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カラーとモノクロ 20

12月19日に、私の版画の師匠だった田丸忠(たまる ただし)さんが逝去されました。92歳でした。
家族ではないので、葬儀場で短いお別れをいたしました。

亡くなる10日前に電話で話したのが最後になりました。そのとき、先生は「もう一度最後に作品展をしたいんだ」 と作家らしい意気込みを見せ、私は「なんでもお手伝いしますから、ゆっくり一枚ずつ作り貯めて行きましょう」 と返しました。

今年すでに、作品を作ることが体力的に辛くなり、思うように作品を作ることができなくなっていました。ですが92歳という年齢で、ひとりで作品を作り、今年の夏に個展をしました。

取材に来た記者がみんな年齢のことばかり聞く、とぼやいていました。年齢で人物像を判断されることを、とても嫌っていました。
「こんなに年をとっていても作品を作るなんてすごいとか、言われたくない。どうアートと向き合っているのかを書いて欲しいんだ」
心の中は若いので、老人扱いされたくないとのことでした。
でも、先生はこの地方で70年もアートの先鋒に立っていたのですから、記者もちゃんとわかっていました。先生はその記事を、きちんと自分の記録にしまいました。

個展のために少し無理もしていたのでしょう。秋になり体調を崩し、そこからは早かったです。入院していても電話でやりとりができていたので、まさかこんなに急に別れがくるとは思わず、ご家族も私も呆然としてしまいました。

私は高校1年生の時から、先生に美術を指導され、家庭の事情で進学はできませんでしたが、いろいろ相談を聞いてくださいました。
卒業してからも家族ぐるみでお付き合いしていただきましたので、夫も娘たちも、亡くなられたことにショックを受けて残念に思っています。

私は就職してアートから離れていましたが、子育てが一段落した頃に、先生が指導をしているシルクスクリーン版画の講座に通えるようになり、少しずつですが制作を続けられるようになりました。それは私の夢でしたので、とても嬉しい時間でしたが、その後、私は二度にわたってこの街から引っ越しました。再び戻り、制作を指導していただきました。これが私の基礎になっているものです。

しかし、高校時代にもそうでしたが、私はあまり言われたことを聞ける生徒ではありませんでした。というのは、自分が理解できないこと、したくないことはやらなかったのです。逆にやりたいことは無駄と言われても続けました。
先生からは「僕が苦労して、そこはやらなくてもよかったと思うところをショートカットして先に進めるように教えてるのに、なんでそんな無駄なことをするの」 と言われ、私は「だって、やってみて無駄だったなあと自分でわからないと、本当に身につかないから」 とか言い返していました。
何度か意見の相違で言い争って、叱られたり、互いに気まずくなったりして、数ヶ月連絡を取らないこともあったけど、結局はどちらかが心配になって「お元気でしたかあ」 なんて、前のことは忘れたふりをして仲直りをしました。

この地方では有名な芸術家として知られていました。教師時代の教え子も数多くいました。肩で風を切っていたころもあったのに、一方で義理堅く腰が低いひとでもありました。芸術家を長くしていると、制作以外のこと、自分のイズムばかりが大切になることもあるだろうに、常に相手のことを気遣う心を忘れないひとでした。

かつて高校では美術の他にも、パソコンの授業も担当していて、当時(昭和60年)はまだパソコン操作を教えてくれるところがなく、独学で勉強されて指導していました。
アート集団のホームページなども立ち上げ、私はとても尊敬しました。
ですが年齢には敵わず、このところ物忘れをするようになり、パソコンの操作などを私に尋ねるようになっていました。
「昔は僕が先生だったけど、今はあなたの方が先生だねえ」 なんて言って笑いました。

ずっと先生だったひとが年をとり、今度は私が教えることがあったとしても、それは一部のことで、長く蓄積された知識やアートの考え方は私には及ぶべくもなく、先生はどこまでも私の先生です。
この42年間、ご指導いただいたことは私の足跡でもあり宝物です。

最後にお会いしたとき、先生のお辞儀が長すぎてお顔を見られないままお別れしてしまいました。笑顔をもう一度拝見したかったです。入院中、先生からの電話で、向こうもそう言っておられました。

今年に入り「難しいことを考えないで、やりたいことだけ、自分の思うことだけでいい。自由にやろうと思ってる」 と言っていました。私自身もそう思います。

とりとめのない文章ですが、今は悲しみの行き先を探している最中ですので、どうかご容赦ください。



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