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2021年の個人的今年の漢字は「読」

 こんにちは。銀野塔です。
 今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 2022年に入ってもう半月も経ってしまいましたが、私がここ十数年ほど毎年考えている個人的今年の漢字の2021年分にまつわる話を。

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 あるときからなぜか毎年、個人的今年の漢字を考えている。2021年は「読」だなと思った。
 他の年と比べて特によく読んだとかではないのだけれど「読む」という行為をしたことが自分にとって印象的な年だったなという感じ。

 昨年秋に父が逝去した。五月に最後の入院をしてから半年弱、わりとまめに病院に通った。といっても、新型コロナウィルス禍のため面会は一日一人のみ十分間に制約されていたから、いよいよ容態が悪くなるまでは、病室にはほとんど母だけを上がらせていた。私は母を待つ間、それから母が面会を終えて戻ってきてからバスの時間になるまでの間、病院一階のロビーで本を読んでいた。
 そのときに読む本は、意識的に、深みに触れるような内容のものを選んでいた。それも抉るように迫るように深める感じではなく、丁寧にとか、やわらかに深みに降りて行く感じのもの。思想、哲学、心理、エッセイ、対談集といった主にノンフィクション系。小説も少しだけ読んだが(俗に云うスピリチュアル系のものは読んでいない。念のため)。フォーマットとしてはバッグに収まる文庫か新書。初めて読む本もあれば、二回目ないし数回目のものもあった。ちなみにこの記事のタイトル写真は新書用と文庫用の、愛用のブックカバーだ。
 そうした本を読み、深みに触れることは、そしてその深みを可能な範囲で自分の心に取り込むことは、そう遠くないとわかっていた父の死という事実を受け止めるための緩衝材を心に詰めることだった気がする。実際に、私は父の死やその後のあれこれに、自分で想像していたよりは落ち着いて対処できたと思う。それがこの待ち時間の読書の効果だったのかどうかはわからないけれど。

 私が本好きで、読書ということが日々の営みに自然に溶け込んだ人間になったのは、やはり父の影響が大きいと思う。父は自身も本をよく読む人だったが、私が幼い頃は絵本の読み聞かせをしてくれたし、小学校から中学校くらいまでは、毎年クリスマスに本を買ってくれた(福音館の古典童話シリーズが多かった)。それ以外の機会にも買ってもらったことはあるし、また、ある程度の年齢になってからは、父の持っている本で面白そうと思った本を読むようにもなった。母も本を読む人ではあり母を通じて知った本もあるが、どちらかというと私の読書傾向は父に近い。
 なので、父の本棚に残っている本をこれからも読んでゆこう、みたいに云えると話がきれいにまとまるのだが、父と私の読書傾向は重なるところもあるものの、父はある分野のかなり専門的な本なども多く持っていて、それらについては私は正直多分一生読まないだろうなと思っていたり。あと、父が数年前施設に入ってから、父の許可を得てだが、私も他の家族もこの先とうてい読みそうもないような父の本は、その手の本を扱う古本屋に売ってしまったというのもある。ただ、そういった古本屋も持って行かなかった本の中に、気になるものが少しはあるので気が向いたらぼちぼち読んでみようかなと思っている。あと、そうやって父の本棚を眺めていたら、私が父の病院がよいの時に読んでいた本の一冊と同じものを見つけて苦笑した。

 新型コロナウィルス禍に入ってから、父の入っていた施設は面会禁止になった。父はそれから三度ほど入院して、入院中は面会ができなかったり、制限付き面会だったりしたが、いずれにしても、新型コロナの影響で会える頻度や時間が大幅に減ったわけである。最後の入院の時は、病室に行っても眠っていることもあり、眠ってなくても、一応こちらが来たことはわかっているのかな……くらいの感じのことが多かった。もう少し、コミュニケーションがたしかにとれるときにもっと会っておきたかったなという思いはあるが、しかし、生まれてから父と過ごしてきた経験で、すでに父は私の中に内在化しているなという感覚もある。それは父自身から直接得たものだけでなく、父を経由して読んだ多くの本から得た、いろいろなものの考え方や感じ方ということまで含めて。

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