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Forget Me Not(第4章)

これは何?
 絵を描けなくなった画家である日向理仁を中心に、湖畔で起きた失踪事件の解明を試みるお話。

第4章
 私は湖の上に浮かぶ曇天の空を眺めている。ひとこと「雲」と口にして思い描くイメージは、部屋の隅に人知れず溜まっている埃のようなものであった。繊細な心にずっしりと重くのしかかる。きっとこの地域に住む子供たちもみな、同じ感覚だろう。綿菓子?そんな清潔で誘惑のセンスを持つ夢の塊のようなものはここにはない。ないのだ。


 私は岸の林に目を移した。1匹のカラスがやってくる。無言。羽ばたきの音が波音に紛れて、微かに聞こえてくる。その翼が運ぶ身体をぼんやりと眺めていた。手にはオールドグラスに入ったウィスキー。ストレート。あまり気分ではなかったが。


 カラスは水面と並行して滑空し始めた。狩りだ。水面を時々ピチャリと跳ねる小魚を狙っている。彼は水中をどこまで見ることができるのだろうか。身体と同じように漆黒の瞳。カラスは、世界のどこにだって生息しているのだ。世界の、どこにだって。人間は自分たちの住む地域に合わせて、さながらカメレオンのように着衣や食事を変化させているところ、彼らカラスは均一である。イタリアであろうと、ドイツであろうと、イギリスであろうと、日本や台湾であろうと、一見して同じ姿をしている。すべては彼らの持つ黒色に吸収されている。黒。すべてを統合する色。すべてを自己の内に取り込むことができる。すべてを変換し、自己に適した形を作ることができる。彼らの一生は、こうした特殊性のもとで成立している。


 ピチャリ。ササッ。小魚が捕食された。カラスは食事を楽しむために林の中へ帰っていった。いったい、小魚はどうしてその生涯を終えることになったのだろう。あまりにも唐突で、しかし合理的な死。彼は今日、水面に向かって飛び出したとき、光を求めていたのかもしれない。雲の切れ目から射す一筋の陽光をひと目見たくて、その身に浴びたくて、勢いよく天に飛び出した。それはこの小魚にとって、そして湖に住む他の生き物たちにとってもまた、日常的な楽しみに過ぎないのだろう。慌ただしい日々を彩るほんの少しの、本当に些細な喜び。しかし。しかし、彼は一筋の光すら見れないまま、鋭いクチバシに捕らえられてしまった。闇の中へ。私だって小魚を食べる。そうしてこの命を生かしている。カラスも同じ。小魚も同じ。命は回ってゆく。


 ウィスキーを飲む手が止まった。グラスが空になっていた。

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