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カラーとモノクロ 7

何もない所に何かを決めないで筆を置く。滴を垂れる。筆を持った時点で無意識ではないし、その色も選んでつけた色ではある。しかし、描かれる絵に規則性やこうあるべきという定めがない――そうした偶然性から生まれるアートを目指す画家がいる。

己の内から生まれてきそうになるものを打ち消し、打ち消そうと努力する中から現れてくる無のアート。テーマは常に無題。無題ではあるが、そこにはさまざまな色や形が情熱のほとばしりのように現れる。

一方で、アートとは洗練され、整然と、計算され尽くしたものでなけれなならないと決めている版画家がいる。
線の一本、面の形のひとつひとつが綿密な計算により生まれる。膨大な熟考のあとに生まれるものは、他の一切を受け入れない完成形である。作品の色、形、大きさ、全てにきちんと説明のつく、究極の形を探し続けている。

互いに相手の作品を褒めることはしない。それは見せかけのきれい事だと思っているからだ。相手の作品を好きというのは嘘くさい。なぜなら一方の作風を認める、好きになるということは、他方である自分の作品を認めていないことになるからだと言う。

自分が正しいと思って進めてきた手仕事は自分だけのものであり、努力と英知の結晶である。好き嫌いにかかわらず、自分にはこの道しかないのである。そこへもって他者の作品を鑑賞するときに、相手の作風を良しととすれば自分の作風を否定することになり、相手を悪しとすれば自らを正当化できると言うのである。

作風が違う二人が相手の作品を褒めることは、自分の作家性を否定することになるのだろうか。画家と版画家というジャンルの違う活動をしているこの二人は、抽象作家としてつながりがある。

私は駆け出しの作家であり、見るもの全てが学びの対象である時期だから、その限りではなく、この老練の作家たちの考え方に距離を感じた。
他者の作風を常に学ぶという姿勢でいると、自らはブレブレとなり、本当の自分らしさは培われないのだろうか。

他者の作品から必要な知識を学ぶときには、自分自身の好き嫌いによって取捨選択がなされ、結局は自分らしい作家性が生まれていく。
しかし、画家と版画家が言うには、自らの本質を常に放出できる力があるなら他者から学ぶ必要も、そのために時間を費やす意味もないということだ。

長く美術界にいるこの二人は、美術史や過去の作家たちについて常に勉強し、知識をため込んでいる。この知識から選び出した答えから到達したのが現在の作風である。

しかし、アートは常に未来進行形で、発表する側も鑑賞する側もベクトルは先へ向かっている。そう考えると、自分たちは過去の作家になりつつあるのかもしれないと、版画家が言った。
「現代はさまざまな手法の作品をアートと呼び、アートの垣根が低くなっている。アートと名をつけたものの大半を本物ではないと思っている。しかしその中から次々生まれ来る材質、作り方、考え方が未来のアートを予感させる。それについて行かないで自分の作風を守り続けている自分は時代遅れなのか?」

「ゴッホやルノワールなど前世紀の作家たちは今でもその絵を見ればあの人だと知られている。
自分たちも未来に迎合して新しい現代の作風を取り入れる必要などなく、自分らしさを貫いていけばいいだけのこと。むしろ自分たちが現代を代表する作家の一人であると信じて自分のやるべきことを続けたらいい」

「たとえば現代の3Dプリンターの技術ひとつをとっても、コピーされるもとのデータが良くできているから3Dプリンターの威力が発揮されるのであって、もとになる作品のデータが作られなければ3Dプリンターは意味をなさなくなる。
そういう意味では、形にしたい素晴らしいもの「アート」がなければ、形をなすための手法は必要なくなってしまう。
それは過去から未来まで同じことではないだろうか。「アート」は自らが表現したいものをこの空間に出現させるための手段。しかし手段だけあっても、表現したいという主体性がなければそこには何も生まれないのである」

そう考えると、画家が求める「無のアート」は、限りなく難しい作業になってくる。
描くべき形も色もないものを、これから白い画面に現すのだから。偶然性を生かす為の準備は、偶然ではない行為。
用意する材料も偶然ではない。
限られたひとにぎりの偶然の中からこそ生まれるもの。それは新しいアートなのかもしれないと思う。だからこそ、画家は求めてやまないのかもしれない。

画家は音楽家がうらやましいそうだ。前世紀、音楽家たちは曲に題名などつけなかった。のちの時代の者たちが便宜上名前をつけただけだと言う。
絵は題名があると、その題名のように見ようとしてしまう。見る人の自由な感覚で見てくれなくなる。しかし、音楽は題名など知らなくても、耳で聞いてイメージを膨らませることができる。感じ、心にとどめる。そのように自分の作品を見てほしいのだ、そのためには題名はいらないのだと画家は思っているそうだ。


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