろめたさを抱えつつ、それでも、微粒子レベルでもいいと思う方へ何かできたらと願っている。
 
 人格をかけて、知識や価値観を伝えてくれようとした人、というのは私の記憶の中に思い当たる存在が幸いなことにある。直接接した人の中にも、本などで接した人にも。私に価値観と呼べるものがまがりなりにもあるとしたら、そういう人たちの与えてくれたもので培われたものだと思う。たとえばこの記事で引用したエンデ氏にもかなり影響を受けていると思う。
 私にとって、そういう人たちの多くが、世代的に、戦争を直に経験している。そういう経験があるからこそ、人格をかけて伝えねばと思うところがあったのだろうとも思う。
 とはいえ、戦争を経験しているからこそ、といった当事者性をあんまり強調すると、当事者じゃないことには真剣になれなくて当たり前なのか、ということになってそれもまずいよな、と思ったりもしている。人は多くのことに第三者だし、だから第三者がいろいろ考えて動かないといけないことってたくさんあると思う。もちろん当事者にしか見えない、理解しづらいことがあることも踏まえた上で。逆に当事者だからこそ云えない、動けないことも多々あるかと思うので。そういう「当事者性」と「第三者性」がいろいろなことでうまく連動してゆくといいなというようなことを最近漠然と考えたりする。なかなか難しいことだと思うけれど。

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