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美しい人を推す、美しさを強いられる私たち

 私の朝は、枕元にお守りみたいに置いてあるスマホを開いて、時刻を確認するという名目で壁紙に設定した推しの顔を拝むことから始まる。ネットに転がっている数々の美しい静止画の中からわざわざ選んだのは、ライブ配信中の推しがまん丸の目をグッと近づけてコメントを読み上げている間抜けなスクリーンショット。別に大した意味はなくて、ただ私は、誰かにとっての推しとしての推しではなく、人間としての推しを愛しているのだと自分に言い聞かせたいのかもしれないし、そうやって同担にマウントをとりたいのかもしれないけど、推しにとっては計算したキメ顔でなくこの写真を選ばれるのは相当な迷惑だろう。迷惑だろうと想像することすら、一ファンとしては自意識過剰なんだろう。けれど、シャッターが切られる度にパッと花咲いては消えてしまいそうな美しい彼の姿より、この世界のどこかで今を生きていると実感できる彼の姿は、私を一日の重みから救いあげてくれる。
 寝ているうちにシーツの海に紛れてしまったワイヤレスイヤホンをなんとか探り当てて、推しのグループの曲を聴く。音楽用語はよくわからないけど、一番初めに聴くのは決まって、とにかくポップで、可愛らしくて、アイドルって感じで、サビで「君は綺麗だよ」と言ってくれる曲。昨日の夜は顔を洗わずに寝たし、今は朝マックを食べる気満々でいて、美意識の欠けらも無いくせに私は推しの「綺麗だよ」を朝起きるたび渇望する。聴く度に心臓がバクバクと脈打って血液を排出し身体中に巡っていくのを感じる。私はつくづく何を求めているのだろうか。自分自身でもその答えは導き出せそうにないけれど、美しくなるために日々苦労して、努力している子だけがその言葉を欲する権利があるわけじゃないはずだ。美しい人だけが得られる権利を沢山作ってブスを奮い立たせるのが最近の若い子の流行りみたいだけど、推しの綺麗だよは共有財産で、ルッキズムなんかでヒビが入ることを許されるものでは決して無いので私は聴く。明日の朝も明後日の朝も明明後日の朝もブスだけどちゃんと聴くしその度に生きることの尊さを感じて震えてみせる。本当は明日の朝、突然見違えるような美少女に生まれ変わってたらいいと思うし、今から断食を始めたら明明後日の朝には10キロくらい痩せてないかなっていつも考えてるし、この生きづらさは決して尊いことでもないと知っているけど、それを誤魔化して私は変わらない努力をする人間なんでってスタンスでへらへらしてる。

 ひとしきり推しの曲を聴き終わると、次は決まってTwitterを開く。基本リア友しかフォローしていないTwitterの鍵垢は、最初はなんでもかんでも日常の些細なことを呟くアカウントだったけど、最近は完全な推しアカウントと化している。
 リア友はだいたい私が以前通っていた学校の同級生で、2次元オタクというきっかけで仲良くなったのが、今ではみんなアイドルにハマって彼らもまたネットで拾ったそれぞれの推しの写真と一緒に「しぬ」とか「むり」とか「やばい」とか、適当な言葉ばっかり貼り付けてツイートしている。やばい今日の推しビジュアル良すぎ😭 推しの金髪軽率にしぬ… 推し生まれてきてくれてありがとう ふと、アイドルの綺麗な顔と省エネの為に単純化された言葉たちの隙間から「ごめんね」って四文字が顔を出して、思わず指を止めた。ごめんね、次からはあんまりこういう事言わないようにするね。これまで数え切れないほどのユーザーから抗議を受けたはずなのに、なぜか頑なに根を張り続けているtwitterのおかしな仕様のせいで、きっと本人の意思を無視してタイムラインに紛れ込んでしまったのだろうその個人的なリプライは、私も知っている人へ投げられたものだった。私と同様に、彼女のアカウントもまた親しいリア友しかフォローしていない鍵垢だったので、当たり前といえば当たり前だけど。けれど私の記憶の限りでは、双方とも決して軽々しく人を攻撃したり、揉め事を起こしたりするような性格ではなかった。下世話とは知りながらも、リプライをタップして詳細を開く。誰か私と〇〇くんの看板見に行こうよ。決して特別なものではないそのツイートには、殺伐とした言葉がすだれみたいにぶら下がっていた。少しずつ下に指を滑らせていくと、「行きたいけど、私ブスだから推しに会うの許されないかも笑」って何気ない自虐リプが現れて、それに対して「私自虐とか言われたら嫌な気持ちになるからまじでやめて」って一切オブラートに包まれていない鋭い言葉が続いて、最終的に例の「ごめんね」に会話が終了したのだった。

 美しい人を推す、美しさを強いられはじめた16歳の私たちはいつも何かと闘っている。
自虐を呟いた彼女はきっと、自分をあえて貶めることで相手の「そんな事ないよ」って否定の言葉を誘導していたわけではないと思うし、言い返した彼女だって、もっと別の言い方はあったにせよ決して相手を傷つけたかったわけじゃないのだろう。
 一度ホーム画面に戻って、ツイート画面を開く。「自信のある子は可愛いけど、誰も私たちに自信を与えてくれないのに自虐の一つや二つも許されなくなっているのは怖い」そこまで書いてから全て消して、その真っ白になった画面を埋めるように「イボ痔できたんだけどしぬwwwwwwwww」って書き直して、一瞬躊躇したけど即座にツイートボタンを押した。アイドルの綺麗な顔、省エネの為に単純化された言葉たち、その隙間から滲む泥臭い思想、それらを掻き分けるように顔を出す私のイボ痔。すぐ何人かからいいねされて、ふふって小さく笑う。

 最近、街を歩いていると泣きそうになる。
現実社会もTwitterみたいに親しい人だけを閉じ込めて、鍵をかけてしまえたらいいのに。
早足で街を行き交う人々だけが理解していて、私だけが知らないルールがあるような気がする。小学校の頃大嫌いだったサッカーの授業では、みんながボールを追いかけて波のように広がったり狭まったりして陣形を作っていく中で、私だけが何もわからずにコートの真ん中に突っ立っていて、みんなからどこか遠い国の言語みたいなので怒号を浴びせられて一人更衣室の隅で泣いたことがあったけど、そういうふうに、いつ誰からお前は出て行けと怒鳴られるかわからない恐怖に脅えている。そういう時、いつものようにイヤホンをつけて、推しの曲を聴いて自分を守ろうとするけど、それでも「君は綺麗だよ」の隙間から人々の足音とか、宣伝トラックの音楽とか、話し声とかがなだれ込んで上手く歩けなくなる。
 私が度々無理なダイエットをしようと心に決めてすぐ挫折するのも、無作為にわけも分からずコスメを集めてみるのも、全て彼らにしか理解できないルールを把握して、人並みの一員として認められる為なのだと思う。別にシュートを決めて英雄になりたいわけじゃない。ただボールを見たらすぐにどう動けばいいかがわかって、即座に足が出るようになったら、みんなの失望する顔を見ることも、怒る声を聞くこともなくて済むんじゃないか。なんの根拠もないけどブスであることさえやめたら、それが出来るんじゃないか。好きな服を着て、好きな髪型をして、一人にこにこしていても気持ち悪くなくて、自分の好きな足取りで歩けるようになったら。

 推しを宗教だという人々がいるけれど、きっとそれは間違いだと思う。なぜなら推しは、私たちに聖書や戒律を与えてくれない。私に生きていくためのルールを教えてはくれない。私の生活の中で、推しはたった唯一、一切の絶望のない場所としてクッキリと存在しているけれど、私の人生を希望の光で照らして案内してくれるわけではない。そんなことまで推しに望めない。宗教の発端は人々が死への恐怖心を手放すためだと聞いたことがあるけれど、推しを信仰している私は今、一人で歩くことすらちょっと怖い。
 もしかしたら、今の私が本当に信仰しているのは美しさという神なのかもしれないと思う。美しさという神は近づくほどに私に聖書や戒律を与えてくれて、死への恐怖はどうだかわからないけど生きていくことの恐怖は失わせてくれると思う、美意識の欠けらも無いくせに。少なくとも今の私は、それを信じて淡々と教徒としての役目を果たそうとしている。信仰のために断食しようとするし、同じ信仰を持つもの同士で忠誠心を確かめあったりする。そろそろ誰かこんなカルト宗教から救いあげてよ私を、と思うときに、私は決まって推しの「君は綺麗だよ」を聴く。

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