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we don't need a definition

 幸せとはなんですか?
そう問いかけられて、しばらく悩んで、何回か書いては消してを繰り返してから、「自分が置かれている状態に満足していること」と書きなぐった。シャーペンを置いて初めて、四方八方からひそひそとした話し声が耳に入った。なんて書いたらいいの?適当でいいんじゃない?これ成績つけられるのかな?まさか。回答で大喜利をしている生徒たちもいた。私みたいに真面目に俯いている人もいれば、机に伏せて寝ている人もいた。数分後、先生が柔らかい口調で、紙を裏返しにして後ろから前に回してくださいと告げた。このたったひとつの質問を考えるのには十分すぎる時間を与えられたから、大人しく皆が紙を回した。私はなんとなく恐れていることが起こるような気がして、みぞおちら辺がきゅうと苦しくなった。紙を回収し終わった先生が言った。「皆さんの答えを、名前を伏せて読み上げてみます」私は今にも逃げ出したくなった。
 先生が一枚一枚紙をめくるごとに、同じ教室にいる誰かの幸せが告げられる。なんだか閻魔様に現世で犯した過ちを並べ立てられているような時間だった。なぜこんなにも断罪されているような気持ちになるのかな?腹立たしかった。「自分を認めてくれる人がいること」「自分を待ってくれる家族がいること」「美味しいご飯が食べられること」"幸せ"とかいうものが水面にぷかぷかと浮かび上がるたびに、それを持たないこの教室にはいないどこかの誰かに思いを馳せる。彼らの幸せが、別の誰かの幸せを否定するためのものではないとはわかっていた。だけど、それらひとつひとつを手放しに読み上げる先生の無頓着さを恨んだ。学費がバカ高い私立の女子校にはたしかに、誰かの幸せによって、自分の幸せが否定されるように感じる生徒なんていないだろう。それはある意味、この空間に一律の幸せしか存在しないことだった。答えのない問いだと言いながら、明確な答えがあった。誰かに認められたり、誰かに愛されたり誰かを愛したり、衣食住に困らなかったりして、それを幸福だと自覚し、ありがたみを持つこと。
 先生が紙をめくる手がしばらく止まって、その紙だけは読み上げられずに飛ばされた。私が書いたものだと直感で悟った。彼女の求める答えを答えられなかったから、私の考える「幸せ」は無いことにされた。私はどうせなら真実を知りたかった。私たちにそれを感じることを強いているものは誰なのか。なぜそれを信奉せずにはいられないのか。自分の幸福に自覚的になることが隣人を救うことになりうるだろうか?
 梅雨の季節も相まって、海の奥深くで浮遊しているような気持ちで授業を終えた。友達と話ながら帰路について、電車に乗った。幸せ。幸せ。頭の中で噛み砕いてみればみるほど、軽薄な言葉のように思えてきた。裕福な家庭で生まれ育った高校生が自分の幸せに想いをめぐらすくらいなら、不幸について話し合ってみた方がずっと有益じゃないかな。"幸せ"とかいう、毒にも薬にもならない2文字に、もっと深く、暗い場所に頭ごと沈められていくような気がする。私は仲のいいクラスメイトたちが苦労して幸福を絞り出したことに思いを馳せる。彼女達の中に手放しで自分が今幸福であると言えるような子なんてほとんどいないのを知っている。親しい友人しかいない鍵垢に希死念慮が満ちているのを、分かり合えない親に呪詛を吐いたと思えば、謝罪してもらったとか、スタバ奢ってもらったとかですぐ立ち直ったりするのを、それらすべてをそういう時期だからの一言で片付けられたりなんかしないのを。それでも先進国の、それなりに裕福に生まれた彼女たち。命が危ぶまれたことはない彼女たち。親と分かり合えない時もあるけど決して自分を愛していないとは思っていないし、友人だっている。それは幸せと呼ぶべきことなんじゃないだろうかと、無意識のうちであっても、思考したはずの彼女たち。
 高校三年生になって、受験は眼前に差し迫っていた。学校の先生たちは耳にタコができるほど繰り返した。「失敗」しないように毎日5時間以上勉強をしなさい。「失敗」した先輩たちは皆、授業の休み時間に寝てばかりいた。このままだと「失敗」する。失敗が何を指しているのかは明確だった。先生たちの求めるランクの大学に行けないこと。浪人すること。その言葉を聞く度になんとなく背筋が冷えた。はじめ、それは受験生としての自覚が出てきたからだと思い、言われるうちに、それがただの脅迫であることを悟った。私たちをこんなに熱心に教育してくれている先生たちですら、高ランクの大学に行けなければ、私たちに「失敗」の烙印を押すのだ。お酒もタバコも飲めない年齢の私たちに、本当の意味の失敗などあるわけがないのに。仮にそれが失敗だったとして、それを失敗だと決めるのは先生たちでもなければ、その判断を下すのにも、まだ時期が早すぎる。
 先生たちのことも学校のことも別に嫌いじゃないし、それを非難する権利なんて私にはない。彼らは私たちに社会で上手に生きるための型を与えてくれて、それは私たちに責任を負ってくれているからだ。ただ、私には社会は形のない巨大な肉塊のようなものに思われて、上手に生きるための正攻法とか処世術みたいなものがあるように思い込むのは錯覚じゃないかとも思う。現状に満足し感謝することを正義だと思い込み、失敗しないためだけに勉強するくらいなら。私にとって、上手に生きるということは、息が深く吸える場所で生きることだ。良い大学に入学してエリート人生を歩むことでもなければ、幸福を幸福だと思えるようになることでもない。だから、大人からの要請に生真面目に応えている時間があるのなら、自転車を走らせてカッパを探しに行く方がずっと有意義な気がするのだ。

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