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11月15日の記録

言葉の多い家に生まれた。17年間、言葉の力を一度も疑わずに生きてきた。私にとって言葉は、他者と他者との境界線を甘く滲ませる水彩絵の具のようでもあり、行き場のない感情に居場所を与える暖かいこたつの中のようでもあり、アイデンティティを与えてくれる名刺のようでもあった。言葉はナイフだ、という標語みたいなものも有名だけど、私は、言葉は鋭さを持たないような気がしている。誰かを酷く傷つけ、時に死にまで追いやるのは大抵は言葉ではなく記号だと思う。
 私は読書が死ぬほど好きなわけでもなければ、文章が死ぬほど上手な訳でもない。死にもしないくせに、「死ぬほど」なんて形容詞を軽率に使ってしまうくらいの言語レベルしか持っていない。だけど、テクニックとしての巧みな言葉は使えないけれど、水彩絵の具やコタツや名刺としての言葉は人より少しだけ上手な気がしていた。言葉の持ちうる力を当たり前に信じていたし、全ての人がそれを受け取ってくれると信じていたからだ。

 大人、つまり世間的に大人とされる成人年齢に近づけば近づくほど、言葉を諦めなければならないことが多くなった。何かをたくさん語ることは誤解を生みやすいし、私と他者との温度差をグッと引き離す。言葉は絵の具どころかハードルになり、行き場の無い感情ばかりが増えて、私のためだけに生まれ死ぬ言葉が体の中で氾濫する。友人と何気ない会話をしている時、「どうしてそう思ったの?」なんて問いかけをすれば、時間が停滞する。授業中、一人だけ挙手して意見を言おうものなら「そういう人」として認識される。真面目な子、頭のいい子、語彙力がある子、考えるのが好きな子、あるいは空気の読めない子。
 言葉を諦めないことが、私という人間を形成するひとつのアイデンティティになってしまうのだということを、私はあまり信じたくない。言葉それ自体がその人の輪郭を形づけるのならいい。けれど自分の体の中でぽつりぽつりと沸き上がる思いを外在化するというのは、それほど特別なことだろうか?私はなにかそれに対して才能を持って生まれたのだろうか?もしそれなら私は諦め、選ばれたものとしての使命とちょっとした特権意識を抱えながら生きるだろう。このどうしようもない虚無を天才の苦悩に変換して悦に浸るだろう。けれどきっと違うのだ。私が今それによって苦しめられていることは歓迎されたものでは無いのだ。17年の人生の中でいつの間にか誰もが、上手に生きるための処世術を学んでいたのだ。転んでも容易く泣かないこと。嫌を嫌だと言わないこと。手段としての言葉を切り捨てること。私だけがたった一人取り残された。私だけが知らないまま生きた。それで、私だけが今、言葉を持て余している。

 教室の中。全員が同じ年齢で同じ国籍で同じ髪色をしていて、同じ服を着ているけれど、だれもが違う形の背骨を持っている。私はそれをこじ開けたいと思う。私が先に開示するから、あなたたちも私に開示させてほしいと思う。その歪をなぞらせてほしいと思う。私は、言葉だけが、会話だけが、対話だけがそれを成せると信じている。
 いろんなふうに喩えたけれど結局言葉は貨幣みたいだ。私がそれに価値があると信じ込んでいても、相手が信じられなければそこに価値は生じない。貨幣として信用されなければ通貨がただの紙切れや金属になってしまうみたいに、私が一方的に苛立っていても、どうせ受け止めてもらえないと諦めていても、そこにあるのはただの文字列だけなのだろう。
 今は苦しいけれど淡々としていようか。ただ疲れるだけだと人と関わるのを避けるようになっていたけれど、もう一度リスタートしてみようか。何の意味も持たない会話、俯瞰した気になって見下してるくせ笑いで誤魔化しているうちに本当におかしい気持ちになって腹の奥から笑い転げる瞬間、それでもって友人と別れたあとに体の真ん中に巣食う空虚さ、疲労感、欲求不満、それら全てに嫌気がさしていたけれど、もう一度。「もう一度」を繰り返し続けよう。今は持て余した無数の言葉たちも、そのうちいつか重みを帯びて誰かの中で価値になるのだと信じよう。そういうふうに今は、取り繕いながら生きよう。

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