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Forget Me Not(第10章)

これは何?
 絵を描けなくなった画家である日向理仁を中心に、湖畔で起きた失踪事件の解明を試みるお話。

第10章
 「どうも、こんばんは。青葉です。ちょっと、一緒に飲みませんか。」
雨粒が屋根を叩く音に混じってインターホン越しに聞こえる声もまた、湿気を帯びていた。
何かしらの期待や希望で織られたソフトな手触りの布に包まれていながらも、そこから漏れ落ちる滴。

こういうものは立ち止まって分析するようなものではないことを私はよく知っていた。こういう種類の気配は、普段は大人しく良い子にしつけられている貴族のゴールデンレトリバーが”ここぞ”という時に吠えるように、研ぎ澄ませた直感を奮い立たせるのだ。
「何かを感じる!」とひとつ声をあげれば、使用人はもちろん主人だってその異常事態に気が付いて飛び出してくる。
そして事が進み、この直感が正しかった事が証明されればさらにこの能力への確信を強めていく。
主人は危険を回避し、使用人は日頃のしつけを褒められ、ゴールデンレトリバーはビーフジャーキーをもらう。
私がこの犬と違うのは、この三者が全部自分自身だということだけだ。
自分で危険を回避し、自分で自分自身の鍛錬を評価し、褒美のウィスキーを自分自身に振舞う。
「今、開けるよ」
来客用のスリッパを用意して、丁寧に玄関の扉を開けた。

 青葉は部屋に入るなり持ってきたボトルの包み紙を開き、マッカラン18年を取り出した。
「なかなか上等なものでしょう?自分用になんて中々買えるものではないんですから。けれど、今日はあなたと一緒にこれを楽しみたいと思って。」

私が青葉に会うといつも感じるのは、20代半ばの若さが放つ煌きには不自然なくらいの、内面の成熟さと品の良さだった。
端麗な容姿の中でひそかに育まれつつあった高貴なるものの種子が青葉本人に発見され、日光と水を十分に受けて育てられた。彼女の目や指先からは真っ白な微光が弾かれ、その美しさの端々が、私の目にはいつも眩しすぎた。
「君が持ってきてくれた酒がウィスキーであって、ワインでないことに心遣いを感じるよ。どうもありがとう。」
「人生はこうした、微妙なニュアンスに支えられていると信じていますから。私。」
戸惑いの潤いが少し滲んだ目で、青葉は答えた。

 私は青葉を4人掛けのダイニングテーブルに案内し、アイスピックで荒く削り出した氷を2個作った。マッカランを2個のオールド・ファッションド・グラスに注ぎ、それから2人分のチェイサーとピーナッツを用意した。開け放った窓から、心地よい風が吹き込んでいる。ラジオをつけると、ラヴェルの弦楽四重奏曲が流れてきた。
「みんな、あなたがダメになっちゃうんじゃないかって心配しています。」
青葉はウィスキーを口に含む前にこう言った。なるほどこれは確かにワインを飲みながらする話ではない。
「ありがとう。」
「・・・」
長い沈黙。ウィスキーだけが雄弁な語り手だった。
彼女の持ってきたこのウィスキーはまるで腹話術師の持つ人形のように、彼女の言葉を彼女に代わって伝えてきた。
私の内側に入り込み、心に直接語りかけてくるようだった。

「奥さんのこと、それから娘さんのことも忘れなくっちゃいけない。なんてことはないと思うんです。でもその・・・どこかでは折り合いをつけないと。あなたは、今、ここにいて、私と2人で一緒にウィスキーを飲んでいる。そして、こんなにも確かなことを、あなたの目の前で確かめている私がいる。ふふ。ちょっと笑えましたか?なんていうか、その、笑いましょうよ。きっと世の中は、おかしなこととか、くだらないことでいっぱいなんですよ。マッカラン、美味しいですか?」

 私はこの時、目の前に座る美しい女性が何かとても優しいことを自分に語りかけてくれていること、ただそのことだけを理解していた。
冬に飲む甘いホットカフェオレのような、じんとした温かみを帯びた声が、その柔らかなベクトルの照準を他の誰でもない私に向けて発せられていたことだけを理解していた。
わからなかったのはーなぜ彼女はこうも自分に良くしてくれるのかということと(これは彼女の職務に重ねられたものなのか、もしそうでなければその他のどんな理由で?)この好意にどう応えたら良いのだろうかということであった。

「もしも」

今にも消えてしまいそうな小さな火を、外側のあらゆるものから守るような慎重さで、私は切り出した。
「もしも明日、都合が良かったら、墓参りに付き合ってくれないか?」
「いいですよ。明日はお休みですし、他に予定もありませんから。」
「ありがとう。じゃあ、10時に君の家に行くよ。」
「わかりました。お待ちしていますね。」

 私たちは3分の2ほど残したウィスキーのボトルを見て微笑した。
チェイサーグラスは空になり、ピーナッツは殻だけが残った。キッチンに行き、これらを一緒に片付けた。丁寧に。ウィスキーは空気で風化してしまわないようにガスで膜を作って、封をした。次はいつこれを飲むだろうか。

 青葉はきちんと玄関から出て帰って行った。
−おやすみなさい。
−おやすみ。気を付けて。

彼女が出て行って少しした後で、私は今の自分の家には似つかわしくないものの存在に気が付いた。それは微かな甘い香りだった。青葉が身に付けていた香水の匂い。青葉はこの家に火を灯したのかもしれない、なんてことを思った。思った?”思いたかった”の間違いかもしれないな。
どちらにせよ、私はこの時あるひとつのことを見落としていた。仮に火が灯されたとするならば、その明るさと同時に生まれたもう一つのものの存在がある。影。影は確かにそこに生まれ、呼吸を始めていた。
小さく、荒く、そして、不誠実なほど大袈裟に。

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